天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

満州事変

2014-07-19 00:45:00 | 歴史



保守派の中でも中国に対しての侵略はあった。

満州事変は関東軍の暴走である。

と、まことしやかに囁かれるが

中々洗脳から目覚めない
者にとっての最期の砦とも言える。

満州事変の真実を探究することで
大日本帝国陸軍の汚名返上が出来るのである。

当時の大陸を見れば一目瞭然、"中央集権国"など存在していない、
万里の長城の内側すら統一されていないのだ。

まず時系列で見る為の年表を


〈明治33年〉にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた

〈明治37年2月~38年9月 〉日露戦争
満州鉄道とそれに付随する土地を獲得



〈昭和3年 〉張作霖爆殺事件 関東軍が軍閥の張作霖を爆殺?

〈昭和6年 9月18日〉満州事変、柳条湖事件、奉天事件、9.18事件 板垣征四郎と石原莞爾の関東軍が満鉄線路爆破
        
満州(現中国東北部)全土の占領

〈昭和7年〉満州国設立
結果 関東軍、政府や天皇陛下の事変不拡大の方針を無視、満州国を建国 中国人の日本人憎悪激化、アメリカとの利益衝突

〈昭和8年5月31日〉の塘沽協定成立

〈昭和12年7月7日〉 盧溝橋事件

〈昭和12年7月29日〉 通州事件 北京の東約12キロの地点にあった通州で日本人居留民が保安隊に襲撃され、385名のうち223名が虐殺
この保安隊は、皮肉にも親日政権と見られていた冀東防共自治政府の所属で、蒋介石軍でも中共軍でもない。
保安隊では、蒋介石軍が攻めて来れば親日政府の軍人は処刑されるから、日本人を殺せば
抗日運動だと認められ助かるという、トンでもない動機との説もある。
このような状況から、日本の新聞が一般人に対する虐殺を元に、世論を煽ったスローガンが
”暴支膺懲”
例として、東京朝日新聞(後の朝日新聞)が、現地特派員が天津から財産を捨て避難する
邦人を見ての現地ルポに、この言葉を使っています。
当然、陸軍も邦人保護を理由に、現地への軍の派遣や軍事行動を強化します
結果 暴支膺懲、支那軍の鬼畜性等と国民の反中感情が爆発した。

〈昭和12年11月〉第二次上海事変に投入された松井石根司令官率いる上海派遣軍と第10軍は、軍中央の方針を無視して首都 南京に攻め上った。

12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。

12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、

12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、

12月10日、日本軍は進撃を開始し、

12月13日に南京城に入城した。なお、当時の上海軍発表によると、南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、 我が方戦死八百、戦傷四千、 敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である。

〈昭和13年12月〉五相会議猶太人対策要項決定
〈昭和16年12月8日〉開戦以降 アメリカが支援して以前から創設された、フライングタイガースと日本軍機の初戦闘



デマで良く耳にするが、通州事件から邦人を守るために満州事変があった訳では無い。


当時の満州では、鉄道をめぐる事件が頻発していた。数年間の間に100件以上も鉄道爆破事件があった。

満州には匪賊と呼ばれるテロリストたちは推定100~300万人いたといわれる。

「土匪」(いわゆる馬賊)のほかにも「半農半賊」(状況次第で匪賊になる連中)、「宗教匪」(宗教的秘密結社)、「政治匪」(敗残兵たち)、「共匪」(共産ゲリラ)

昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件を数えた。


関東軍は1万強しかおらず、しかも鉄道沿線に配置されているので分散している。

対する張学良軍は奉天に5万、満州各地合わせると26万5000人だ。

それに張軍は歳入の80%を軍事費にあて、優秀な装備を持っていた。

東京から24センチ重砲を密かに奉天へ運ばせた。

それでも兵力の差は歴然としており、

張軍兵士は夜間になると武器を持って営外にでて強盗、

強姦など繰り返して市民から批判されていたため、

張学良は兵器の悪用を警戒し、昼間の演習がすむと夜間は兵士たちから銃器をとりあげて

武器庫におさめてしまうことがあった。

そこで関東軍は夜間の攻撃を計画し、さらに

事前に夜間演習をを繰り返しておいて、油断させる。

そして9月18日深夜、柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発したのを合図に

張学良と配下6700が駐屯する北大営の門に向けて

重砲を撃ち込み張軍は突然の攻撃に武器を倉庫にしまっていたため大掛かりな反撃ができず

ほうほうの態で逃げだした。その後の作戦は電光石火のように進み、

翌年はじめには満州全土を制圧した。

こうして、奉天では商人や市民の代表たちが自治委員会をつくり、

支那とは絶縁して民意にもとづく新政権の樹立を目指した。

奉天に呼応する形で遼寧や吉林の各省も独立宣言を行ったが、

昭和7年3月、奉天からの代表700人のほか、

満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、東省特別朝鮮人、モンゴル人、各種団体などが参加して

「満州建国宣言」
を行い、支那からの離脱を宣言した。

張軍閥の執拗な嫌がらせから発生したのである。

次にその嫌がらせの内容は、

条約違反、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、

日本人に対する土地貸与の禁止、森林採筏の禁止、鉄道運行妨害、

強盗、鉄道施設の略奪、電線の略奪・・・

張軍閥は日本に対してだけではなくソ連に対しても北満州の鉄道を強制回収したため紛争が起こっている。

次第に張軍閥の要求は次第にエスカレートし、関東軍の駐兵権を無効とする撤兵要求、

満鉄の接取も要求してきます。現地在留日本人は危機感を募っていく。

特に迫害されたのは朝鮮人で「鮮人駆逐令」を出して追放にかかる。

そして万宝山事件で抗争が起こり、朝鮮人は激昂する。

同じ時期の昭和6年6月、中村大尉殺害事件が発生。

中村大尉は対ソ戦を想定した地図を作成するために偵察を行っていたが、

奉天軍につかまり、凄惨なリンチの末に惨殺され、これも日本国民を激昂させた。 

以上三点、張軍閥の嫌がらせ、朝鮮人を守るため、中村大尉暗殺が引き金となり、

朝日新聞が煽って日本国民が激昂し関東軍が迫られた結果の事変であった。

帝国陸軍はただの一度たりとも侵略行為などしていない。

暴走、侵略と捉えるのは戦後支那目線であり、
作戦であり、戦争ではなくあくまで事変であると考えるのが、日本側の目線である。

満州事変は警備上の作戦であった。この事変の要因は上記の三点にコミンテルンの影響も色濃く加わっている事も付け足しておく。

朝鮮進駐軍

2014-07-18 17:18:40 | 歴史
在日朝鮮人にとってタブーとされる言葉がある。

「三国人」「朝鮮進駐軍」だ

どちらも戦後の混乱期、在日朝鮮人が発生した時の呼称だ

何故タブーなのか?

そう呼ばれると、とって返したように民族差別と反撃する

タブーとなった在日のルーツについて日本人ならば知らなければならない

在特会が朝鮮進駐軍について掲載した写真の信憑性から

無きもののような扱いにされているが

タブーは日本人にとってでなくあくまでも在日にとってのタブーなのだ

在日朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、

終戦と同時に「朝鮮進駐軍」を自称し、

日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。


●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃●
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「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。

