大田川と根の谷川によって潤ってきた町である。嘗てこの町は、天蚕の産地として名をはせてきた。今も旧家の垣根は、棒樫の垣根である。それと共に、砂鉄の集積地として嘗ては、鋳物工場が隆盛を極め、軍需品の運搬の為に、鉄道が引かれた。計画では、軍都広島と山陰を結ぶ予定であったが、終戦と共に計画が中止され、今日では、収益がある可部駅までの区間のみの運行となった。原爆投下時には、この鉄道で大量の被災者が送り込まれてきたようである。
棒樫について少し語っておきたい。嘗て卑弥呼の国の軍隊は、国の出入りの時に、この木の小枝で身を清めたことが、魏志倭人伝に記載されている。この木は、真っ直ぐに伸びる。槍の柄、六尺棒、等 武器に使用されてきた。鍬の柄や、斧の柄等もこの木を使用した。そして何より、山繭の生育に欠かされない木である。この木の葉でしか山繭は育たない。それゆえに古代から神聖な木として大切にされた。榊が登場するまでは、玉ぐしの木は棒樫であり、その後、オガ玉の木に変わり、そして榊に変わった。この変遷が、九州王朝から出雲王朝、大和王朝の変遷を示しているという民俗学者も居るぐらいである。
昭和40年代前半頃まで、山繭の生産が行われていたが、手間が掛かるので、廃れてしまった。又この町の鋳物工場も何時しか寂れてきた。
その町の変わり始めに私はこの町に越してきたのだ。自然豊かな町での子育てを考えての事だったが、十年の内に見事に変貌してしまった。広島市のベットタウンになってしまったのだ。
とはいっても、まだまだ捨てたものではない。
国道から少し山に入ると自然は十分にある。あるから困ることもある。イタチに始まり、ツキノワグマまで何でも団地に出てき始めた。狩猟をする若者が居ないからである。野生動物は、自分達のほうが強いと思っている。先日も小学生が登校中にイノシシに追いかけられた。
区役所に談判に出かけたが、先日申し訳程度に、害獣駆除の猟友会の人を派遣してくれたが、野獣のほうが一枚上手で、手ぶらで下山してきた。おまけの話であるが、同行した猟犬8匹の内、3匹が行方知れずになったそうである。犬もいつもの山とは違う山では迷子になるらしい。
因みに、この町は毛利家の重臣「熊谷」氏の本拠地であった。
あの「敦盛」を討った熊谷氏の末裔の居城の城下町として栄えてきた。
この曲でもお聞きください。
歌っているのは「古賀 久子」 後の「菅原 ツヅ子」の幼きころの歌声です。