
保守派の中でも中国に対しての侵略はあった。
満州事変は関東軍の暴走である。
と、まことしやかに囁かれるが
中々洗脳から目覚めない
者にとっての最期の砦とも言える。
満州事変の真実を探究することで
大日本帝国陸軍の汚名返上が出来るのである。
当時の大陸を見れば一目瞭然、"中央集権国"など存在していない、
万里の長城の内側すら統一されていないのだ。
まず時系列で見る為の年表を
〈明治33年〉にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた
〈明治37年2月~38年9月 〉日露戦争
満州鉄道とそれに付随する土地を獲得
〈昭和3年 〉張作霖爆殺事件 関東軍が軍閥の張作霖を爆殺?
〈昭和6年 9月18日〉満州事変、柳条湖事件、奉天事件、9.18事件 板垣征四郎と石原莞爾の関東軍が満鉄線路爆破
満州(現中国東北部)全土の占領
〈昭和7年〉満州国設立
結果 関東軍、政府や天皇陛下の事変不拡大の方針を無視、満州国を建国 中国人の日本人憎悪激化、アメリカとの利益衝突
〈昭和8年5月31日〉の塘沽協定成立
〈昭和12年7月7日〉 盧溝橋事件
〈昭和12年7月29日〉 通州事件 北京の東約12キロの地点にあった通州で日本人居留民が保安隊に襲撃され、385名のうち223名が虐殺
この保安隊は、皮肉にも親日政権と見られていた冀東防共自治政府の所属で、蒋介石軍でも中共軍でもない。
保安隊では、蒋介石軍が攻めて来れば親日政府の軍人は処刑されるから、日本人を殺せば
抗日運動だと認められ助かるという、トンでもない動機との説もある。
このような状況から、日本の新聞が一般人に対する虐殺を元に、世論を煽ったスローガンが
”暴支膺懲”
例として、東京朝日新聞(後の朝日新聞)が、現地特派員が天津から財産を捨て避難する
邦人を見ての現地ルポに、この言葉を使っています。
当然、陸軍も邦人保護を理由に、現地への軍の派遣や軍事行動を強化します
結果 暴支膺懲、支那軍の鬼畜性等と国民の反中感情が爆発した。
〈昭和12年11月〉第二次上海事変に投入された松井石根司令官率いる上海派遣軍と第10軍は、軍中央の方針を無視して首都 南京に攻め上った。
12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。
12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、
12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、
12月10日、日本軍は進撃を開始し、
12月13日に南京城に入城した。なお、当時の上海軍発表によると、南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、 我が方戦死八百、戦傷四千、 敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である。
〈昭和13年12月〉五相会議猶太人対策要項決定
〈昭和16年12月8日〉開戦以降 アメリカが支援して以前から創設された、フライングタイガースと日本軍機の初戦闘
デマで良く耳にするが、通州事件から邦人を守るために満州事変があった訳では無い。
当時の満州では、鉄道をめぐる事件が頻発していた。数年間の間に100件以上も鉄道爆破事件があった。
満州には匪賊と呼ばれるテロリストたちは推定100~300万人いたといわれる。
「土匪」(いわゆる馬賊)のほかにも「半農半賊」(状況次第で匪賊になる連中)、「宗教匪」(宗教的秘密結社)、「政治匪」(敗残兵たち)、「共匪」(共産ゲリラ)
昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件を数えた。
関東軍は1万強しかおらず、しかも鉄道沿線に配置されているので分散している。
対する張学良軍は奉天に5万、満州各地合わせると26万5000人だ。
それに張軍は歳入の80%を軍事費にあて、優秀な装備を持っていた。
東京から24センチ重砲を密かに奉天へ運ばせた。
それでも兵力の差は歴然としており、
張軍兵士は夜間になると武器を持って営外にでて強盗、
強姦など繰り返して市民から批判されていたため、
張学良は兵器の悪用を警戒し、昼間の演習がすむと夜間は兵士たちから銃器をとりあげて
武器庫におさめてしまうことがあった。
そこで関東軍は夜間の攻撃を計画し、さらに
事前に夜間演習をを繰り返しておいて、油断させる。
そして9月18日深夜、柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発したのを合図に
張学良と配下6700が駐屯する北大営の門に向けて
重砲を撃ち込み張軍は突然の攻撃に武器を倉庫にしまっていたため大掛かりな反撃ができず
ほうほうの態で逃げだした。その後の作戦は電光石火のように進み、
翌年はじめには満州全土を制圧した。
こうして、奉天では商人や市民の代表たちが自治委員会をつくり、
支那とは絶縁して民意にもとづく新政権の樹立を目指した。
奉天に呼応する形で遼寧や吉林の各省も独立宣言を行ったが、
昭和7年3月、奉天からの代表700人のほか、
満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、東省特別朝鮮人、モンゴル人、各種団体などが参加して
「満州建国宣言」
を行い、支那からの離脱を宣言した。
張軍閥の執拗な嫌がらせから発生したのである。
次にその嫌がらせの内容は、
条約違反、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、
日本人に対する土地貸与の禁止、森林採筏の禁止、鉄道運行妨害、
強盗、鉄道施設の略奪、電線の略奪・・・
張軍閥は日本に対してだけではなくソ連に対しても北満州の鉄道を強制回収したため紛争が起こっている。
次第に張軍閥の要求は次第にエスカレートし、関東軍の駐兵権を無効とする撤兵要求、
満鉄の接取も要求してきます。現地在留日本人は危機感を募っていく。
特に迫害されたのは朝鮮人で「鮮人駆逐令」を出して追放にかかる。
そして万宝山事件で抗争が起こり、朝鮮人は激昂する。
同じ時期の昭和6年6月、中村大尉殺害事件が発生。
中村大尉は対ソ戦を想定した地図を作成するために偵察を行っていたが、
奉天軍につかまり、凄惨なリンチの末に惨殺され、これも日本国民を激昂させた。
以上三点、張軍閥の嫌がらせ、朝鮮人を守るため、中村大尉暗殺が引き金となり、
朝日新聞が煽って日本国民が激昂し関東軍が迫られた結果の事変であった。
帝国陸軍はただの一度たりとも侵略行為などしていない。
暴走、侵略と捉えるのは戦後支那目線であり、
作戦であり、戦争ではなくあくまで事変であると考えるのが、日本側の目線である。
満州事変は警備上の作戦であった。この事変の要因は上記の三点にコミンテルンの影響も色濃く加わっている事も付け足しておく。