気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ここが出雲大社

2015-12-23 | 旅行記

山陰地方の北西端、その山裾に神話の土地、島根県簸川郡大社町杵築東宮内195がありました。古事記の「大国主神の国譲り」に巨大な建造物が登場する、その場所がこの地です。

その昔、杵築(キヅキ)の郷(サト)の杵築大社(キヅキタイシャ・キヅキノオオヤシロ)と呼ばれていたそうですが、巨大な建造物の子孫は、明治4年(1871年)、出雲大社に改称されました。

出雲大社前の交差点から、石段を上がり参道に入る所に木造の二の鳥居があります。

この場所・勢溜(セイダマリ)は集客においては、一等地です。かつては露天商が並び、市が立ったり、芝居小屋や、見世物小屋・・・繁盛して多くの人の勢いが集まり、留まる場所・・・勢留(セイダマリ)と呼ばれています。

今日では、スターバックス(コーヒーチェーン店)が大きな看板を出していて、目を引きました。

鳥居をくぐる前に、左のお知らせを・・・神様が11月21日に日本全国から集まって来られて11月28日まで、この一週間は会議中と札が下がっています。

・・・隣国・中華人民共和国、韓国、北朝鮮とのお付き合いについて、知恵を出しあって会議をされているのでしょう。

二の鳥居・勢溜の大鳥居(正門鳥居)の先、右側に境内の案内板が立っているようです。

ここの特徴は、海岸に近いことでしょうか。参道は多くの松林に囲まれて防風林の役目も兼ねています。

ここから参道は下り坂になるので、鳥居の立つこの辺が一番の高台です。

坂道を進むと少し先の右側に、小さな社(ヤシロ)、

祓社(ハライノヤシロ)です。祓戸四柱神が祀られていて、ここで心身を祓い清めます。

そして、間もなく祓橋を渡り、参道が左右に分かれています。前方を見ると松林の間に、三の鳥居・鉄鳥居が見えました。

では、右側の参道を進みましょう。

立札が見えます、近寄ってみましょう。

松の根の保護のために、この一帯だけ参道を左右にずらしてたのでした。

年間約200万人もの参拝客があるそうですから、松も大変でしょう。

参道右横からこの先の本殿がある裏山を眺めてみます。

・・・何故、8世紀の大和朝廷が、奈良から遠く離れたこの地を重要視しながらも、神話の世界として記録に残したのでしょう。これから創る天皇制のストーリーが主役であり、衰退期にあったこの地の歴史は、異文化のストーリーとして完結させたかったのでしょうか。

すぐ近くに、古事記の世界がありました。二つのモニュメントが並んでいます。

出雲大社の御祭神・大国主大神は神性を養われ「ムスビの大神」となられました。えんむすびの神と慕われるゆえん と

「ムスビの御神像」でこの様な説明がされています。

また参道を挟んで西隣には、因幡の白うさぎの神話から御慈愛の御神像が置かれています。

隣が手水舎です。

荒垣が並ぶ中央に、重厚感のある四の鳥居があります。

国の重要文化財、胴鳥居、1,666年に毛利綱広によって寄進された由来が刻み込まれているようです。

入って左側はこの様な風景です。

ここは天神さまではないのに、牛がいるようです。牛舎ではないです。

神馬神牛像のようです。神様の乗り物とされる動物で、神馬は子宝を授かり安産に、神牛はここでも学力向上にご利益があるそうです。

では、拝殿に向かいましょう。

鳥居の先右斜め前方に銅屋根の建物があります。この拝殿は戦後(昭和28年)焼失してしまい、昭和34年に現在の拝殿が完成しています。

高さは12.9mとあります。

大きなしめ縄の先で、伊勢神宮などとは違う古式といわれる参拝方法があるようです。

賽銭を入れ、「二礼四拍手一礼」がこの地の作法のようです。

参拝を終えて境内の右側に

この出雲大社の遷宮(セングウ)が完了したことが掲げられていました。

 

「平成の大遷宮」が二年前平成25年5月10日新本殿が修復され完了されたとのこと

右隣の写真が、古代文明の謎が解き明かされる・・・以前大きなニュースになった発掘の写真です。

イラストを拡大してみましょう。

新聞などで見られた方も多いと思います。・・・かつて古事記に書かれた天まで届く巨大な建物があったという。案内板には・・・平安時代(970年)の子供の教科書に東大寺の大仏殿(高さ45m)よりも大きく、48mと伝えられ、階段の長さを一町(約109m)と記しています。

