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肉食の系譜
アクロカントサウルスは米国東部にも生息していた
アクロカントサウルスは前期白亜紀の終わりに米国に生息したカルカロドントサウルス類であるが、これまではテキサス、オクラホマ、ワイオミングの各州から見つかっていた。今回、東部大西洋岸のメリーランド州から発見された部分化石が、初めてアクロカントサウルスと同定された。これによりアクロカントサウルスは当時の北アメリカに広く分布していた可能性が高まった。
メリーランド州にはArundel Clay (Arundel formation)という前期白亜紀の地層があり、多くは断片的ながら恐竜化石が発見されてきた。1992年にUSNM 466054という獣脚類の部分化石が発見された。これは断片的だが交連状態の部分骨格で、第3胴椎の神経弓の一部、別の前方胴椎の神経弓の一部、2個の尾椎、大腿骨の近位部、脛骨の近位部と中央部、踵骨、いくつかの趾骨とその他の骨の断片からなる。前期白亜紀の米国東部では最も完全な獣脚類化石であるという。
USNM 466054は過去の研究で何度か取り上げられているが、いくつかの研究ではオルミトミムス類と推測されていた。それが今回はアロサウルス上科で、アクロカントサウルスの特徴を示すとなった。ずいぶん体形が異なるが、オルミトミムス類と考えられていたものが、なぜアクロカントサウルスになったのだろうか。
Weishampel and Young (1996) は「獣脚類の中で、足の爪が扁平で、脛骨に前方に突出した大きな稜をもつのはオルニトミムス類だけである」と述べている。しかし今回のCarrano (2023) によると、USNM 466054の脛骨突起(脛骨稜)cnemial crestは獣脚類としては特に大きいわけではないという。それは多くのオルニトミムス類と似ているが、多くのアロサウロイドやティラノサウロイドとも同じくらい似ている。つまりその形態は、基盤的なコエルロサウルス類や派生的なテタヌラ類(コエルロサウルス類以外の)に共通したものである。オルニトミムス類と他のテタヌラ類や基盤的コエルロサウルス類を区別できるような脛骨の特徴はほとんどないという。
同様に、USNM 466054の足の末節骨の形態は、基盤的なコエルロサウルス類や派生的なテタヌラ類に典型的なものである。多くの獣脚類で、足の第II-IV 指の末節骨は平らな腹側面をもち、断面が三角形である。一方オルニトミムス類の特徴は、末節骨の腹側面の内側縁と外側縁が外側に膨らんで、底が平らなテーブル状の形態となることである。このような特徴はUSNM 466054にはない。
さらに、USNM 466054は1つのアクロカントサウルスの固有派生形質をもつ。それは背側から見たとき、大腿骨頭が内側に向かって先細りになっていることである。この標本では肝心の大腿骨頭の先端が欠けているが、保存された部分だけで大腿骨頭の前縁と後縁が収束しているのがわかるという。これは他のアロサウロイドにはみられないが、アクロカントサウルスの他の標本と一致する。図をみると確かに他のアクロカントサウルスの標本と似ているようだ。ただし著者は、アクロカントサウルスの系統にはまだ知られていない多くの種がいたはずなので、この標本をアクロカントサウルス・アトケンシスとはせず、Acrocanthosaurus cf. A. atokensisとしている。
胴椎の神経弓と聞いて、神経棘か?と期待したが、全然違った。第3胴椎の神経弓といっても神経棘は欠けていて、基部の左半分のみである。椎体はきれいに外れているので、亜成体であることがわかる。
これらの神経弓が前後に短いことは、アロサウルス、アクロカントサウルス、マプサウルス、ティラノサウルスのような大型獣脚類の形態と一致する。前後に長いオルニトミムス類の胴椎とは異なる。さらに神経弓が前方に傾いていることは、アロサウルスとアクロカントサウルスの前方の胴椎にみられるが、他の大型獣脚類ではより垂直であるという。
参考文献
Carrano, M. T. First definitive record of Acrocanthosaurus (Theropoda: Carcharodontosauridae) in the Lower Cretaceous of eastern North America. Cretaceous Research, https://doi.org/10.1016/j.cretres.2023.105814
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アクロカントサウルスが生息していた時代
前期白亜紀アプト期からオーブ期の頃は
北大はララミディアとアパラチアに別れ、更にアパラチアが三つに分裂していた時期なのかと思っていましたが、北側には陸橋で繋がってたのかも知れませんね。