気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

天守閣から濃尾平野を見渡す

2012-09-28 | 旅行記

岐阜城天守閣から濃尾平野を見渡す。・・・はるかかなたに伊勢湾・太平洋・・・この時期、霞んでぼんやりしているが、広い。

その昔、目の前を大小の河川が走り河原や湿地帯が点在し、少し離れて農道が縦横に走り、田畑の先に木立に囲まれた集落があり、高台には拠点の砦・城があった。

茶色の大地から所々で煙が立ち上る・・・アースカラーの世界・・・目の前にあったのでしょう

のどかな情景でしょうか?・・・洪水がなく天候に恵まれ、豊作になりますように・・・戦乱が終息するよう祈る毎日。

1560年5月、信長、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。この時、信長の居城は清州城でした。

休む間もなく、道三亡き後敵対している北の美濃・斉藤軍に攻め込む。

6月、8月と西美濃(墨俣)に拠点の砦を造ろうとするが・・斉藤軍の反撃に会い撤退する。

重要な攻防の拠点となった墨俣(スノマタ)は、現在観光・資料館として一夜城が建てられているが、合戦当時の場所は川を挟んだ南側といわれている。

江戸時代初期と思われる古地図を見ると、当時の雰囲気が多少伝わってくる。

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右から木曽川、中央の上部右から長良川、そして中央やや左に揖斐川(イビガワ)、これらの三大河川に中小の川が流れ込み、下流では輪中が出来ている様子がわかる。

このような地形の中を、合戦になると大軍が移動する。

洪水になると河川の流れが大きく変わり、さらに湿地帯も拡大し、大軍が行進できる街道を確認することも諜報活動で重要なことだったでしょう。

1561年5月11日 斉藤義竜が急死した。(義竜は弟2人を殺害し、父斉藤道三を1556年4月長良川で討っている。これ以降信長と敵対する)

信長は、翌々日(5月13日)美濃に攻め込む・・・どのようなコースで北上したのでしょう。

織田軍約1500人、清州城から西に約20km、木曽川・長良川を渡り輪中の勝村(岐阜県輪之内町の南、旧平田町)に布陣する。

翌14日、長良川と犀川(イビ)が合流する(当時は木曽川も合流していたようです)北方の墨俣から斉藤軍が、豪雨の中約5000人、迎撃に動き森部まで進んできた。

下図は、最近の総理府の地形図です。

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この動きを知り信長軍、長良川に沿い北上し、森部(岐阜県安八郡安八町森部)の敵勢に殺到した。

数刻にわたる乱戦の後、信長軍が数では劣性であったが、斉藤軍沼地に足を取られたりで大勝する。

この後墨俣を奪い、ここを本陣に北の十九条にも砦を構えた。

23日、態勢を立て直した美濃勢が、十九条に攻め込んでくる。

十九条の北方、十四条で合戦となる。

墨俣の本陣に援軍要請するが、信長軍劣勢。信長軍、軍を取りまとめ、更に北に位置する西軽海の古宮に陣を張る。

・・・夜半、攻めてきた美濃勢を撃退することに成功する。・・・美濃勢、夜間に撤退する。

信長軍も翌朝戦場を後に墨俣へ戻る。(信長公記)

しかし、美濃の攻略はできずに撤退する。

斉藤軍の有力武将で西美濃三人衆と呼ばれるのが、大垣城の氏家直元(ウジイエナオモト)出家後、卜全(ボクゼン)と名乗る、曽根城の稲葉良通(イナバヨシミチ)/一鉄(イッテツ)、北方城の安藤守就(アンドウモリナリ)。

・・・後に信長の家臣となる・・・

1562年3月 美濃を攻める・・・撤退・・・(戦場に行くだけで大変ですね)。

そこで居城を北に移そうと考え、1563年のある日、信長公、家臣を引き連れ遠出した。

二之宮山の高所に登り(犬山市二之宮)「この地に築城する」と突如宣言した。(参考、下図に地図)

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その場で家臣団に移住を命じ、屋敷割まで決定した。

清洲は、当時人口数万人の大都会です・・・清洲に帰ると家臣団、清洲の町民も迷惑な話で大混乱におちいった。

移転は決定事項、準備が進む・・・すると、「やはり、小牧山にする」といって移転先を変更した。・・・・・ここに信長公の知略があった。

難所の二之宮への移転を表明し、その後、場所を移りやすい小牧に変えたことで清洲からの移転そのものに対する不満をやわらげたのである。(信長公記)

