戦国大名 安芸武田氏の居城跡、武田山である。 甲斐武田氏の流れを汲む名家であったが、毛利氏の策略によって滅んだ。子孫は近郊に未だに点在し、武田学園は、大学院を持つほどの私学の雄である。 因みに、宮沢喜一元総理も、一族である。
現在は、市民ハイキングの格好の場所である。
武田氏に対抗し、この地、可部に勢力を持っていたのが熊谷氏である。熊谷直実の末裔で、この写真の山城に居を構え巧みに生き延びてきた。武田氏とは、同じ源氏の流れのなかで、付かず離れず家名を保っていたが、毛利氏の前に屈した。後に関が原で敗軍の将となった毛利氏が長州へ封鎖された時も、行動を共にしたが、キリシタン禁止令のとき、改宗を拒み、一族皆「磔」になった。萩市の西方の海近くに、碑が残っている。一部の熊谷氏は可部に残り今も子孫は繁栄している。「エビス電工」という中堅の電気工事会社がそれである。
この山は「高松山」と呼ばれ、嘗ては京都の大文字焼きと同じ日に、「大」の字の送り火が燃やされた。現在では山火事が発生すると大変なので、電灯で代わりをしている。
可部町の地形は、小さな京都と言えるであろう。比叡山の代わりが、福王寺。右大文字山が、高松山。左大文字が、阿武山。加茂川が、根も谷川。嵐山が太田川。
風水上、非常に繁栄をする地形をしているが、規模が小さいだけに、毛利氏は川下の広島に、戦国大名としての居城を構えてが、いざと言う時のための備えを可部にしていたと言われている。「攻めやすく守り易い」地形である。
やっと今日、30度を下回った。 いよいよ秋である。先ほどから鹿がしきりに鳴いている。どうも子連れのようである。 ベランダから覗いてみるが、姿は見ることが出来ない。少し遠くに居るようだ。 空気が澄んできた分、声が近く聞こえたのであろう。