天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

開戦の詔

2015-12-20 04:58:05 | 歴史
太平洋戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)

【原文】

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ

勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ

達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル

皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ

樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ

東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ

帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ

相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ

逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル

妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復

セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ

益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル

帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲

蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ

遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

  御 名 御 璽

   平成十六年十二月八日

 
【現代語訳文】

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、

私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、

一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、

その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、

私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、

帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。

まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 中華民国政府は、

以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に

武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、

ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である

南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、

東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の

平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を

加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、

米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、

経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、

ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、

我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、

すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。



ポツダム宣言

2015-12-20 01:32:49 | 歴史
ポツダム宣言は軍隊の無条件降伏であり、
日本は国体護持の条件を提示し、第12条に含意されているものと解釈してポツダム宣言を受諾している。



一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ

二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ 吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ

四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ

五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ
 吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ

八 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ 但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ 右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ 日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ

十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス



現代語訳


一 合衆国大統領、中華民国政府主席およびイギリス総理大臣は、自国の数億人の国民を代表して協議した上で日本国に対し、今回の戦争を終結させる機会を与えるということで意見が一致した。

二 合衆国、英帝国および中華民国の巨大な陸、海、空軍は西方から自国の陸軍および空軍による数倍の増強を受け日本国に対して最終的な打撃を加える態勢を整えた。右軍事力は日本国が抵抗を終止するまで同国に対して戦争を遂行する一切の連合国の決意によって支持され、かつ、鼓舞されているものである。

三 覚悟を決めた世界の自由な人民に対抗するドイツ国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示している。現在、日本国に対して結集しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用された場合において全ドイツ国人民の土地、産業および、生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたのに比べ、計り知れないほどにさらに強大なものになるぞ。我らの決意に支持される我らの軍事力の最高度の使用は、日本国群体の不可避かつ完全な壊滅を意味すべく、また、同様必然的に日本国本土の完全な破滅を意味する。

四 無分別な打算によって日本帝国を滅亡の淵に陥れたわがままな軍国主義的な助言者によって日本国が引き続き統制されるべきか、あるいは理性の道を日本国が進むべきかを日本国が決定すべき時期が到来した。

五 我らの条件を左に述べる
我らは右の条件を絶対に離脱しない。これに変わる条件は存在せず、我らは遅延を認めない。

六 我らは無責任な軍国主義が世界より駆逐されるまでは平和、安全、および、正義の新秩序が生じ得ないことを主張する。従って、日本国国民を欺瞞して世界征服の暴挙に出る過ちを犯させた者の権力と勢力は永久に除去する。

七 右のような新秩序が建設され、かつ、日本国の戦争遂行能力が破壊されたことの確証が得られるまでは連合国の指定する日本国領内の諸地域は我らの指示する基本的な目的の達成を確保するために占領されるべきだ。

八 カイロ宣言の条項は履行されるべきで、また、日本国の主権は本州、北海道、九州および四国と我らの決定した島嶼に限定されるべきだ。

九 日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の仮定に復帰し平和的かつ生産的な生活を営む機会をえさせるべきだ。

十 我らは日本人を民族として奴隷化しようとしたり、または、国民として滅亡させようとする意図を有するわけではないが、我らの捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべきだ。言論、宗教、思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない。

十一 日本国はその経済を維持し、かつ公正な損害賠償の取り立てを可能にするように産業を維持することを許される。ただし、日本国に戦争のための再軍備をさせるような産業はこの限りではない。右の目的のための原料の入手、(原料の支配は含まない)を許可される。日本国は将来世界の貿易関係への参加を許される。

十二 前期の諸目的が達成され、かつ、日本国国民の自由に表明された意思に従って平和的な傾向を有し、かつ、責任ある政府が樹立された場合には、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収する。

十三 我らは日本国政府がただちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ、右行動における同政府の誠意によって適正かつ十分な保障を提供することを同国政府に対し要求する。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅があるだけだ。

不快感

2015-12-15 16:15:10 | 歴史

1.解釈

富田メモの中には「不快感」の文字は一字も書かれていません。現代史家の秦郁彦氏を代表とする研究者達は何故「天皇陛下が戦犯合祀に不快感」と訳したのでしょうか。



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《メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。

メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。松平慶民は宮中に長く仕え、昭和天皇もその人物をよく知っていたが、その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は「親の心子知らずと思っている」と、強い不快感を表明した。末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている》




富田メモにある「松岡、白鳥までもが」や「易々と」、「だからあれ以来参拝していない」「それが私の心だ」の言葉尻から推測すれば確かに
不快感と取れなくもありません。

今回はこの不快感について掘り下げて考察してみようと思います。

まずは不快感の矛先ですが、考えられるのは名前もあがっている松岡、白鳥、そして合祀と松平宮司といったところでしょう。

松岡、白取の部分の誤字ですが、正しくは白鳥です。少し穿った見方をすれば、宮内庁の長官にまで登り詰めた者が走り書きのメモとは言えこの様な誤字をするでしょうか。

つまり、富田長官が意図的に誤字をしたか常日頃白鳥氏を蔑んでいたともとれます。これは富田長官の戦犯或いは白鳥氏個人へ向けての不快感を持っていたのかも知れません。

白鳥氏に関してですが、白鳥敏夫は大正、昭和期の日本の外交官で政治家です。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた人です。

昭和6年満州事変が勃発しましたが白鳥は事変擁護の姿勢をいち早く打ち出して、森恪や鈴木貞一陸軍中佐と提携し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たしました。

事務総長のエリック・ドラモンド から内密に調停の私案が日本側に提示された際、白鳥は独断でこれを公表し、いかなる国際連盟の調停も拒否する姿勢を表明しました。

戦後の結果論から 冷静に戦争に至る反省を込めた見方をすれば白鳥の取った行動は確かに戦争遂行かも知れません。しかし誰が彼を責める事が出来るでしょうか、富田長官の白鳥氏に対する不快感は偏ったものであるとも言えます。

歴史家の戸部良一は白鳥が独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した、「この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒した」と著書の中に示しています。

あくまでも戦後の研究で明るみに出たことであり、確かに昭和天皇は白鳥敏夫の統帥権を干犯した発言に激怒しています。要するにメモに合わせて憎むべきは白鳥としての印象操作か悪のイメージでかたられます。

だからと言って白鳥が戦後戦犯として起訴され終身禁固刑の判決が下り、病死してまで当時の陛下の怒りが合祀に不快感を与えることは極めて疑わしいことであり、

226事件の反乱軍でさえ刑死したものを陛下が内々に鎮魂されていたことが中島鉄蔵中将の談話からも伺え、戦後の合祀をお知りになられた時に怒りや不快感があるとは思えません。

次に軍人ではない事への不快感なのでしょうか。
松岡、白鳥の他にも平沼、東郷、廣田と5人も軍人ではない合祀者がいるのです。

ではその他軍人の戦犯への不快感でしょうか。よく言われるのが東條ら戦犯は昭和天皇と靖国に戦没者を祀る側であるということです。

しかしながら自決した真岡郵便局の女性局員、沖縄対馬丸の児童、が合祀されるに至ってその合祀基準が軍人から国の為に殉じたものはたとえ戦場でなくとも、病死者であっても構わないのです。

国会決議で公務死とされた戦犯が昭和殉難者として合祀されたのです。このことに関して陛下が不快感など表すはずはありません。よって不快感は意図的な印象操作であることは明白になるのです。つまり陛下のお気持を曲解或いは捏造して靖国神社の御親拝中断の理由としたい者の不快感なのです。

冷静に考えれば天皇陛下は確かに合祀には慎重であるべきであるとお考えになられていたことは確かでしょうし、合祀によって政治問題化すれば中断が長引くのですから当然です。

ですから富田メモが陛下のお言葉と仮定するならば「天皇陛下が戦犯合祀に不快感」ではなく
「天皇陛下が戦犯合祀のタイミングに不快感」であるとするメモ書きが正しいのです。

富田メモの役割は戦犯、合祀、松平へさも陛下が不快感を持っているかの様な意図的誤訳をすることで戦犯はおろか靖国神社さえも全て軍国主義として纏めて貶め葬り去ることが可能ということです。

それを踏まえてもう一度メモを読んで頂くと

「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」

「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」

「松平は平和に強い考があったと思うのに」

「易々と」

「親の心子知らずと思っている」

「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」


《会長現代語訳》

「戦犯が合祀されたと随分あとから聞いたけど、いきなりで驚いたよ、松岡、白鳥は軍人ではないが合祀基準は変わったのか?なんでまたいきなりのタイミングなのか?まえの宮司はタイミングを良く見計らっていたけど、松平になってすぐさまで大丈夫か?騒ぎはおきていないか?松平の親父は随分平和主義だったけど、親の心子知らずとはよく言ったもんでやり辛いことをすんなりやってのける。
予想通り靖国問題なんて騒動になってまた行けなくなったでないか!」


如何でしょうか合祀に不快感と合祀したタイミングで問題化して不快感の違いがおわかりになれたでしょうか。


2.中断の理由
では何故中断されたのか、靖国神社を巡って国会で政教分離、首相の公的参拝が社会問題化してしまったからです。最後の御親拝が昭和50年11月21日ですからその後の53年10月17日に合祀され中断されるには時系列から言っても整合性が取れません。

三木首相までは陛下の御親拝と首相の参拝は問題無く行われていました。三木首相の私的参拝の年を最後に御親拝は中断されています。その後所謂戦犯が合祀されます。昭和60年に中曽根首相が無作法な公的参拝し朝日が取り上げ中国が合祀の靖国を内政干渉し参拝を取りやめてから内外の靖国問題として表面化しました。

この国内では公務死とされ戦犯はいなくなりましたが、中国をはじめとする国外からは戦犯として見られるという二元論を中曽根首相は確定させてしまったのです。

この国外からの内政干渉は日本の新聞社が焚き付けたものであり、【戦犯、戦争責任者】の合祀を巡って分祀という造語までして靖国問題が一気に表面化したのです。

要するに首相の参拝の政治問題化で中断し戦犯の合祀が更に大きな政治問題となって天皇陛下の御親拝が中々実現されないのです。

53年に合祀されてからも首相の参拝は20回を超えているのです。この形式化しパフォーマンスと化した首相の参拝を見るにつけ次の様な御製をお読みになられています。

「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれいはふかし」

60年の御製ですが10年前の御親拝から「靖国に行けない状態が続き靖国のことを思うと深い悲しみをおぼえる」となるのです。

63年の全国戦没者追悼式での崩御される数ヶ月前の御製が

「やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」

ですが、御製に於いて「くやしい」などの表現はとても珍しく

「争いごとのない状態を祈っているのにまだ合祀のことで波風がたちきざしは見えているのに靖国に行けないことが悔しくてたまらない」と私には聞こえます。


3.富田メモの意味

富田メモは昭和63年の会見の徳川侍従長の話しのメモであり、陛下に一番近い者のメモとして信憑性があることはわかります。

所謂戦犯の合祀は昭和53年10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されています。

松平宮司は9月に上奏していますが、一方徳川侍従長は11月になってようやく出してきた、と述べています。

このことからも松平宮司が戦犯の名前を伏せて上奏してきたのを見落として合祀されてしまったことは合祀に慎重であるべきと考える徳川侍従長にとっては騙し討ちだったのかもしれません。

この富田メモの真の意味は合祀に慎重であるべきとの陛下のお考えを実直に守った徳川侍従長は前宮司と同じ棚上げ派の立場から語ったものを富田長官がメモをした。これ以上でもなければこれ以下でもないと考えます。

「陛下が合祀に不快感」という訳は間違いではないが言葉足らずであり、靖国問題の根源になってしまっているのです。


4.曲解の理由

徳川侍従長と富田長官まで遡って考えずに、何故富田メモが言葉足らずで陛下のお気持を曲解して
不快感としたのかを考えます。

関係者没年を見ますと

平成8年徳川侍従長
平成15年富田長官
平成17年松平宮司
となって日経新聞社がスクープとして平成18年に富田メモを公表しています。

それは関係者が不在であやふやの状態を故意に演出したスクープであると考えられます。

A.東京裁判の判決を否定する靖国

B.合祀に慎重であった徳川侍従長、戦犯を分祀したい勢力

この様なA対Bの対立の構図でBに利する様なスクープになっています。

戦後日本は占領政策と東京裁判で軍国主義を否定して成立してきました。その中にあっての矛盾が靖国神社だったのです。

靖国神社の招魂社からの軍人軍属の顕彰施設を主に考える事で、軍国主義の象徴として靖国を否定したかったBの勢力は天皇陛下の御親拝中断を利用し、保守勢力を駆逐したかったのです。

