盧溝橋事件を考える前に頭に入れておかなければならないことがあります。
「敗戦革命」です。
レーニンが編み出した理論です。
彼が母国のロシア帝国で成功させた共産主義革命をモデルとした革命思想のことです。
1)帝国主義国家同士を謀略でもって、お互いを戦争させる。
2)戦争当事国を疲弊させ、戦争による不満を充満させ、国家元首と国民を離間させる。
等々。
支那事変(日本ではまだ日中戦争)へと突入するきっかけとされています。当時中国でも戦争でもないこの戦いが何故日中戦争と呼ばれるのか
その謎が解けるポイントとなる事件でもありますので、皆さんも御自分でお調べになることをお勧めして、本題に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/95/7eb12be4dafd51704b017ab0eea9042c.jpg)
当時、盧溝橋の近くで、現地に駐屯していた日本軍は夜間演習を行っていました。
日本軍駐屯地の近くには、支那・国民党軍(蒋介石軍)も駐屯していたのですが、銃撃を受けた日本軍は、その銃撃が国民党軍によるものと思いこみ、遂に日本軍と国民党軍の武力衝突となります。
これが盧溝橋事件です。
日本軍が最初に銃撃を受けた際 、日本軍は「丸腰」つまり、演習の為、実弾を携行していなかったのです。
ですから、橋本群陸軍中将(駐屯軍参謀長)も当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しています。
実は事件当時、当の国民党軍も、銃撃を受けているのです。
盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込みましたが、反対に、国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んだ訳です。
この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのですが、現地解決・事件不拡大方針で交渉、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んだのです。
つまり、日本軍はこれ以上、事を荒立てたくは無い、と言った訳で、支那との全面戦争等、最初から欲してはいなかった訳です。
7月8日、つまり、「盧溝橋事件」発生の翌日、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けているのです。
間違いなく共産党は、事件が起きる事を知っていました。実は、「盧溝橋事件」共産党による「謀略」だったからです。
つまり、共産党の工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦する様にし向けたのです。
「盧溝橋事件」は、共産党による「謀略」だった。当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、「起死回生」を図る為、
日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、支那全土の支配権を得ようと考えたのです。
結果的に狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期に支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になりました。
更に、その後、共産党は国共内戦で国民党に勝利し、遂に支那全土の支配権を獲得、昭和24年「中華人民共和国」を建国したのです。
いかがでしょうか中国4000年の歴史は全くの嘘800なのです。唯一諺だけが残っていたのかもしれませんね。
『漁夫の利を得』
「敗戦革命」です。
レーニンが編み出した理論です。
彼が母国のロシア帝国で成功させた共産主義革命をモデルとした革命思想のことです。
1)帝国主義国家同士を謀略でもって、お互いを戦争させる。
2)戦争当事国を疲弊させ、戦争による不満を充満させ、国家元首と国民を離間させる。
等々。
支那事変(日本ではまだ日中戦争)へと突入するきっかけとされています。当時中国でも戦争でもないこの戦いが何故日中戦争と呼ばれるのか
その謎が解けるポイントとなる事件でもありますので、皆さんも御自分でお調べになることをお勧めして、本題に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/95/7eb12be4dafd51704b017ab0eea9042c.jpg)
当時、盧溝橋の近くで、現地に駐屯していた日本軍は夜間演習を行っていました。
日本軍駐屯地の近くには、支那・国民党軍(蒋介石軍)も駐屯していたのですが、銃撃を受けた日本軍は、その銃撃が国民党軍によるものと思いこみ、遂に日本軍と国民党軍の武力衝突となります。
これが盧溝橋事件です。
日本軍が最初に銃撃を受けた際 、日本軍は「丸腰」つまり、演習の為、実弾を携行していなかったのです。
ですから、橋本群陸軍中将(駐屯軍参謀長)も当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しています。
実は事件当時、当の国民党軍も、銃撃を受けているのです。
盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込みましたが、反対に、国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んだ訳です。
この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのですが、現地解決・事件不拡大方針で交渉、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んだのです。
つまり、日本軍はこれ以上、事を荒立てたくは無い、と言った訳で、支那との全面戦争等、最初から欲してはいなかった訳です。
7月8日、つまり、「盧溝橋事件」発生の翌日、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けているのです。
間違いなく共産党は、事件が起きる事を知っていました。実は、「盧溝橋事件」共産党による「謀略」だったからです。
つまり、共産党の工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦する様にし向けたのです。
「盧溝橋事件」は、共産党による「謀略」だった。当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、「起死回生」を図る為、
日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、支那全土の支配権を得ようと考えたのです。
結果的に狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期に支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になりました。
更に、その後、共産党は国共内戦で国民党に勝利し、遂に支那全土の支配権を獲得、昭和24年「中華人民共和国」を建国したのです。
いかがでしょうか中国4000年の歴史は全くの嘘800なのです。唯一諺だけが残っていたのかもしれませんね。
『漁夫の利を得』
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