小牧山:独立した峰で標高は86m、清洲から約10㎞、当時は木々が生い茂る原野だった。

山頂に本丸御殿、そして二の丸、三の丸と五段の曲輪(クルワ)、南斜面に大手道が作られ、道の両側に家臣の屋敷が並び、中段に馬場があり、裾野には堀と土塁で囲まれた武家屋敷が並ぶ、さらに多くの長屋に足軽や雑兵、各種職人街と続く城下町が現れた。

1563年(永禄6年)春、小牧山城を3ヶ月で築城し、新たな城下町に家臣団・町民も移ってきた。

木下藤吉郎(雑兵数十人を束ねる足軽組頭)は侍が住む地区に100坪の屋敷が持てた。

・・・ここからどう攻めるか?

目前に於久地城、その先に犬山城が見える。

犬山城:木曽川沿いの標高88mの丘に築かれた平山城。現在の国宝「犬山城」 HPより

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城主の織田信清(信清の父信康は、織田信長の父信秀の弟で、信秀の誠実な家臣、斉藤道三との戦いで戦死)は信長に反抗的で美濃衆と連携の動きがあり、まずは犬山城の攻略。

当時、侍は合戦で敵武将の首を捕るために鍛錬をし、合戦の後は討ち取った首を持ち帰り、翌日の首実検で有力武将と認められれば褒美と出世が約束されていた。

侍は手柄を上げられる合戦が待ち遠しいが、自分の首を掛けての出陣となる。

自軍の武将・人材は貴重であり、戦わず諜報活動で敵の勢力を減少できれば有利になる。

・・・・諜報活動で実績のある斉藤家の元家来であった槍の名手、森与三可成(ヨシナリ)。

・・・・吉野(キチノ)の兄・生駒八右衛門家長、木曽川の中州や河原で生活する川中衆、彼らの頭領の鉄砲の名手、蜂須賀小六(本名、蜂須賀彦右衛門正勝)。

・・・・そして放浪時代生駒屋敷で世話になり織田家に雑用係として仕え、信長の草履取り・足軽組頭(配下の兵は藤吉郎の家来ではなく、織田家からの預かり)に出世した話術の達人、木下藤吉郎。

彼らに犬山城と周辺の攻略を命じた。・・・調略は、圧力と誘惑・・・。

小牧山城から連日響く築城の音、そして威圧する天守閣が姿を見せると、犬山城内ではいつ攻め込まれるか恐怖感に襲われていた。

・・・最初に犬山城の有力武将、黒田砦の和田新介を寝返らせた・・・(味方になる約束をすると、即行動で効果が要求される。)

味方となった和田は信長軍の介添え丹羽五郎左と共に、於久地砦の中島左衛門を説得し信長軍に寝返らせることに成功する。

犬山城の周囲、残るは北側、木曽川を挟んで斉藤軍の伊木城、上流に鵜沼(ウヌマ)城さらに上流に猿啄(サルハミ)城・・・・

これら美濃からの援軍が送れないように、伊木城主を織田側に寝返らせ、鵜沼城を取り囲む、その上流の猿啄城も落城させた。

間もなく鵜沼城主が降伏してきた。

周囲の脅威をなくして、犬山城を攻撃開始する。(織田戦争と呼ばれた)

1564年(永禄7年)敗北が決定的になると、城主の信清は城から逃げ出し犬山城は落ちた。

長く続いた織田ファミリー内での争いに終止符を打ち、尾張は信長によって統一された。

・・・稲葉山城の東側の勢力、東美濃の攻略に乗りだそう。

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nnn・・・ 難攻不落の稲葉山城が乗っ取られた ・・・ という情報が入ってきた。

織田軍、数日の諜報活動で判明したことは、

・・・若干21歳 竹中半兵衛重治(西美濃の岩手城主)が、人質である弟の病気見舞いと称し、17人の家臣と稲葉山城に入城した。

 その際、長持ちに武具を隠して持ち込み、夜間に武装して城内の守将を切り伏せた。

 城内の混乱に乗じて、舅(シュウト)の安藤守就ら西美濃三人衆の軍勢を城内に引き入れると、国主の斉藤龍興は降伏し、城を出たと言う。

・・・噂の通り、一夜にして稲葉山城が乗っ取られている

そして、無名の竹中半兵衛の名が諸国に知れ渡った。

・・・しかし、なぜ竹中半兵衛は城を乗っ取ったのか?・・・国主を殺害せず追い出したのか? 

信長は事情が分からないが、急ぎ竹中半兵衛に使者を出す。

「2郡10万石で城を開け渡してくれ、半兵衛様には織田家の重臣として迎える」と、誘ってみるが半兵衛は応じない。

信長が条件を「美濃半国」に上げると、半兵衛は、「お考え違いをなされているようです、欲で城を奪ったのではなく、斉藤龍興に日頃の行いの反省を促すための行為です」

「上総介殿は美濃半国で城を譲れと言われるが、日本半国でも気持ちは変わらない、城は持ち主に返すつもりです」と言う。

使者が、「譲らぬと言うなら、攻め潰す」と脅すと、「半兵衛、弓矢にてお相手つかまつりましょう」と応対した。

実際、半年間占領した後、龍興が詫びを入れると半兵衛は、関係者に報復をしないこと等と条件を付けて城を後にし、家督は弟に譲り、若くして一線から身を引いた。

・・・その後の竹中半兵衛の消息がつかめない・・・。

現在の岐阜城から西南側、西美濃、そして関ヶ原方面

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信長は、後方の三河の松平家康と同盟、東の武田晴信(後に出荷して、信玄)とも友好、西の浅井長政とも友好・・・越後の上杉輝虎(後に出家し、謙信)にも貢物を贈り敵対状況にはない。

残すは稲葉山城攻略、美濃を平定しその先に京の都が・・・もうすぐ 天下布武!

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岐阜城

2012-09-05 | 旅行記

東京は連日の猛暑、暑さだけならまだしも、湿気が多いのは困りもの。湿気が嬉しいのは胡蝶蘭。

ブルーベリーの鉢が4鉢と減り、ハイビスカスの鉢、そしてぶどうの鉢が減ったので、この夏はゴーヤで緑のカーテンを作り、オクラとモロヘイヤを各々3m位並べて・・・緑の草原の雰囲気。

さて写真の整理が残っている、岐阜城について

戦国時代 稲葉山城(今日の岐阜城)は、この地域が井ノ口と呼ばれていたので「井口城」、あるいは金華山にある城で「金華山城」と呼ばれていたそうです。

信長が1567年8月この城を攻略し、この地方一帯を平定し、「井ノ口」の地名を「岐阜」と改称し岐阜城となったのは有名な話です。

この当時の城主について

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その後、1600年8月 当時の城主織田秀信が西軍に味方したため、関ヶ原の前哨戦として東軍に攻められた。

東軍には、元稲葉山城主 池田輝政が参戦していた。・・・・・運命ですね、激戦の末落城する。

翌1601年6月 岐阜城は廃城となり、天守閣、櫓(ヤグラ)などは加納城に移された。

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最後の城主が、織田信長の孫 織田秀信(幼名が有名な「三法師」、信長の後継者に担がれました) 落城当時若干21歳(数えで) 波乱の人生です。

織田秀信・・・父は信忠、・・・祖父は信長、曽祖父は信秀

当時は誕生すると1歳、年が明けると(元旦に)2歳、12月に生まれたら1か月後に2歳です。

年齢の数え方(数え年)と月(旧暦)が現在と異なるので注意が必要です。(誤記もあります、あしからず)

現在の城は、1956年(昭和31年)7月 当時の建築を推定して復興され、鉄筋コンクリート造り三層四階構造、棟高17.7m。

1階 「武具の間」

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刀の鍔(ツバ)

合戦で斬り合いになった時重要なのは甲冑(カッチュウ)に負けじと突きの動作、この時、持ち手が刃先まで滑らないように柄の部分に取り付けられた。

斬り合いで相手の刃を受け止めるには大きいサイズが有利だが、合戦の組打ちでは大鍔(ツバ)は帯につかえて動きが妨げられ弱点にもなる。

刀の長さも色々で(腕の長さが抜き易い基準のようですが)、鍔の大きさ、仕上げも色々あり交換部品として商いされたようです。

鍔は付いていれば良い時代から機能美・そして加飾、名工も美濃を始め全国に生まれ、透かし、彫金、・・・技法も発達していきます。

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刀剣も、太刀(タチ)は最初は刃が直線でした。徐々に刃に鎬(シノギ)があり、反り(ソリ)がつくようになる。

馬上での切り合いが主流の平安・鎌倉時代から室町時代までは、太刀が主流のようです。

太刀は刃を下(地面)にして腰に吊り下げる様式、鎧兜で防御した武者人形のイメージでしょうか。

戦国時代は、武士の中でも主に武将達が使っていたといわれています。

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江戸時代の無名の刀・・・豪華な鞘袋ですね。鞘袋は鞘(サヤ)・刀身の損傷防止や雨対策もあったようです。

刀身、柄(ツカ)、鍔(ツバ)、鞘(サヤ)・・・武士は細部まで手入れを怠らず・・・

名刀が手に入ったら、実戦で即使ってみるでしょうか?・・・そうは簡単に戦場で使用できないでしょう。刃こぼれするし、破損するし、せいぜい試し切り?

機能・耐久性が向上したわけでもなく、高額な美術工芸品を購入して鑑賞できる喜びでしょうか。

名刀はコレクションされ、諸大名への贈答に重宝されました・・・茶器と同様ですね・・・そして新品同様の品が、このように展示され美術品として後世に残った。

信長が桶狭間の勝利で、敵将義元の名刀「義元佐文字」を手に入れ、茎(ナカゴ)に自分の銘を刻みなおしています(参考:建勲神社蔵)

武士は、武具にはお金をかけたようです。

江戸の初期、肥前の刀工に刀を頼んだら・・・金100貫(=1文銭1000枚) 約200万円とありました。貧乏武士は、数年のローンが必要なくらいの金額です。

ところで黄金が大好きな豊臣秀吉は、関白時代どの位刀剣を所有していたのでしょうか?

1598年8月死期を悟り、五奉行を枕元に呼びよせ息子の将来を頼み、そして形見分けに刀箱を7箱持ってこさせると・・・・・

名刀「一期一振吉光」(国宝)を含め、何と高価な刀が82振も入っていたそうですよ。・・・ザックリ 約300億円!ともいわれます。

前田利家、徳川家康らに形見分けされた名刀は、現在国宝指定となっています。

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室町中期以降から江戸時代には、刀身の刃を上向きに鞘に納め、腰の帯に差す刀が主流になりました。

このスタイルの刀剣を打刀(ウチガタナ)と呼びます。

・・・抜いたら即袈裟に振り下ろす・・・一瞬の勝負

剣術の流派が数多く誕生します。

江戸時代は大小2本の打刀を差すようになり、これが大刀(ダイトウ)・小刀(ショウトウ)となり、今日TVで見慣れたスタイルになりました。

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鎖鎌: 田畑で収穫時襲われたら草刈鎌など身近な農具で戦う、・・・農地を守るために武装した・・そして武士が生まれた、・・・身近な武器の発展系

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兜:・・・馬上で自己主張した個性ある優雅な兜は、弓矢対策から鉄砲の時代へ進化していく

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2階 「城主の間」

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根性のある策士の顔ですね・・・、美濃、稲葉山城の元城主 斉藤道三

織田信秀(信長の父)が1547年、何度も美濃を攻めるが道三(美濃の衆)には勝てない。

そこで家臣の平手政秀が、我殿 信秀の息子・信長と何と道三の娘・濃姫(帰蝶)との縁談をまとめた。

その後、濃姫が信長に嫁いだ時期については、各種の説があります。

1548年 信長15歳(数え年)の説や、1549年3月23日 信長に嫁いだとの説・・・etc.

当時は縁談だけまとめて、嫁ぐのは未定という同盟協定が優先するのはよくあることでした。

この2階には、濃姫や明智光秀(地元 美濃土岐市)、この城を一時乗っ取った竹中半兵衛重治・・・などの肖像画も掲げられています。

 

3階 「信長公の間」

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岐阜城3Fの信長の肖像:蛍光灯が映りこんで見難いが決断力・行動力がありそうですね。

但し、ワンマン、切れると容赦なし・・・ 

天下布武:1566年(永禄9年)9月 信長、斉藤龍興を破り美濃制圧に近づき、この頃から「天下布武」の印を使い始める。

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天下布武:武力によって天下に号令する、

1565年5月、足利将軍が暗殺された。下克上の世の中とはいえ、天皇・将軍の権威が失墜する。

信長は思っていたのでしょう、武力の支えがなくてこの先世の中が安定するのか?

美濃を攻略できたら京に上る・・・武力によって・・・強い意志を印状で告知し始めた。

天下布武:有名な印章も徐々にデザインが変わります。

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信長の黒印状です。信長の直筆でしょうか? 良く見ると、紙の上半分だけ使われています。

「折紙」(オリガミ)といわれ、上下半分に二つ折りにし、細長く半分になった片面に書き始めます。

長い文章は折ったまま裏返して同じように書いていきます。

開くと上半分は上向きに書かれ、同一面に下半分が下向きに書かれた状態になります。

(二つ折りにしたまま読み始め、反対にして読み続ける)

軽微な内容や、目下の者に略式で出される場合に使用されることが多く、信長は圧倒的に折紙が多いようです。

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こちらは朱印状、折らずに書くのを「竪紙」(タテガミ)といい本来の古文書の使い方。(こちらも折紙のように見えますが)

印章が使われる前は、花押(カオウ)というサインの1種でしたが、幼少の大将が跡を継いだ場合サインが出来ず印象が用いられた。

朱印が使われ始めると、黒印・朱印の使い分けは?・・・朱印は豪華です、自然に公式で重要な文書は朱印状が多くなります。

この朱印状も信長の直筆でしょうか?

残念ながら、違うようです・・・抱えられていた書記役の家来が大半の文章の執筆をしています。

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この椅子に座った信長の肖像、装束より室内の小物が気になりますね。

ペルシャの絨毯?、左のテーブル上の地球儀、右後ろの聖母マリア。

1569年、信長は異国の宣教師ルイス・フロイスと始めて会っている。

彼に質問する:年齢、人種、インド・ヨーロッパと日本の距離、月や星の運行、文化、風俗、デウスの教え、・・・多くの情報に触れることになります。

これより前、1549年、フランシスコ・ザビエル・・・イエズス会宣教師 鹿児島に上陸しています。

なぜ、地球の反対側まで生死の危険を冒し布教に来るのか、彼らは何者でしょう?

当時大航海時代、ヨーロッパ人が見知らぬ土地に到着し(そこは他国の領土であり、住民もいる)新たに発見した土地に対し、自国の土地として勝手に境界線を引いた。

この境界線は、教皇アレクサンドル6世の勅書で教会保護権によるとされていた。

教会保護権には果たすべき義務があった。

新たに発見した土地に対しては福音を伝えなければならない(ということは宣教師が住民に布教をし教会を建て、学校を建てること)を義務付けていた。

当時のヨーロッパは、ポルトガル王とスペイン王に支配されていて、二つの国王はイエズス会による新大陸への布教に期待をかけていた。

イエズス会は1534年パリで結成、6人で活動を開始した。

従来の修道服の規定や歌唱など古い様式を廃棄し、「貞潔・清貧・教皇への絶対的忠誠」を誓い、厳格な軍隊式統制によってプロテスタントへの攻撃と全世界へのカトリックの伝道に従事することで、1540年、ローマ教皇パウロ3世の認可を受けイエズス会として発足した。

スペイン語では「イエスの軍隊」を意味する。

イエズス会はアフリカ、中南米、東南アジア・・・、信長の時代にすでに世界各地で布教している、福音伝道のために各地で学校を設立すること、これも役目である。

・・・・・そしてフランシスコ・ザビエルの時代も今日も、イエズス会の会員は2~3万人といわれる。

カトリック教(イエズス会はカトリック教)が世界の情報を集め、その頂点が、イタリア・ヴァチカン市国、ローマ法王です。

四百数十年前から、日本の情報もヴァチカンに届いていました。そして今日も。

最上階 「望楼の間」 展望台

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展望台から西の方角・・・足元を鵜飼で有名な長良川が右から左へ流れてゆく。

この岐阜城では、特定の期間、夜間ロープウェイを運行し眼下の夜景が見られます。(上段の写真)

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はるかかなたに名古屋城があります。南南東に直線で約30㎞くらいでしょうか。

清洲城は、南に約25㎞、遠いですねー

眼下を左から(東から)右へ(西に)木曽川が流れ、木曽川の向こうが尾張(信長の時代、木曽川の先は上四郡、その向こう 海側に下四郡)と呼ばれた。

信長は桶狭間に勝利した後、稲葉山城を攻略するまでが難しかった。

7年の歳月を簡単に整理したい。

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