約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。

日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。

そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。

戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず

勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、

三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。

在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、

勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。

GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。

戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、

土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。

「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。

これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。

そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、

食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。

財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。

「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。

無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。

在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。

彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、

手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、

無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。

袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。

警官が駆けつけても手も足もでない。

終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、

「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」

と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。

当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。

これを受けて述べたのが、マッカーサーの
「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。


戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。

富田メモ

2014-07-17 06:52:15 | 歴史
以前、靖国神社松平宮司と宮内庁の徳川侍従長の対立について書いたが

今回はそれを更に広げ靖国と宮内庁の対立から日本人と反日日本人の対立にまで

拡大させ天皇陛下の御親拝の中断、再開への希望まで考えてみたい。

当初、天皇陛下の御言葉として世に出た富田メモだが

あまりのセンセーショナルな登場で戦犯合祀が中止の理由であると印象付けられ

今でも信じてそのままの方が多いのではないだろうか


徳川氏の長男も内容が親父のいっていることと似ている

の証言もある。

また左下の2行の小さなメモの右側「そうですがが多い」

とあるが陛下はですます調を使われない

『そうだが』となるなど

後に徳川侍従長の発言のメモであることが疑う余地のない
事実となるのだが

ここで対立構造に変化が現れる。1対2となった1は靖国であるが

2が徳川(宮内庁)とメディアの対立構造となった。

徳川侍従長とメディアは両者共に戦犯合祀を問題化していることが解る。

もうお気づきだと思うが、合祀を巡っての対立がメディアによって歪曲されている。

つまり御親拝中断が戦犯合祀によるものである、と明らかに意図を持ち

富田メモを持ち出して捏造しているのだ。

未だに昭和天皇の御親拝中断が戦犯合祀によるものであると信じて疑わない方が多い事に驚かされる。

ではひとまず天皇陛下の御親拝中断は考えずに

所謂A級戦犯の合祀の件について宮内庁、メディアの立場からそれぞれ考察したい。

まず徳川侍従長、宮内庁サイドは所謂A級戦犯の中に病気保釈中の死、軍人以外がいる

ことと、そもそも彼等は祀る側の人だと言うことだ。

メディア側は一般の戦死者と戦争を指導していた者が祀られる事を問題視している。

微妙に両者は違うのだが反靖国神社と言う点では同じだ。

中、韓がメディアの主張を取り入れて首相参拝を問題視する。

昭和33年までに全ての戦犯は赦免、釈放され、処刑された7人も公務死とされている。

それを承知のうえでメディアは絶妙なレトリックで

戦犯合祀が陛下御親拝中断と
結び付けていくのである。

宮内庁はさておいても

メディア、中、韓、反日日本人はある一点で共通して靖国問題を騒ぎ立てている

この事に気付けば靖国問題など捏造で造り上げた絵空事である事が結論付けられる。

この集団が捏造、天皇陛下を利用してまで隠したい事

それは、日本は先の大戦で侵略も植民地支配もしていない
いい国だった。

と言う点を寄ってたかって隠しているとしか思えないのです。

言葉にせずとも靖國はそのことを70年変わらず主張してきた。

政治的な解決が困難であるからこそ靖國神社があらゆる敵と寡黙に戦ってきたのです。

日本政府に求められているのはあらゆる歴史家を駆使し

新たな談話をだし、一刻も早く御親拝を再開させることであって、

決して新しい国営の慰霊施設など造ることではない。

この事が広く国民に浸透し理解され靖國と一体となったとき天皇陛下の御親拝は再開されるでしょう。

教育勅語

2014-07-16 23:20:36 | 歴史

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

御名御璽

 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことをこい願っています。

明治二十三年十月三十日

神道

2014-07-15 12:56:37 | 歴史

久米邦武は岩倉遣欧使節団に随行し、帰国後その視察の詳細を

『特命全権大使米欧回覧実記』(全100巻)

にまとめた人物で
近代歴史学の先駆者です。

この「神道ハ祭天ノ古俗ナリ」は、久米が神道について述べた論文で、

表題どおり、神道とは自然崇拝(アニミズム)に属する古くからの習俗であって、

教条的な宗教ではない、という主張でした。

神道は形ある神々を祀る宗教ではなく、東洋全体に共通する

『天を祀る思想』に基づく古い習俗に過ぎない。

「神道は宗教なんかじゃないよ、ただのアニミズムだよ」

というのはひじょうに都合の悪い真実でした。


久米は論理的な反論ではなく、「無礼だ、不敬だ」と非難され、職を追われることになったのでした。

これが「神道ハ祭天ノ古俗」筆禍事件です。

要するに日本は古来、諸外国のアニミズムとは全く異質な文化を持っていた事を述べています。

其れは天文を基本とした先祖祭りであり、その祭りの場は常に清潔な場として守られて来た

諸外国からの脅威に対抗しうる国造りに必要不可欠なもの

「国家神道」であり、国を宗教で一つにまとめる必要があったのです。

明治の王政復古によって、奈良~平安時代の律令制の官制が復活します。

当然、まったく時代に合わず、たいへんな混乱が生じました。

このときに、神祇官という官職が復活しました。

神祇官とは宗教政策を担当する役人ですが、これが意外なほど高い地位を得ることになります。

神祇官に就任したのは、国学者たちで、かれらが神道の国教化をおしすすめ、

神仏分離令を出して廃仏毀釈を主導するなど、

日本の伝統文化を著しく破壊したのでした。

制度としての神祇官はすぐに廃止されましたが、

神祇省、教部省と名前をかえて、神道の国教化は継続されました。

国教化する以上、神道は「宗教」でなくては困ります。

神道は宗教であるのか否か。これは仏教伝来以降、神道がずっとかかえてきたテーマでした。

神道にはキリストや仏陀のような教祖や教主はいませんし、

なによりも神道にはドグマ(教義、教え)がありません。

宗教と呼べるような要件をそなえていないのです。

奈良時代以降、神仏習合が進みます。そして、

神仏をともに集合するための理論として本地垂迹説が唱えられ、

その後は山王一実神道、両部神道、伊勢神道、吉田神道

といったさまざまな神道説が唱えられます。

これらの神道説は、すべて「神道を宗教の様に見せたい」

という願望によって生み出されたものでした。

さらに、江戸時代にはいると、儒家神道というのが唱えられます。

これは神仏ではなく、神道と儒教をいっしょにしようとするものでした。

仏教や儒教といっしょにしないと、神道は宗教とはよべないものだったわけです。

しかし、江戸時代後期になって、平田篤胤という国学者が登場して、

復古神道というものを唱えます。

復古神道とは、神道を仏教伝来以前の姿に戻すという主張でしたが

実際は仏教伝来以前の神道などはまさしくアニミズムにすぎないので

平田一派があれこれと創作をした珍奇な宗教になってしまいました。

平田篤胤が唱えた排他的な国学と神道が

幕末の尊皇攘夷運動の思想的背景となった関係から

明治はじめに神祇官となったものは、平田篤胤の信奉者だったといういきさつがあります。

この視野がせまく、偏狭で、教条的な神道家たちに

よって久米は職を奪われ
神道は宗教であると

確定し国家神道が確立していくのです。

さて靖國神社の生い立ちに疑いや、反対の目で捉えるのであれば

この神道を宗教としてしまったただ一点だけなのですが、

この外圧に迫られた時代に久米の様に、職や命に代えて

反対出来る人がいたのでしょうか、明治新政府に物言える人物が存在したのでしょうか

神道は宗教にあらずとして
また歴史の浅い神社であると

靖國神社を攻撃、批判出来るのでしょうか

先人の国策として人が神となる確かに我々日本人と日本を英霊となり死守してくれた

その歴史は時代や年月の問題ではなく、また宗教やアニミズムなど超越して

靖國神社として確かに存在しているのです。

政教分離などとして国家と靖國を切り離す思考は

日本人として大変愚かしい事であり日本人が日本人自らのアイデンティティーを否定する

自殺行為に等しいのです。

靖國問題などないのです。