「2014年8月15日の投書」朝日新聞
☆ 戦死した兄は靖国にはいない ☆
-無職 竹内昭子(愛知県;84歳)
『兵隊検査が丙種だった兄にも召集令状がきた。「僕に召集がくるようでは……。生きて帰れない」と悲痛な言葉を残して出征した。
1枚届いたきりのはがきに「ブーゲンビリアの花の下 南十字星に向かっています」とあって,南の方にいるのかと思ったが,戦後になってから戦死していたとしらせが届いた。流れ弾が頭に当たったということだった。
私は,海軍工廠(こうしょう)に学徒動員された。爆撃で同級生6人が亡くなった。「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれていた。1945年8月15日,敗戦。兄のことも同級生のことも本当に悔しく,悔しいまま毎年この時期を迎える。
A級戦犯が靖国神社に合祀されているとしったとき,なんと無節操なことかと腹立たしかった。兄は靖国にはいない。生家の墓にいると思っている。』
支那事変が激化して抽選制度が廃止される1939(昭和14)年までは,甲種,乙種合格者のうちから必要な人数が抽選で集められた。
しかし,大学や高等師範学校などの在学者は最高27歳まで徴集が延期されました。
この制度は1943(昭和18)年10月に廃止(学徒出陣)されたが,理工系や医科系の学生だけはなお猶予された。
後に年齢は20才から17才に引き下げられ、
師範学校卒業者は兵役につく期間が短くて済みました。
志願し15才、14才で兵士となるものもあり、11才小学生までいた(戦時国際法違反)のです。
これが戦争の実態であり、悲劇、戦況の悪化とはいえあまりの急場凌ぎである。こと沖縄に対しては「鳩ぽっぽ」と言われる地上練習機、「赤トンボ」と言われる練習機は燃料不足から100時間に満たない飛行訓練で特攻へと送られました。学生を送り出す教授からは必ず生きて帰れと言われる者達の心情を察するに余りあります。
戦争が悲惨であるのは戦う者達よりも残される側の悲痛な叫びは生きている限り消えることがないことで、冒頭の妹さんの叫び、戦争に対する憎悪は確実に国に向けられています。
それを踏まえた上でもう一度読み返してみると幾つかの事に気付きました。この様に細かく分析しながら読むこと自体が不謹慎と思われるかもしれませんが、朝日新聞ということで勘弁願いたい。
まず兄の死と友6人の死を同時に述べて憎悪を増幅させていますが、どの様ないきさつで6人が亡くなったかは書かれていません。まとめてかバラバラか、その時自分はどうだったのか、
友が死ぬのは悲しいことでしょうが、身内である兄と同列に話すのは違うと思います。
「生きて帰れない」と宣告されハガキたった一枚で還らぬ人になってしまった兄の最後が
「流れ弾が頭に当たった」です、これが事実だとして、これを彼女に伝えた者がいるか、彼女の創作かはわかりませんが、「無駄死」を強調させる言葉です。靖國には顕彰というものがあります、例え無駄死にでも勇敢に戦って国の為に死んでいったとします。
戦争の悲惨さは戦う前敵国に向かった憎悪が次第に被害者意識から自国の指導者に向けられてしまう事です。彼女に至っては靖國でさえ例外ではないのです。
この顕彰という遺族への思いやりの行為が死者を讃え、国、国民を戦争に駆り立てる為の行為と意図的に変えられ反戦、不戦の誓いとする勢力は明らかに遺族感情を利用し、踏みにじり反政府の立場で絶大な権力を持ち君臨するのです。
続いて、
長野県上伊那郡中川村の村長 2015年
中川村者・戦争犠牲者追悼式 式辞
を見てください。
〈前略〉
敗戦から70年が経とうとする今、現実の戦争がどういうものであるのか、その実態を経験し記憶する人の数はずいぶん少なくなってしまいました。夫や父親、兄弟を戦争で奪われ、頼りにすべき大黒柱を失って、つらく苦しい生活をなんとか乗り越えてこられた遺族の皆さんも、ご高齢になっておられます。今日に至るご遺族のご労苦はいかほどのものがあったことでしょう。また、将来の夢を奪われ、異国の地で、家族を残して死ななければならなかった兵士達は、どれほど悔しかったことでしょう。戦争の実態がどういうものか、戦争が何をもたらすのか、私たちはしっかりと引き継いでいかねばなりません。今年3月、村教育委員会から発行された冊子『終戦から七十年 平和への誓い』は、村に豊富に残る兵事資料をもとに、白木の箱でもどってきた兵士たちの村葬など、銃後の暮らしを紹介しています。しかしながら、そういう取り組みはあっても、日本全体としては、戦争の記憶は遠のいてしまっていると言わざるを得ません。
