一昨日の雨で、やっと消えるかと思った雪。 元の木阿弥である。 一晩で十五センチ。 午後も降り止まず、今日一日雪だそうだ。 雪が降るのは仕方ないが、雪が降ると暖房にストーブを使う。 使うと私の体は酸欠状態に成る。 頭痛と吐き気に襲われて、一日中「ぐうたら」していなければならない。 何時もブログを拝見している「はなてぼ」様が、町内に「信号機が無かったと、述懐されていた。 横になっている以外、この苦痛から逃れるすべの無いので、天井を眺めながら広島市内に何時から信号があったのか、考えてしまった。
私が小学校に入学した昭和27年の夏には、私の町内にも信号は無かった。 広島電鉄の、私の生まれた「己斐」の電停(西に向かう宮島線の基点でもある)から、原爆で焼け残った路面電車「広島駅行」に乗り、東南に進むと最初の信号機が、「土橋」と言うところに有った。 嘗ては、出雲街道、石州街道が、山陽道から分かれる基点であったそうだ。 それから先、「十日市」に一つあり、「原爆ドーム」を過ぎて、紙屋町の交差点まで無かったように記憶している。 紙屋町は広島の中心部で、戦後いち早く「県庁」や「バスセンター」が作られて、「本通り商店街」を控えて、賑わっていた事は確かである。 其処から北西に250m、原爆ドーム傍の「相生橋」の上からは、夏になると子供たちが太田川に飛び込み遊んでいたが、半数の男子は裸で飛び込んでいた。 俗に言う広島弁で「フリチン」だ。 因みに昭和33年、私学に進学してビックリした。 臨海学校は、「六尺ふんどし」で、体育の水泳の時間もそうであった。 男ばかりの学校だから、その方が良かった事は確かである。 夏になると、体育の時間の後のベランダの手すりは、白い布が無数に棚引いていた。
八月六日の原爆記念日にも、子供たちは無邪気に太田川に飛び込んでいた記憶がある。 原爆孤児の「物貰い」はいなくなっていたが、傷痍軍人の姿はあったように記憶している。 戦後、昭和33年の「広島復興博覧会」までには、広島町の様相は一変したように思う。 そう思い返してみると、昭和30年が大きい変化の始まりで、昭和40年は広島の現在の形が、ほぼ固まった様に思えてきた。 特に昭和35年頃から自動車が急激に増えてきたのではなかったであろうか。
運転免許取得顛末記を書くつもりが、「信号機」の横道に行ってしまった。 頭が酸欠でまとめが出来ない。 免許書取得の顛末記は、又明日でも書くこととしよう。