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琉球新報の昭和天皇実録が編纂された時の社説であるが、
昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられていると書いている。
①最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。
②二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。
③三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。
私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。
天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。
沖縄に関する限り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。
この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。
と報じているが?実際にはどうだろうか。
まず、①の終戦の時期だが、結果だけを考えれば『捨て石』も理解できない事はないが、国民は一億総特攻と本土決戦は覚悟していたこと、
沖縄防衛の為の菊水作戦、戦艦大和を沖縄に付け砲台にするなどを考え6月の占領で相当に終戦を決意されたに違いない。
②の和平交渉要綱の一文はあくまで近衛の上奏文にはなく、陛下の知るところではない。
上奏で述べた軍部内革新派の陰謀の証拠として今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)には満州の北半分をソ連に割譲とあり、
昭和14年12月18日から昭和20年8月5日まで参謀本部戦争指導班に勤務した種村佐孝大佐が「対ソ外交交渉要綱」として作成した『今後の対ソ施策に対する意見』の中に沖縄が明記してある。彼は共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受けている。
③沖縄メッセージまた天皇メッセージはその米軍基地に対する意識から曲解している事が伺えるが、日本に主権を残したままの状態の軍事占領の意味はまさしく共産勢力への抑止力としての基地である証なのだ。そのメッセージは沖縄を護る為のものに他ならない。
明治からの近代化に伴い天皇陛下の大御宝となったことは琉球王国と江戸時代の違いのみで共に日本人として生まれ変わっただけであることなのだ。
捨石との被害妄想は止めるべきである。このマスコミ主導に県民は振り回されているだけとの
見方も最近は取り沙汰されるが、
日本軍9万人以上、沖縄県民9万人以上合わせて20万人の被害者を出してしまった県民感情を
自分達のイデオロギーだけに利用し、再び県民感情を煽るのは止めて頂きたい。
戦争責任、戦後責任を未だに持ち出す沖縄の新聞、大学はそろそろ沖縄から独立した方が賢明であるとも付け足しておく。
最後に先帝陛下の御製で終わります。
「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」
(大意)
おもいもよらず病をえてしまった。私は沖縄を訪問し、果たさなければならない「つとめ」があるのに、、
私は沖縄に行かなければならないのに、病をえて沖縄にいけずにいる。
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