このような状況において、【戦争の悲惨さも愚かさも認識できない一部の「平和ボケ」の人たちが、日本を、戦争をする、普通の、志のない、低俗な国にしようとしています。安倍首相は国会で、「後方支援だから攻撃されない」とか「攻撃されないように護衛される」あるいは「攻撃されたら活動を停止する」と答弁しました。しかし、補給を断つために兵站部隊を奇襲攻撃することは戦争の常道です。かつて日本軍は兵站をないがしろにした無謀な作戦で、おびただしい兵士たちを餓死、病死させました。またしても、兵站の実際を軽んじた現実離れの空想によって戦争が語られています。】米国の国務長官を務めたキッシンジャー氏は、「軍事同盟は、抑止力として機能するよりも、どこかで起こった戦闘を瞬く間に同盟全体に広げる戦争導火線として機能する」と語ったそうです。集団的自衛権の行使は、自衛隊員を「気づいたら戦場に立っていた」という状況に置くことになります。国会でのやりとりを見ると、安倍首相は、ヤジを飛ばしたり、騒ぎ立てたり、冷静沈着さのかけらもありません。そんな人を最高指揮官として自衛隊の若者たちが戦場に送られようとしていることは、非常に心配です。与党政治家や外務省は、自衛隊員の命と身体を危険にさらすことによって、米国におもねているとしか思えません。
このありさまを見れば、かつて米軍との戦いに駆り出され、飢えに苦しみ、病に倒れ、機銃掃射の中に万歳突撃を強いられた兵士たちは、なにを思うでしょうか。「自分たちを戦わせた相手に、今度はこびを売って日本の若者たちを差し出すのか。こんなことになるなら、自分たちはなぜ死なねばならなかったのか。昔も今も、指導層が自分勝手でいい加減なことは、まったく変わるところがない。」そう考え、歯ぎしりをして悔しがることでしょう。
自衛隊員を新たな戦没者にしてはなりません。その家族を新たな遺族としてこの追悼式に迎え入れてもいけません。自衛隊員だけではありません。今の戦争は、テロとの戦争と言われるように、戦場でだけ行われるわけではないのです。軽々しい発言で敵を作れば、私たちの普段の生活の場でことが起こされるかもしれません。オリンピックだと浮かれている場合ではなくなるでしょう。
仮想敵国をつくり軍事力にものを言わせてそれを抑え込もうとするのは大間違いです。そうではなくて、やはり、【我々が憲法前文で誓ったとおり、日本だけでなく世界中のすべての人々が分け隔てなく、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」ことができるよう、「国家の名誉にかけ、全力をあげて…達成す」べく真剣に努力する。これこそが、先の戦争で犠牲にされた人たちの気持ちに応えることであるし、日本を誇れる国にすることです。】私たちの平和な暮らしを守ることにもなると考えます。
この努力を、この場におられる皆様とともに改めて誓い、中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式の式辞とします。
2015年6月4日 中川村長 曽我逸郎
さらに、安倍総理の
全国戦没者追悼式式辞です。
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。
いまだ、ふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも、決して忘れません。過日、パプアニューギニアにて、ジャングルで命を落とされ、海原に散った12万を超える方々を想い、手を合わせてまいりました。
いまは、来し方を想い、しばし瞑目し、静かに頭を垂れたいと思います。
日本の野山を、蝉しぐれが包んでいます。69年前もそうだったのでしょう。歳月がいかに流れても、私たちには、変えてはならない道があります。
今日は、その、平和への誓いを新たにする日です。
私たちは、歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。【世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。 】
終わりにいま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞と致します。
平成二十六年八月十五日
内閣総理大臣・安倍晋三
奇しくも【】で二人が述べていることはほぼ同じことです。村長は同じことを主張する安倍総理を被害者的立場で批判し、安倍総理は恒久平和に貢献すると述べている。戦後70年が経過し、戦没者遺族も減り被害感情を持たずに先の大戦を見直し戦争と平和を考える時期が訪れています。
食料物資の補給つまり「兵站」をないがしろにしたと旧日本軍は批判されます、ここにも無駄死にの被害者の論理が見え隠れします。
当時国内で米は兵士に回され麦や芋が主食でした。南方方面の補給船は米軍に沈められていたのです、それでなくても物資は不足しておりましたからそれを取り上げ「兵站」を非難すること自体が間違いであることに気付きます。
無謀な戦争であったことは間違いのない事実です、問題は被害者の論理が日本軍批判だけにとどまらず、悪辣非道なことをしたという事実無根の印象操作で、反戦平和を被害者的意識で唱える事の過ちと言えるでしょう。
☆ 戦死した兄は靖国にはいない ☆