首相参拝を内外の二元論をそのままに、合祀を問題化させて靖国神社と決別する目的のもとに中断を政治利用したのです。

つまり靖国神社は天皇陛下も行かない、戦争責任者を合祀する危険な軍国主義の象徴なのだという一大キャンペーンの広告に利用する為の曲解だったのです。


ハルノート

2015-12-11 01:51:28 | 歴史

パール博士が述べたとおり、「もしハル・ノートと同じような通牒を受けとったなら、たとえモナコやルクセンブルクのような小国といえども、矛をとって立ち上がったであろう」という屈辱的な内容でした。
まさしく最後通牒であったのです。






第一項「共同宣言の方針案」

1,一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則

2.他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則

3.通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則

4.紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則


第ニ項

1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案

2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保

3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵

4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)

5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力

6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始

7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除

8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立

9,日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない。(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)

10.本協定内容の両国による推進




南京城攻略要領

2015-12-05 08:09:27 | 歴史



一 南京守城司令官若クハ市政府當局尚殘置シアル場合ニハ開城ヲ勸告シテ平和裡二入城スルコトヲ圖ル 此際各師團ハ各々選抜セル歩兵一大隊〔九日、三大隊に訂正〕ヲ基幹トスル部隊ヲ先ツ入城セシメ城内ヲ地域ヲ分チテ掃蕩ス

ニ 敵ノ殘兵尚城壁二拠り抵抗ヲ行フ場合ニハ戰場二到着シアル全砲兵ヲ展開シテ砲撃シ城壁ヲ奪取シ各師團ハ歩兵一聯隊ヲ基幹トスル部隊ヲ以テ城内ヲ掃蕩ス 右以外ノ主カハ城外適宜ノ地点二輯(集)結ス

三 城内掃蕩戰二於テハ作戰地域ヲ指定シ之ヲ嚴二確守セシメ以テ友軍相撃ヲ防キ且不法行為二對スル責任ヲ明カナラシム

四 城内二於ケル両軍ノ作戦地境

共和門―公園路-中正街-中正路-漢中路

五 各軍二対スル配当城門

派遣軍 中山門、大平門、和平門
第十軍 共和門、中華門、水西門

六 南京入城後ノ処置

1 各兵團二地域ヲ指定シテ警備二任セシメ主カハ城外適宜ノ地点二輯結ス
2 入城式、合同慰霊祭、防空部隊ノ推進、南京警備部隊ノ配備等ノ件〔略〕

七 南京城ノ攻略及入城二関スル注意事項

1 皇軍力外國ノ首都二入城スルハ有史以來ノ盛事ニシテ永ク竹帛二垂ルヘキ事續タルト世界ノ斉シク注目シアル大事件ナルニ鑑ミ正々堂々将來ノ模範タルヘキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶對二無カラシムルヲ要ス
2 部隊ノ軍紀風紀ヲ特二嚴粛ニシ支那軍民ヲシテ皇軍ノ威武二敬仰帰服セシメ荷モ名誉ヲ毀損スルカ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要ス
3 別二示ス要圖二基キ外國權益特二外交機関ニハ絶對二接近セサルハ固ヨリ外交團力設定ヲ提議シ我軍二拒否セラレタル中立地帶ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点二歩哨ヲ配置ス 又城外二於ケル中山陵其他革命ノ志士ノ墓及明孝陵ニハ立入ルコトヲ禁ス
4 入城部隊ハ師團長力特二選抜セルモノニシテ豫メ注意事項特二城内外國權益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶對二過誤ナキヲ期シ要スレハ歩哨ヲ配置ス
5 掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖 火ヲ失スルモノハ嚴罰ニ処ス 軍隊卜同時二多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘發セシム