「憂う」について考える(7)
大阪市立桜宮高校2年のバスケットボール部主将の男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、同校は9日夜、保護者説明会を開いた。佐藤芳弘校長が経緯を説明し、過去に他の運動部でも体罰があったことに触れた上で、相次ぐ体罰問題を謝罪した。
説明会は午後7時から3時間、非公開で行われた。校長によると、保護者328人が出席し、冒頭で黙とう。各部の顧問が「体罰一掃」を約束したが、バスケ部顧問は自宅謹慎中のため出席しなかった。
保護者からは学校の責任を厳しく問う声や、「体罰自体やってはいけない」「悩みを顧問に言いづらい」との声が上がった。中には「愛情があれば多少は許されるのではないか」との意見も出たという。
出席した保護者の男性(50)は「先生と生徒の絆を深めていくと話があり、期待したい。暴力と指導の体罰は紙一重だ」と話した。
[時事通信社]
以上の文章は、時事通信が報じた新聞記事である。
皆さんはこの記事の中に、大変大きな問題が存在していることに、気付かれませんでしたか。
そうなのです。「愛情があれば多少は許されるのではないか」、この父兄の言葉こそ問題なのです。おそらくこの父兄は、自らの子供に体罰を加えている親の発言なのです。アメリカでは、年少の子供にお使いをさしただけで、近隣や商店からの通報で親は児童虐待で、親権を剥奪されるのです。日本だけが、親の暴力が黙認されている。
ここを私は「憂い」ているのです。虐待による児童の多くの死。それを、皆さんは目にしておられると思いますが、「愛情があれば体罰が許される」とお思いなら今時点からその考えをおすてください。体罰は、児童生徒に対する「虐待」なのです。児童保護法や、関連法の中にはっきりと明記されているのです。なぜそうした法律がそんざいするのか、答えは簡単です。子供とは、元来未成熟で全ての行いに対し、法的刑罰から除外され、未熟な部分を教育するための施設に収容されるか、はたまた養護施設に保護されるのです。つまり未熟であるから教育するため学校も存在するのです。
全ての先生は、教員免許を取得する段階で、いかなる体罰をも法的に許されないと教育を受けてきたはずです。其れを忘れたか、その講義の時間サボっていた、はたまた、特待生で運動に専念していたのです。今回事件を起こした教師こそ、児童生徒以下の未熟教師と断言します。
今回のこのクラブ顧問は指導能力の無さを、暴力で補っていただけなのです。
熱血指導者を、「熱血映画俳優もどき」に演じていただけなのです。亡くなった生徒に対しての全ての責任を、この教師と其れを管理していた教頭、校長が負うべき典型的事犯だと肝に銘ずべし。
ここから先は、「憂う」をはなれ、「心晴れやか」にしてくれたお話をしたいと思います。
夏の甲子園の常連校に、「智弁学園」という学校がある。時には、智弁学園奈良と智弁学園和歌山と二つの学校がそろって甲子園にやってくる。名前から察するに「仏教」関係の学校とは思っていた。あるとき「智弁学園和歌山」の開学秘話なる話に遭遇した。それは、どなたかの新聞コラムであったが、和歌山県民いちぶが、智弁学園奈良のような学校が、ぜひとも和歌山にもほしいと誘致運動をはじめ、それが野火のように広がり、ついに県の行政をも動かし、誘致に成功したそうである。その一校が和歌山に加わったことにより、和歌山の教育環境は一変して向上したという。
教育こそ、国や地方を作り上げる力を持つものであって、一個人の名誉欲や野心のために存在するのではないことを、橋元大阪市長は肝に銘じ「厳しきおさた」と子供を失われた両親への対応をお願いしたい。大坂都構想などそうした身近な問題が解決されない限り、出来上がらないと「憂う」のは、私だけでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます