気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

奥の院 三の橋から

2015-11-11 | 旅行記

クリスマスが近づくこの時期に、パリで自爆テロのニュースが流れて来ました。テロは許せない、無差別殺人・・・TVから定型の文言が流れてきます。

犯行はイスラム教スンニ派過激組織(イスラム国)とフランス政府が発表・・・繰り返し放送され多くの人々が悲惨な状況をインプットされました。

イスラム教はコーランで自殺を禁止しています。しかし、欧米を敵と教える一部の過激組織は、聖戦に参加し自分の命を捨てる(自爆)行為は自殺とはみなされず、最高の栄誉と煽っているようです。

景気拡大の時期に欧米に移住したイスラム教の方達も、今では2世、3世が社会で活躍する時代になりました。成長が鈍化すると多くの人は貴重な労働力から、一転選別される側の労働力になり格差社会を実感します。

血気はやる若者の中には、中東に行き過激組織に生きがいを求める人が出てきます。受け皿として、テロの訓練と経済援助が用意されています。

そして同じ頃、シリアおよび自称イスラム国周辺では空爆の雨が降り、生活が成り立たなくなった普通の人々が難民となる悲惨な状況が続いています。

想像力を働かしても戦争体験の無い平和ボケの身には、肉片が飛び散る状況に現実感が無く、情報量が圧倒的に多い欧米のマスコミ論調を物差しに、いつしか反イスラムに刷り込まれていきます。

欧米のマスコミ業界、ベルギーの金・ダイヤ取引業界、金融、政治・・・これらを操る際立つ人種は・・・神に選ばれたユダヤ人。旧約聖書に登場するこの神は、キリスト教もイスラム教も同じ神なのです。

・・・確かに世界を動かしているのは、ユダヤ財閥であり、結果的に神に選ばれたと自称するこれらの人々は優秀なんでしょう? 幸せな人々かは別にして。

・・・宗教は難しい、宗教団体は向く方向が同じなので、他の意見を聞く耳持たず、パワーが強大になり影響力は大きい。元ブッシュ大統領の支持母体の中で、キリスト教原理主義者の団体は有名です。

戦闘を取り敢えず停止するには・・・方法が無いのでしょうか?

・・・・・この聖地と言われた高野山も、ある時期に殺戮があったようです。そして戦争状態に突入かと危ぶまれた時期がありました。

僧侶が武器を持ち政争に参入してきたことに対し、信長は比叡山延暦寺を焼き打ちにしました。宗教を敵にまわしたのか、武装坊主を敵にしたのか・・・?

一向一揆の武装信者も武力で押さえ、浄土真宗総本山・石山本願寺も11年に及ぶ戦争状態から、1580年4月顕如が本願寺を去ります。

残されたここ高尾山では、・・・荒木の部下5人が保護を求めて高野山に逃げ込みます。高野山の対応は、・・・この山から退去したと、・・・しかし信用できないと信長の家来が探しに入りました。

・・・乱暴狼藉が過ぎたとして、信長の家来32名に酒を飲ませて酔わせると、何と・・・皆殺しにしたそうです。僧侶が?信じられない話ですが、戦国時代では有りえたのでしょうか。

信長は高野山を弾圧するが・・・高野山は屈せず、ついに・・・1581年10月、総大将 織田信孝(三男)、13万7000人の兵で高野山攻めを開始します。

当時は並行して、武田軍の攻略、中国地方の平定もあり、比叡山を攻めたような急戦は無理で、持久戦の構えでにらみ合いが続く・・・、この時、高野山は僧兵と合わせ3万人以上が各所の守りについたと言われています。

ところが、翌1582年6月本能寺の変、・・・高野山は呪術の力で敵を倒した。聖地は救われたとするが、・・・そして、3年後、1585年、後継者秀吉が10万人以上の大軍で討伐に来ます・・・周辺の根来寺も焼き尽くされ、急な展開に驚き・・・高野山は使者を立て交渉の結果、秀吉の3か条の要求を・・・戦わず受け入れ降伏します。

・・・敵対から、友好へ。

秀吉はこの高野山奥の院に、1587年から1592年にかけて豊臣家の墓地を建立しています。

では、秀吉の墓を見に行きましょう。

一の橋から車で371号線を800m位走ると、中の橋駐車場や案内所、食事処などがあります。

案内図のように、一の橋から弘法大師御廟へと続く2㎞のルートの東側、世界遺産に含まれない公園墓地をしばらく通り、左折して合流します。

駐車場側からの景観です。この公園墓地ルートは、一部の観光客に人気のルートでもあるようです。

右側が案内所、車椅子でも通れるように整備されています。

道幅1m位の凸凹道を想像していましたが、道幅が広い。墓石や供養塔などの設置や保守に、大木の撤去などに大型クレーン車も出入りが必要で公園墓地の道幅は広くとられていました。

さて樹木の先、いきなり右側にそれなりに大きいロケーットが、3段式か?、ビックリし、ここは墓苑だろう?・・・この供養塔が新明和工業、高波に対応する救難艇は昨今海外で有名になっている製品も作っている会社だが。

さらに、左側から、何! というような文字が飛び込んできました。

害虫駆除で利益を上げて・・・シロアリさんがここまで豪華に祀られて・・・普通しないでしょう・・・この業界、相当利益率が高くて・・・懺悔でもしたいのでしょうか。

ロケットの横には、このような企業の慰霊碑が、これから法事のようです

上部のマスコットが目立ちますね、戦後の復興期にでも建てられたのでしょうか

左に曲がる所に、写真業界に貢献された人々の陶板写真が

正面の丸筒はフィルムのパトローネでしょうか、

昭和31年の文字が碑文にあります。この地、標高約900mの聖地に敵味方の分け隔てなく、宗派も問わず皇族も武士も庶民(平民・市民)も静かに眠って土に帰る。

風化しないような肖像をいつまでも立てておかれては、土に帰れないでしょう、かわいそうに。

建立した方の自由だ!・・・確かに、そうでしょう、・・・現実は貴方もこの聖地で墓が持てるようです。この一帯にある寺が各々区画を持っておられ、寺の檀家になり空き地が利用できるようです。

一の橋からの道に合流し、ここは世界遺産の道です。

・・・靖国神社以外に、この地にも近衛兵の文字がありました。

樹齢数百年の杉木立と苔生した石碑が立ち並びます。奥の院の参道には墓石が20万基を超すともいわれています。

この左奥には、浄土宗の開祖法然上人の慰霊塔があります。

浄土真宗の開祖親鸞聖人の供養塔は過ぎてしまいましたが、多くの方が空海さんを慕ってこの地に供養塔を建立されています。

左側に大きな石段があり、左の石柱に豊臣家墓所とあります。

立派な階段です。では階段を上がると、広い・・・右側に案内板があります。

玉砂利が敷かれ、玉垣をめぐらした300㎡位の広い墓地です。五輪塔が数基、一列に並んでいます。秀吉、母上、弟秀長、その妻など豊臣家の墓です。

案内文を合成で表示してみました。中央が秀吉の墓です。

・・・高野山攻めを行い無条件降伏させたのが、1585年です。秀吉は、1594年、この高野山に登っています。・・・母の3回忌の法事を高野山で盛大に行ったそうです。

この間に何があったのでしょう・・・。秀吉の大軍に高野山が和平交渉の使者にと立てた人が、50歳の客僧、木食応其(モクジキオウゴ):木食とは(穀物などを断ち、草や木の皮などを食べる木食行をした僧のこと。)

応其は元は武士で、厳しい修行をした高僧です。先に攻撃され炎上した根来寺の交渉も行い、秀吉に信頼されていました。高野山攻めは交渉の結果、条件を受け入れ中止されます。その後、応其も秀吉の政策を支える良好な関係になり、1586年大阪城で秀吉に謁見しています。

まもなく秀吉は金堂再建に、米1万石、寺領(ジリョウ)3000石を寄進、金堂は1587年完成、弟秀長が秀吉の名代として落成式に出席しています。

さて、全国に高野山の寺領がありましたが、・・・1591年に検知で1万1000石の所領を認められ、さらに1万石を秀吉から与えられ、2万1000石になります。

信長の時代から、寺領はどのくらい変化したのでしょう。

・・・正面に建物が見え、奥の院の参道もそろそろ御廟の橋になるのでしょう。

この位置で、通路横に真新しい案内板が見えました。・・・左への矢印・・・案内板に有名な武士の名前を見つけました。

案内板の指示通りに左の脇道に入ります。狭い登り道を進むと、道の左側5mくらい先にこの方の供養塔がありました。

織田信長公・・・思ったより狭いスペースに、その供養塔はありました。

信長公の時代、高野山の寺領は、今の静岡県や四国、福岡など広範囲にあり、何と17万石の寺領と3万人の僧兵という規模だったようです。

信長に敵対した石山本願寺は、財力では高野山以上と思われます。イエズス会(カトリック教)の宣教師が「国中の富の大部分は顕如が所有している」と本国に報告したように、門徒からの上納金は莫大な額にのぼり、一向一揆の武力を利用し、政治力で戦国大名と同盟・敵対を繰り返し、武装をして信長と11年もの間戦争を繰り返しました。

・・・高野山の焼き討ちを木食応其(後に、寺の名前から興山上人(コウザンショウニン)と呼ばれる)の説得で取り止め、以後高野山の復興に力を尽くした秀吉の墓所は広い場所でした。

一方、信長公は、・・・この地に、供養塔が確かにあったことが驚きでした。

・・・さて、清流の流れる玉川に着きました。この川の手前に数多くの仏像が並んでいます。

地蔵、不動明王、観音菩薩、参拝者は、ご先祖の冥福を祈ります。ここは水向け地蔵と呼ばれています。

川の中に卒塔婆が立てられています。この世を水難事故などで亡くなった方の霊を水で清める追善供養をされています。

案内板がありますので見てみましょう。

奥の院、一番奥に弘法大師の御廟があり、その手前に燈籠堂(トウロウドウ)があり、そこでお参りをします。

この玉川に架かる橋、御廟の橋:36枚の板石で敷き詰められています。これらの石の裏側に各々梵字が刻まれていて、この石が36尊を表し、さらにこの橋全体で1尊を表し、この橋は、金剛界の37尊を表しているとのことです。

さて、この玉川が結界になります。ここから先は写真撮影禁止です。

下記の画像は、南海りんかいバスの観光案内より拝借、

正面奥の建物が燈籠堂です。帽子を脱ぎ、一礼してから橋を渡ると、すぐ左に迂回する小道があります。その先に小さい祠があります。

弥勒石として、パンフレットにも掲載されています。画像は和歌山県観光情報より拝借

小窓から片手を差し入れ幅20㎝位の石を持ち上げ、一段高い後ろの場所に移動させると願いが叶うという所です。

そして先に進み、石段を上がり燈籠堂に入ります。下記は燈籠堂の内部です。旅行会社のFindTavelの画像を拝借。

空海の甥、真然大徳(シンゼンダイトク)が創建、昭和に改築されています。天井に無数の燈籠が灯されています。信者から2万基以上が奉納されているそうです。

正面で、この奥にある御廟に向かって参拝します。

左側のカウンターで奥の院の文字が目に入りました。

紋が二つあります。高野山真言宗の寺紋が「右に巴、左は桐」、巴は我が家も同じですが神社に多く、ここでは地主神の天野社、桐は豊臣家の家紋で、秀吉に対する配慮が見られます。

燈籠堂の左側から一旦外に出て、順路を裏手にまわります。空海さんが眠っておられる御廟がありました。その前に祭壇があり、蝋燭が灯り、お経を唱える参拝者のグループ。その方たちの中に入り一緒にお参りをしました。

背中に「南無大師遍照金剛」(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)と書かれた白衣のお遍路さん達でした。

空海さんが唐で真言密教を極められて、師の恵果(ケイカ)さんから灌頂(カンジョウ)という儀式を受けられたそうです。

空海さんが、花を曼荼羅の上に投げると・・・花は2度とも大日如来さまの上に落ちたそうです。そこで恵果和尚から大日如来の別名「遍照金剛」の名前を灌頂名として頂いたといわれています。

「遍照」とは、仏さまの慈悲の光明で照らされているの意。「金剛」はダイヤモンド、堅固で輝きを失わない。

真言宗では、この遍照金剛に南無 大師をつけて「南無大師遍照金剛」と唱えるお経は、御宝号といわれるそうです。

大師さまを拝み、また大師さまに守られて精進しますと・・・真言宗豊山派の家系の者として・・・良く知りませんで申し訳なく思っております。

御廟から、更に半周し燈籠堂に再び入り、地下に階段で降りることができます。

一方通行の順路になります。地下の天井は同じく燈籠が無数に灯り、通路横の壁には手の平大の大師様の像がびっしりと並んでいました。5万体といわれています。御廟の地下で眠られる空海さんの近くまで進むと、祭壇がありました。

正面は紗が掛かったような感じになっています。この正面の目線の先に、御廟で空海さんが眠られていると思うと不思議な感じになります。手前に大きな数珠と法具が置かれ触ることができます。

・・・虚空(コクウ)尽(ツ)き、衆生(シュウジョウ)尽き、涅槃(ネハン)尽きなば、我が願いも尽きん。(この宇宙が尽き果て、人々が尽き果て、さとりの境地が尽き果てることがあるならば、私の願いも尽き果てよう。)

832年8月に「高野山萬燈会の願文」のこの様な言葉を残されています。これは尽き果てるまで、・・・空海は自分を生かしてくれているすべての物に感謝する心から、人々を救いたいと永遠に願っています。・・・

鎮護国家のために大いに働かれ、59歳で心境の変化があったのでしょう。

834年5月弟子達に来年3月この世を去ろうと思うと伝えられ、835年3月21日教えの通り、生きたまま大日如来と一体になる永遠の瞑想・即身成仏に入られた。

高僧が無くなると入滅(ニュウメツ)、しかし空海さんは入定(ニュウジョウ)と呼ばれます。

1200年という長きに渡り、このように多くの信者に参拝されていたことを目の当たりにすると、後年数々の伝説が生まれるのは、当然と思えてきました。

異次元の体験ができた燈籠堂を出て、結界を越えて参道に戻って来ました。

・・・何故か、お地蔵さんが目につきました。

参道を左に曲がり、来た道を引き返す途中で、現実に引き戻されました。

東日本物故者慰霊碑・・・で法要が営まれていました。

自然の力の大きさを思い知らされたと同時に、制御できない傲慢な未完成の技術で、危ない物質を抱えて宇宙に戦いを挑む一部の人間に、空海さんはどんな言葉を掛けるでしょうか。

 

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奥の院 一の橋

2015-11-01 | 旅行記

金堂を出ると・・・眩しい中門が、

階段を下りて、・・・にわか観光客と違い、手慣れた様子の方達が目の前を通り過ぎた。

何故か、この伽藍にふさわしい被写体に思えた。

その昔、大師講などで念願の高野山へと・・・遠くから多くの団体参拝客が、・・・一日がかりで山道を登りこの伽藍にこられたのでしょう。

朝東京を飛び出して、昼参拝している人々とは、受ける感動も想像外でしょう。マァしょうがない。

中門から高野山の街中を金剛峯寺へと進む。

右側の駐車場は満車のようだ。

金剛峯寺は、帰りに寄ることにして直進し奥の院へ

さてここが奥の院入口、一の橋、橋の手前に案内板があります。

ここから、約2km先に奥の院があります。鬱蒼とした森に、良く手入れがされた参拝の道が続いています。

貴重な案内板を見つけました。

誰々さんのお墓、どこですか・・・歴史上の人物が数多く眠っています。次々に質問されるので案内板が掲示されるようになったのでしょう。

直ぐ先に、武田信玄の墓があり、斜前に親友の上杉謙信の墓が、・・・明智光秀も、織田信長も、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、石田三成、徳川家康、・・・東日本大震災物故者慰霊塔まで800年の歴史が・・・

この方は

念願の聖地で眠れて、安らかな心境でしょう。

ひんやりと霧がかかった早朝、小石を踏みしめて歩く、・・・そのとき、何を考えているのだろう・・・

空海さんが迎えに来てくれているそうです、・・・一の橋で礼拝?・・・してなかった。

戻って、礼拝して

車を移動して、ここで昼食、改めて奥の院に向かいます。

 

 

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