-無職 竹内昭子(愛知県;84歳)
『兵隊検査が丙種だった兄にも召集令状がきた。「僕に召集がくるようでは……。生きて帰れない」と悲痛な言葉を残して出征した。
1枚届いたきりのはがきに「ブーゲンビリアの花の下 南十字星に向かっています」とあって,南の方にいるのかと思ったが,戦後になってから戦死していたとしらせが届いた。流れ弾が頭に当たったということだった。
私は,海軍工廠(こうしょう)に学徒動員された。爆撃で同級生6人が亡くなった。「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれていた。1945年8月15日,敗戦。兄のことも同級生のことも本当に悔しく,悔しいまま毎年この時期を迎える。
A級戦犯が靖国神社に合祀されているとしったとき,なんと無節操なことかと腹立たしかった。兄は靖国にはいない。生家の墓にいると思っている。』
支那事変が激化して抽選制度が廃止される1939(昭和14)年までは,甲種,乙種合格者のうちから必要な人数が抽選で集められた。
しかし,大学や高等師範学校などの在学者は最高27歳まで徴集が延期されました。
この制度は1943(昭和18)年10月に廃止(学徒出陣)されたが,理工系や医科系の学生だけはなお猶予された。
後に年齢は20才から17才に引き下げられ、
師範学校卒業者は兵役につく期間が短くて済みました。
志願し15才、14才で兵士となるものもあり、11才小学生までいた(戦時国際法違反)のです。
これが戦争の実態であり、悲劇、戦況の悪化とはいえあまりの急場凌ぎである。こと沖縄に対しては「鳩ぽっぽ」と言われる地上練習機、「赤トンボ」と言われる練習機は燃料不足から100時間に満たない飛行訓練で特攻へと送られました。学生を送り出す教授からは必ず生きて帰れと言われる者達の心情を察するに余りあります。
戦争が悲惨であるのは戦う者達よりも残される側の悲痛な叫びは生きている限り消えることがないことで、冒頭の妹さんの叫び、戦争に対する憎悪は確実に国に向けられています。
それを踏まえた上でもう一度読み返してみると幾つかの事に気付きました。この様に細かく分析しながら読むこと自体が不謹慎と思われるかもしれませんが、朝日新聞ということで勘弁願いたい。
まず兄の死と友6人の死を同時に述べて憎悪を増幅させていますが、どの様ないきさつで6人が亡くなったかは書かれていません。まとめてかバラバラか、その時自分はどうだったのか、
友が死ぬのは悲しいことでしょうが、身内である兄と同列に話すのは違うと思います。
「生きて帰れない」と宣告されハガキたった一枚で還らぬ人になってしまった兄の最後が
「流れ弾が頭に当たった」です、これが事実だとして、これを彼女に伝えた者がいるか、彼女の創作かはわかりませんが、「無駄死」を強調させる言葉です。靖國には顕彰というものがあります、例え無駄死にでも勇敢に戦って国の為に死んでいったとします。
戦争の悲惨さは戦う前敵国に向かった憎悪が次第に被害者意識から自国の指導者に向けられてしまう事です。彼女に至っては靖國でさえ例外ではないのです。
この顕彰という遺族への思いやりの行為が死者を讃え、国、国民を戦争に駆り立てる為の行為と意図的に変えられ反戦、不戦の誓いとする勢力は明らかに遺族感情を利用し、踏みにじり反政府の立場で絶大な権力を持ち君臨するのです。
続いて、
長野県上伊那郡中川村の村長 2015年
中川村者・戦争犠牲者追悼式 式辞
を見てください。
〈前略〉
敗戦から70年が経とうとする今、現実の戦争がどういうものであるのか、その実態を経験し記憶する人の数はずいぶん少なくなってしまいました。夫や父親、兄弟を戦争で奪われ、頼りにすべき大黒柱を失って、つらく苦しい生活をなんとか乗り越えてこられた遺族の皆さんも、ご高齢になっておられます。今日に至るご遺族のご労苦はいかほどのものがあったことでしょう。また、将来の夢を奪われ、異国の地で、家族を残して死ななければならなかった兵士達は、どれほど悔しかったことでしょう。戦争の実態がどういうものか、戦争が何をもたらすのか、私たちはしっかりと引き継いでいかねばなりません。今年3月、村教育委員会から発行された冊子『終戦から七十年 平和への誓い』は、村に豊富に残る兵事資料をもとに、白木の箱でもどってきた兵士たちの村葬など、銃後の暮らしを紹介しています。しかしながら、そういう取り組みはあっても、日本全体としては、戦争の記憶は遠のいてしまっていると言わざるを得ません。
このような状況において、【戦争の悲惨さも愚かさも認識できない一部の「平和ボケ」の人たちが、日本を、戦争をする、普通の、志のない、低俗な国にしようとしています。安倍首相は国会で、「後方支援だから攻撃されない」とか「攻撃されないように護衛される」あるいは「攻撃されたら活動を停止する」と答弁しました。しかし、補給を断つために兵站部隊を奇襲攻撃することは戦争の常道です。かつて日本軍は兵站をないがしろにした無謀な作戦で、おびただしい兵士たちを餓死、病死させました。またしても、兵站の実際を軽んじた現実離れの空想によって戦争が語られています。】米国の国務長官を務めたキッシンジャー氏は、「軍事同盟は、抑止力として機能するよりも、どこかで起こった戦闘を瞬く間に同盟全体に広げる戦争導火線として機能する」と語ったそうです。集団的自衛権の行使は、自衛隊員を「気づいたら戦場に立っていた」という状況に置くことになります。国会でのやりとりを見ると、安倍首相は、ヤジを飛ばしたり、騒ぎ立てたり、冷静沈着さのかけらもありません。そんな人を最高指揮官として自衛隊の若者たちが戦場に送られようとしていることは、非常に心配です。与党政治家や外務省は、自衛隊員の命と身体を危険にさらすことによって、米国におもねているとしか思えません。
このありさまを見れば、かつて米軍との戦いに駆り出され、飢えに苦しみ、病に倒れ、機銃掃射の中に万歳突撃を強いられた兵士たちは、なにを思うでしょうか。「自分たちを戦わせた相手に、今度はこびを売って日本の若者たちを差し出すのか。こんなことになるなら、自分たちはなぜ死なねばならなかったのか。昔も今も、指導層が自分勝手でいい加減なことは、まったく変わるところがない。」そう考え、歯ぎしりをして悔しがることでしょう。
自衛隊員を新たな戦没者にしてはなりません。その家族を新たな遺族としてこの追悼式に迎え入れてもいけません。自衛隊員だけではありません。今の戦争は、テロとの戦争と言われるように、戦場でだけ行われるわけではないのです。軽々しい発言で敵を作れば、私たちの普段の生活の場でことが起こされるかもしれません。オリンピックだと浮かれている場合ではなくなるでしょう。
仮想敵国をつくり軍事力にものを言わせてそれを抑え込もうとするのは大間違いです。そうではなくて、やはり、【我々が憲法前文で誓ったとおり、日本だけでなく世界中のすべての人々が分け隔てなく、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」ことができるよう、「国家の名誉にかけ、全力をあげて…達成す」べく真剣に努力する。これこそが、先の戦争で犠牲にされた人たちの気持ちに応えることであるし、日本を誇れる国にすることです。】私たちの平和な暮らしを守ることにもなると考えます。
この努力を、この場におられる皆様とともに改めて誓い、中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式の式辞とします。
2015年6月4日 中川村長 曽我逸郎
さらに、安倍総理の
全国戦没者追悼式式辞です。
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。
いまだ、ふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも、決して忘れません。過日、パプアニューギニアにて、ジャングルで命を落とされ、海原に散った12万を超える方々を想い、手を合わせてまいりました。
いまは、来し方を想い、しばし瞑目し、静かに頭を垂れたいと思います。
日本の野山を、蝉しぐれが包んでいます。69年前もそうだったのでしょう。歳月がいかに流れても、私たちには、変えてはならない道があります。
今日は、その、平和への誓いを新たにする日です。
私たちは、歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。【世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。 】
終わりにいま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞と致します。
平成二十六年八月十五日
内閣総理大臣・安倍晋三
奇しくも【】で二人が述べていることはほぼ同じことです。村長は同じことを主張する安倍総理を被害者的立場で批判し、安倍総理は恒久平和に貢献すると述べている。戦後70年が経過し、戦没者遺族も減り被害感情を持たずに先の大戦を見直し戦争と平和を考える時期が訪れています。
食料物資の補給つまり「兵站」をないがしろにしたと旧日本軍は批判されます、ここにも無駄死にの被害者の論理が見え隠れします。
当時国内で米は兵士に回され麦や芋が主食でした。南方方面の補給船は米軍に沈められていたのです、それでなくても物資は不足しておりましたからそれを取り上げ「兵站」を非難すること自体が間違いであることに気付きます。
無謀な戦争であったことは間違いのない事実です、問題は被害者の論理が日本軍批判だけにとどまらず、悪辣非道なことをしたという事実無根の印象操作で、反戦平和を被害者的意識で唱える事の過ちと言えるでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます