21世紀初頭、新種ウイルスが世界中に・・・黒歴史の真只中で新年を迎え・・・沈んだ気持ちで喪に服して、1か月
・・・この間、関心事はリーダーの資質、トランプ前大統領は、凄かった。
信者たちを囲い込み、この人達が最大の関心事、ライバルを罵倒し・・・商売人に見られるハッタリパターンのようです。
敬虔なるキリスト教徒の素振りで、全米人口の25%ともいわれる福音派(聖書中心の主にプロテスタント保守派の総称)の支援を受け当選
福音派の喜ぶ政策を次々に・・・、三大宗教の聖地・エルサレムに、争いの火種、イスラエルの首都移転を承認、アメリカ大使館も移転しました。
福音派代表ペンス氏を副大統領に据え、彼を唯一解雇せず側近として重宝してきましたが、今般、大統領選挙の敗北を潔く認めたことに激怒。
ペンス氏が上院議長として新大統領を決議するホワイトハウスに信者をけしかけ、煽られた子羊は、裏切り者ペンスを探せ、吊るせ・・・、
・・・今日は最後の花道とその場に家族を招いたペンス氏は、何と・・・ホワイトハウスが流血の争乱状態、死者も出る惨事に・・・なんて日だ!、
よく映画に登場する秘密の地下道?でしょうか、危機一髪、ペンス家族・・・脱出成功。
・・・判断を他人に任せて進軍した子羊は、尊師の言われるままに猪突猛進、信者の集団行動は恐ろしい
これは教団を持たない、ツイッターによる新たな洗脳、教団職員など維持費に苦労しない21世紀の新教団スタイルでは。
教団の権力者と統治に関心があるので、世界を動かしている人々と宗教を学ぶ必要を感じている毎日、
トランプ氏は刺激的なメッセージを発信し続け、信者を維持していますが・・・、権力が低下した今後に注目です。
・・・さて、ボルゲーゼ美術館、ベルニーニの活躍するチョット前に、ローマで話題になった人の作品も多数展示されています。
カラヴァッジォです。イタリア北部から復興中のローマにやってきて、絵画の才能が花開くのですが
ボルゲーゼ美術館【 第8室、「果物籠を持つ少年」1594年23歳頃の作品 】
生物の少し傷んだ部分をそのまま表現しています・・・生き物は朽ちる、発想の新鮮さ、正確な描写力、
当初は画家の下働きで、ジプシーのような環境で描いた作品が、モンテ枢機卿の目に留まり道が開けた
シピオーネ枢機卿も若きカラヴァッジォの才能を認め、絵画を発注しています。
カラヴァッジォはやがて、金に不自由なくなると街に繰り出し、・・・なぜか素行が悪かったようです。
傷害事件や剣の不法所持の記録が残っています。伝わるところでは絵の制作は1週間、街で楽しむのが3週間、
1606年、35歳ころ決闘で相手を死亡させ・・・なんと死刑判決が出て、・・・逃避行、
最初はローマ南東の貴族の館に逃げ、作品を描きながら
【 第8室 「ゴリアテ(カラヴァッジォ自画像)の首を持つダヴィデ」1609-1610頃の作品 】
逃避行は南へ続き、ナポリ、マルタからシチリア島へ
・・・絵筆を持ち、作品を残しながらローマに恩赦を願い出ていました・・・
恩赦を願っていた先が、教皇の甥、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿、彼は大きな権限を与えられていました。
カラヴァッジォの作品は、この美術館に22歳ころの自画像や、聖ヒエロニムスなど数点展示されています。
ところで収集家のボルゲーゼ卿は、権力を利用して強引に作品を持ち帰ることも・・・貪欲な面もあったようです。
下のラファエロの作品も、
【 第9室 ラファエロ 1507年 「キリスト降架」1507年 】
この作品には、周辺部があったようです
1507年、ペルージアのサン・フランチェスコ教会の大祭壇画として描かれ、教会に掲げられていました。
・・・101年後(1608年?)夜間・・・密かに祭壇画が外され、・・・不法に持ち出されてしまいます。
ローマ教皇パウルス5世のもとに送られ、さらに甥のボルゲーゼ枢機卿に届き・・・この館で飾られます。
その後教皇国は、1797年ナポレオンに敗北、・・・多くの絵画など芸術作品がパリに行き、
・・・1816年、ローマに還付され、この作品は中央部がボルゲーゼ美術館に戻された。
概略そのようにボルゲーゼ美術館のガイドブックに記載されています。
すごいですね、この時期の教皇は・・・プロテスタント勢力と対抗しながら、権力を最大活用、系列の教会は訴える先がなかったのです。
他にも、当美術館の財産目録では、レオナルドの空気遠近法の効果などを学んだ多くの画家の作品群があり・・・
その中に師匠、レオナルドの作品【 レダ 】が・・・1893年まで300年間、・・・真筆と信じられて展示されていました。
この絵の帰属に関しては未解決とあります、レオナルドが亡くなった時点で未完であり、弟子サライの加筆か模写か、多くの説があります。
さて、復興中のローマに芸術の風を吹かせたカラヴァッジォの他の作品を見たいので、2019年のローマに戻りましょう。
少し霧雨模様のローマ市街を取り囲む城壁、かつては北からの訪問客はこの門を目指しました・・・ポポロ門です。
こちらは城壁の内側、・・・広いポポロ広場中央にオベリスクが立っている所からの景観です。
門に沿って右に見えるのは・・・鐘楼があり、教会です。
では、ポポロ門に近づき、門の横から教会を
古そうですね、1099年、教皇がポポロことローマ市民のお金で建立した教会なので、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会。
この教会は必見ですよ、巨匠の作品が沢山あります。
では入口から・・・中央の主祭壇、その左側の礼拝堂にライトがついていて、混雑しています。
手前の混雑の先、主祭壇の横の礼拝堂です。
当時絶大な人気だったカラッチ「聖母被昇天」です、色彩が鮮やかです。
巨匠カラッチは、バチカンの宮殿で古代彫刻のデッサンをしていた幼きベルニーニを
「他のものが年をとってようやく達する域に、この子はかく幼くして到達してしまっている」と舌を巻いたと伝えられています。
・・・幼きベルニーニは、・・・父親の彫刻作品と美しきギリシャ彫刻に囲まれてデッサンが遊びだった、恵まれた環境で成長します。
さてこの礼拝堂は、チェラーシ礼拝堂です。
両サイドのリアルな絵画は当時は人気がなかったようですが、現在は人気の画家カラヴァッジォの作品です。
「聖ペテロの殉教」初代ローマ教皇、ペテロです。
ローマの人々をモデルにして制作、ストロボを発光させた瞬間のような強いコントラスト
地面の描写、足の裏まで観察眼は鋭いです、
しかし、当時は現場を見てきたような・・・描写があまりにも生々しく、賛否両論・・・あったようです。
右側には、「聖パウロの回宗」、パウロがイエスの声を聴いたと言う場面、その後キリスト教に回宗する有名な場面です。
逃避行中の画家カラヴァッジォは、その後・・・ナポリからトスカーナに向かう途中マラリアにかかって、39歳で波乱の人生を終えています。
この教会は、まだまだ人気スポットがあります。
入口からすぐ左の礼拝堂、ドームを見上げる人々がいます
ラファエロ、天井クーポラのモザイクをデザインしています・・・ここは、キジ礼拝堂です。
ラファエロの設計になる、親交のあった豪商キジ家の礼拝堂です。
造られたのは16世紀初頭、ラファエロから約100年後、曽孫のファビオ・キジ枢機卿が新教皇に選出されると
1655年4月7日、キジ枢機卿は、新教皇アレクサンデル7世となります。
ベルニーニは、・・・1655年には56歳、晩年でした。(20代のボルゲーゼ美術館の作品から、ここの作品は50代でのお仕事です)
22歳で、当時の教皇から騎士の名誉を授かり、更に同年にローマのサン・ルカ美術アカデミーの会員に迎えられたベルニーニです。
この時代、教皇や枢機卿の周囲で多くの芸術家が仕事を求め、有力なライバルもいましたが、ローマの美術界に君臨していたのはベルニーニでした。
新教皇が誕生するや・・・日が沈む前に呼びます、・・・ベルニーニは、新教皇からキジ礼拝堂の整備を依頼されます。
教皇はそれ以外にもサンタ・マリア・デル・ポポロ教会も改修しよう。ここのポポロ広場もと次々に、
教皇に吉報が届いた、12月のクリスマス前にスウェーデン女王クリスティーナが、ローマにやってくる、その旅費をバチカンは援助していた。
女王は周囲と同様プロテスタントだったが、改宗してカトリックになるという、バチカンはこれは大イベントになる・・・
この話にローマ中が大歓迎することとなり、・・・準備は急だった、装飾はすべてベルニーニが担当、馬車もアレもこれも
まず、ポポロ門の改修もベルニーニに、・・・新教皇と女王の紋章を取り入れて豪華に装飾、
門の上部に「星がありその下を重なった六つの山」(これがアレクサンデル7世の紋章)
その下に花飾りが横たわり、麦が女王の紋章とのことです。
この女王はベルニーニのファンになり、1657年5月からローマに永住し、バルディヌッチに「ベルニーニ伝」の執筆を依頼しています。
・・・多忙で、キジ礼拝堂は完成が少し遅れました。
ベルニーニは祭壇の左右にあるニッキア(壁龕・へきがん)が4か所あり半分未完成だったので、これをまず完成させさせないと。
ラファエロのデッサンで左右の奥2対は「ヨナ」と「エリア」の像が完成していた。
そこで空の左右手前のニッキアに、有名ではないダニエル外典「ベルと竜」から作品を完成させます。
【 ハバククと天使 】
右腕が伸びています天使のようです、そして反対の手で誰かの髪をつまんで
何をするんだ!この人物は、預言者ハバククでパンを近くに持って行く途中、天使に捕まり・・・
この像は、物語の最初で右奥に据えるのが良い・・・目線は天井を進み対角線に・・・左手前に落とすと考えたのでしょうか。
反対側の手前に、相手の像「ダニエル」を据えよう。
既設の右奥の像を右手前に移して、1661年11月には「ハバクク」を据えて完了します。
一方、こちらがパンが届けられる「ダニエル」
【 ダニエル 】バビロンでライオンの穴に投げ込まれたダニエルに、天使に導かれたハバククが食べ物を届ける。
そんな、紀元前606年頃、ユダヤ教の物語とのことです。(カトリックの礼拝堂、ギリシャ神話は異教で論外です)
こちらは、1657年6月までには完成したようです。
2009年公開された「ダ・ヴィンチ・コード」の続編、「天使と悪魔」ダン・ブラウン作の大ヒット作品、見ました?
1668年の出来事、「ラ・プルガ」、当時の科学者4人(イルミナティ)をバチカンが公開死刑をした事件。
これへの復讐として4人の枢機卿が誘拐され、1時間おきの殺人予告、キーワード、「土」、「空気」、「火」、「水」
・・・このキジ礼拝堂が「土」で・・・床下で枢機卿の死体が発見される。ポポロ教会はロケを許可しないでしょう。
映画では、ポポロ教会は全面的に修復中で、外壁はシートの覆い、内部もパイプの足場が組まれ、ビニールで養生され、作業現場風景
床下から死体発見後「ハバククと天使」のビニールを外すと、天使の右腕が次の殺人事件の手掛かりを示していたのです。
・・・戻って、あのマルティン・ルターも、はるか遠方のドイツから憧れのローマにやってきた際は、このポポロ門から城内に入ります。
1510年、田舎の司祭は免罪符をたくさん買って、自分と家族の罪を帳消しにとやってきて・・・ローマの宮殿や聖堂に感激したそうです。
宿屋は、右側のこの教会・・・それから10年も経たない内に、ローマに巡礼に行かなくても・・・免罪符を買うだけで救われる?
本当ですか?・・・(本来は)祈りでのみ 救われるのでしょう! 教皇庁に質問したが、ルターの正論は認められない。
教皇庁の金集めの手段とバックマージンのうまみが無くなる、
・・・教皇は伝家の宝刀を使った。しかし、彼には破門と異端審判の脅しは利かなくなっていた。
そして、当時の教皇がドイツとフランスの対立を利用しようと画策した結果・・・、
神聖ローマ帝国皇帝カール5世が激怒し、その軍団がローマへ進軍・・・悪夢の出来事がありました
そんな、歴史を見てきたポポロ門です。
この右側の教会に沿って進み、正面の階段からピンチョの丘の上に登ると展望台・・・夕日が絶景だが、この日は霧雨だった
さらに90度、ポポロ門から入ってくると、ルターの時代はなかったが100年後、驚かせようとこんな風景になりました。
鏡に映ったような・・・中央で、別れて、左右対称の双子の教会と3本の街路がありました。
教皇アレクサンデル7世が広場を整備させ、1656年頃双子の教会案をライナルディに依頼したが、進展は遅かった。
右側は円形ドームで1661年基礎工事開始、左は土地の角度が右より狭く、ドームの幅が狭くなるので翌年着工へ
後年ベルニーニは、基礎のままの双子教会の問題点を指摘し責任者となり、左の教会のクーポラ(ドーム)を卵型に変更した。
この視点から見て、右は円形、幅の狭い土地の左を卵型にして角度を捻れば、幅が同じようになる、錯覚を利用した。
そして、教会内部も円形と卵型ですが、外観は左右対称の双子教会の完成となりました。
細部まで気になるのがエンジニア、・・・細部にこだわる方も芸術家には多いようです。
「天使と悪魔」・・・このストーリに沿って、ローマの街を観光するツアーが人気の時期がありました。
最初に誘拐された枢機卿を探しに向かった先が、ラファエロの墓のあるパンテオンでした。
しかし、ラファエロの墓は、
案内板に、墓がここに移されたと記載があり、・・・間違いに気づき、ポポロ教会のキジ礼拝堂に向かったのでした。
次が、天使が差し示す方向に「風」を探す。
行先は、バチカン宮殿でした。
風は、ここにありました。
ここは、目印としておかれています。西風が吹くようです。