モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ガザニア(Gazania)“冷凍みかん”の花 と ガザニアを発見した男の物語

2009-06-15 06:24:31 | その他のハーブ
(写真)ガザニア“冷凍みかん”の花


先代のガザニアが老衰したので、代わりを探していたらこれが目に入った。
最初は、“冷凍みかん”なんてふざけた名前だと思ったが、ネーミングの勝利でもある。買ってしまった。

花をシャーベットにして食べるなどがあるともっとおしゃれな感じがしてくるが(食べませんが・・・)、意表をついたネーミングではある。
ただし、ついているタグの商品説明が植物を栽培するための基本をおさえているとは言いがたい。わからないことがあった場合の補足情報を手に入れるガイドが提示されていない。
学名かインターネットでのアクセス先のどちらかは書いておいて欲しい。

しょうがないので、「ガザニア、冷凍みかん」で検索すると、結構普及しているようでブログでも散見するが、生産者側、販売者側の情報にぶつからない。
ネット上で商品紹介をしていない場合は、学名だけでも記載しておいて欲しい。

ユーザーとして書ける経験情報も無いので、ガザニアを発見した男の物語を書くことにする。(昨年の原稿に手直しと追加修正を大幅にした)

            

ガザニアを発見した孤高の人 バーチェル
バーチェル・ウイリアム(Burchell, William John 1781-1863)は、1814年、南アフリカケープ植民地の付近でガザニアを発見した。

バーチェルは、ナーセリー(Nursery)といわれる栽培業者が誕生した時代のロンドン郊外のフルハムに栽培園(ナーセリー)を持つ裕福な家に生まれ、キュー植物園で庭師の見習いをした。
両親にフルハムのルシア・グリーンとの結婚を反対されたので嫌気がさしたのか彼が26歳の1805年にイギリス東インド会社が占有していたセントヘレナ島に商人として出かけ、合間に地元の植物を採取して庭を作ったり、東洋から寄航する東インド会社の船でもたらされた外来の植物を育てることに熱中し、一年後には面白くない商売をやめて島の教師についた。

このセントヘレナ島は、アフリカ西側の洋上にありバーチェルが島を去った後の1815年にナポレオンが流された島で有名だが、大航海時代にポルトガルそしてオランダが占有し、東洋への航路の水食糧などの補給基地として使われるようになった。喜望峰にオランダが軸足を動かしてからはイギリス東インド会社が占有していた。

バーチェルの恋焦がれていたルシア・グリーンが1808年に彼と結婚する予定でセントヘレナ島に来たが、彼との結婚を取りやめ乗ってきた船の船長と結婚するという悲劇が起こった。これに傷ついたのか或いは植物採集熱の必然性というのか1810年には、南アフリカケープに旅立ち、この地で5年間もの間内陸部を探検して5万もの標本を採取し1815年にフルハムに戻った。
ガザニアは、この採取した中に入っていた。

彼が育ったロンドン郊外のフルハムは、17世紀以降園芸の勃興とともに歩んだ由緒ある地域で、ロンドン主教の館があるところでも有名だが、ヘンリー・コンプトン主教(Compton,Henry1632-1713)は、アメリカ植民地の教会の統括責任者でもあり、この組織を使って珍しい植物を集め館の庭を飾った。

この植物を受け継いだのがフルハムに栽培園を持っていたクリストファー・グレイ(Gray, Christopher 1693?-1764)であり、栽培品種の販売カタログを最初に印刷して配布したことで知られている。
グレイの死後、フルハムの由緒ある栽培園を手に入れたのがバーチェルの一族だった。しかしこの栽培園は、1810年に人手に渡りバーチェルには届かなかった。彼の結婚だけでなく親・一族との確執もあったようだ。

植物探索には相当の費用がかかり、国家の戦略の一環として国庫からでる時代があり、ジョゼフィーヌがそうであったように貴族・裕福な市民などの出資による時代があり、園芸ブームで登場したナーサリーが事業の一環として珍しい植物を収集するために派遣する時代がやってきた。

しかし、バーチェルは、家業のナーサリーとは無縁で、個人の資産を使って趣味として或いは生きる目的としてセントヘレナ島、南アフリカケープ地方、南アメリカブラジルなどに旅をし、多くの標本、日記、写生などを残した稀有なプラントハンターだった。

彼は生涯独身を通し、晩年は孤独で財産も使いきり82歳で自ら死を選んだが、残された膨大な標本・資料・デッサン・日記などはオックスフォード大学に寄付され、死後に彼の足跡の偉大さが証明・評価された。

南アフリカ原産のセンテッドゼラニウムを発見したのは、フランシス・マッソン(Masson. Francis 1741-1805)であったが、彼が喜望峰の地に立ったのは1772年だったので、この38年後にバーチェルが南アフリカに来たことになるが、学者を目指さなかった19世紀前半までの探検家・プラントハンターの晩年は悲惨な結末が多い。

と思うのは、定住し、危険を回避し安全を志向する現代人のゆがんだものの観方なのだろうか?
未知・未開拓地へのフロンティアを越える彼らがいたので、既知・安全が獲得できたわけだが、彼らフロンティア・マンとナーセリー(育種園)、カタログ、ボタニカルマガジンの発刊などで園芸の大衆化が始まった。

危険を顧みない“好奇心”の持ち主達がこの園芸路線を太く強く切り開いてくれたとも言える。“好奇心”はヒトを動かすエンジンなのだと感じ入る次第だ。

(写真)ガザニア“冷凍みかん”の葉と花
        

ガザニア(Gazania)“冷凍みかん”
・キク科ガザニア(和名クンショウギク)属の総称で、耐寒性のある多年草。
・学名はGazania rigens (L.) Gaertn.(= Gazania splendens Lem.)。英名はtreasure-flower。その園芸品種で品種名が“冷凍みかん”。
・整った丸い形の花を咲かせることから別名クンショウギク(勲章菊)という。
・原産地は南アフリカ、ケープ地方。
・草丈10cm程度で、横に広がる。
・葉は細長いへら状で、裏は真っ白な毛で覆われている。(カビではない)
・開花期は5~10月。鮮やかなオレンジの直径5cm程度の花が咲く。
・花は、晴れた日の日中しか咲かず、それ以外は閉じているので、太陽の光量のバロメーターとなる。
・乾燥気味に育てる。
・ガザニアが日本に入ってきたのは大正時代のようだ。

ガザニアの名前の由来
Gazaniaの名は、ギリシャ人の古典学者ガザ(Theodorus Gaza or Theodore Gazis 1400–1475)の名前に由来する。
ガザ は、1450年から1455年まで法王ニコラス五世に雇われ、アリストテレスなどのギリシャの古典の翻訳をローマで行った。
ラテン語に翻訳されたアリストテレスの『動物論』で現存する最も古いものは、1476年に印刷されたものであり、枢機卿ルドヴィカス・ポドカサラス(Ludovicus Podocatharus)が編集にあたり、ガザがラテン語訳している。
イスラム圏で保有していたギリシャ文明の傑作がヨーロッパの世界に還流してきたがこれを翻訳する必要があり、古典文化の復興(ルネッサンス)はかくして始まることとなる。

命名者
Gaertner, Joseph (1732-1791) 
ドイツの生物学者で、果実と種子の科学的な分類を最初に行った。

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