当時の木造建築の技術では48mの高層建築は無理・・・木造は腐るし・・・否定的な意見が多かった所にこの境内から丸太の基礎部分が発掘されたのでした。

この後に発掘された場所を見てみましょう。

その前に、隣のテントに入ってみましょう。

龍蛇神 をどうぞご自由にご参拝くださいとあります。

神棚がありました。参拝しお神酒を頂き、その盃を頂いて・・・お札も必要数頂きました。

・・・大国主大神は因幡の白うさぎの話では、大きな袋を担いでいました。そこから後にだいこくさまと言われているようです。

さて、拝殿とテントの間を進むと、拝殿の裏に御本殿がありました。

拝殿でお参りしているので、その真裏の本殿にもお参りをしたことになります。

本殿は四方を垣(瑞垣ミズガキ)で囲まれています。この前を左(西)に進み、御守門の先を右(北)に曲がると一段高い本殿が見えます。

そして中ほどにこの様な案内板があります。

本殿は参道や鳥居のある南が正面となりますが、殿内の御神座は西向きとなっています。

昔より参拝は大神様に向かい合う正面(西側)より礼拝なさいます。

どうぞ御礼拝下さいませ。  出雲大社

「拝礼作法」二拝四拍手1拝・・・・・と書かれてありました。

南の正面に戻ろう。

正面の八足門から本殿に向かい礼拝します。この階段の手前の三つの円形が”祈りの神御柱”

岩根御柱(心御柱)と案内板に書かれていたもので、発掘跡にこの様な図が描かれていました。

直径140㎝の杉巨木を3本束ねて、巨大な1本の柱とされていました。ベンガラの塗着があり柱は赤く彩色されていたと思われますとありました。

・・・年が変わりそう、良い年となりますように!

 

 

 

 

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寄り道をして、出雲大社へ

2015-12-15 | 旅行記

木曜日の朝6時半、大阪の通勤ラッシュを避けようと朝早くホテルを出発。

ここは琵琶湖の湖畔、まもなく瀬田東から京滋バイパスに乗る。順調に走り、大山崎JCTで名神高速道路に乗り移り、吹田JCTを目指す。

多少渋滞したが30~40分で吹田JCT、ここで中国自動車道に移る。

大阪の郊外、流れが急激に悪くなり渋滞に突入してしまった・・・千里中央まで4km我慢か、・・・徐々に流れ出し大阪空港を過ぎたころから多少高速道路の雰囲気になって来た。

順調に宝塚、西宮北、神戸の北方を抜けて時間は8時半頃、赤松PAで遅い朝食休憩をとる。事故でもない限り、昼前には海が見られる予定ですが。

・・・中国自動車道は中国地方の兵庫・岡山県の北方の山間部を走るのだが、良くある風景が続きます。脇見もせずに?のんびりと走り、やがて眠くなるころ落合JCTが近づく。

ここまで西に約240km、ここで北に90度向きを変えて米子自動車道に乗り移る。ここから約110km位先の山陰の港町で昼食の予定。

30分程走ったころ、サービスエリアで休憩・・・蒜山高原(ヒルゼンコウゲン)です。右側に見える大きい山は大山(ダイセン)でしょう。

大山・・・この地方で有名なスキー場があります。また、このサービスエリアの少し先にも蒜山スキー場があるようです。 

・・・そうでした、翌日 この付近では小雪舞う、チューン規制となった高速道路でした。

しかし、そんな状況になるとは予想もできない天候が続いています。

この先少し下った所が大山高原、

そして8㎞先が米子ICです。ここから西へ75㎞走ると出雲大社になるのですが、・・・

米子インターの先で一般道に降りて・・・寄り道をします。

真っ直ぐ北へ、日本海目指して、この一般道は片側2車線、左右に曲がる車もがあるが信号も少なく、直線で見通しも良くスムーズに高速道路並みに流れて行く。

やがて道路は右側が美保湾の海岸線に近づき、防風林が見えてきた。

窓を開けると時折強風が吹いてきて・・・慌てて閉める。・・・

夏が過ぎてこの時期になると、群馬の空っ風・山からの木枯らしと、湿った重い海からの強風と、どちらが生活するのに大変かと考えたりしてしまう。

nnnn・・・目的地が近づいたら、何かあっさりしていて違和感があるのに気がついた、インパクトが弱いナァー

アレ、斜めからだと?

そう、信号機が気になって、

これが今までのLEDですが、Newタイプは、表示灯の周囲・丸い輪郭がメリハリに欠けるのが気になる。

バックの風景とコントラストの差が少ないので、雲に溶け込んで分かり難いのと軽いイメージが信号機にはふさわしくないなぁ、

岸壁に出た、左に曲がって入り江の奥の方に進む、

お目当ての食堂が、・・・臨時貸し切りで入店できず、ここは境港。そうです山陰地方有数の港町です。

この岸壁の向こうに見える丘(小山)の裏側が日本海、沖合数十キロ先に壱岐の島があり、港もあるので寄ろうと思っていたが、突然風が強くなり曇天の空からポツポツと・・・。

急きょ、商店街に・・・この地は(帰宅して最近訃報に接した)・・・あの水木先生の地元なのです。

記念館が近くにあり、この通りは、水木しげるロードです。

こんな妖怪や、

あんな妖怪

そんな妖怪

これも妖怪?、実はあまり詳しくないので・・・割愛

夕方になると雰囲気が出るでしょうネ、

・・・近くの魚市場に行き、・・・さてどうしようか思案する。

・・・そうだ!、全く別のジャンルの人気スポットを走って松江に向かいましょう。

天候が小雨模様に変わってきました。

視界が悪いのが残念、今運河の上、江島大橋の最高部を走っています。

そして下り坂、前方に見えるのは大きな中海です。

急な下り坂を下ると

工業団地が現れて、ここは中海に浮かぶ江島、埋立地でしょうか?

看板が、ここから島根県・松江市と表示しています。境港は鳥取県でした。

さて何が人気スポットなのでしょう?

信号の先、ガソリンスタンドに車を入れて・・・外は強風でした。先程の信号まで戻って、ベストアングルを探す余裕も無く・・・1枚

・・・下の画像をご覧になったことは? TVCMの1カットです。・・・「べた踏み坂」・・・車のアクセルを最大限に踏み込んだ状態で・・・車が必死で登るさまを現しています。

このアングルは、離れた位置から望遠で撮影するとこのような効果になります。CMの主人公は、ダイハツの軽自動車、画面左下で準備しています。

そして、この信号付近からのアングルでは、軽自動車が滑り落ちることなく登っていく様子が流れます。

 

こちら側が、島根県江島、向こう岸が鳥取県境港市で、全長1.4km、高さ44mの運河に架かる橋ですが、橋を横から見ると左右対称ではなく、こちら側が高いのです。

この付近や更に離れた中海の周回道路からも撮影スポットがあり、CMのべた踏み坂の撮影地点は、マニアの人気スポットでした。

・・・松江には、最近話題になった観光スポットがもう1か所あります。

そこに向かいましょう、40分位で到着の予定です。

中海から西に7~8㎞、宍道湖(シンジコ)が見える近くの平地に堀で囲まれた目的地がありました。この一帯は松江の官庁街、すぐ近くは島根県庁。

・・・観光バスが並んでいる駐車場の片隅に堀川遊覧船乗り場がありました。

名前の通り堀の川の遊覧船のようです。またこの駐車場には

この銅像がありました。堀尾吉晴(ホリオヨシハル)公・・・調べてみると、関ケ原の戦いの功績で、出雲・隠岐の両国を拝領したのが初代藩主の堀尾忠氏(タダウジ)で24万石、

この父が吉晴で、親子共に浜松から月山富田城に入ったが、松江の地に1607年新たにに築城を開始して5年後完成します。この松江開府の祖が、この銅像の方です。

 駐車場から城内に・・・松江城?・・・昔からの観光名所ですが・・・。

石碑が新しいようです、・・・国宝の文字が、

何が話題となったのでしょう。しゃちほこが木造?

・・・2015年7月8日、松江城は官報告示により正式に「国宝」に指定されたので・・・只今脚光を浴びている祝賀ムードの観光地でした

さて、1時近い、寄り道を終了して宍道湖に沿って西に走ります。

宍道湖は、周囲約45㎞の汽水湖、魚介の種類は80種以上と多く、中でも有名なのがシジミです。

夕日が湖面に輝く撮影スポットも多く、湖畔はドライブコースですが1周1時間かかります。

宍道湖の北側の湖畔を走っていると、レトロな電車が並走する・・・一畑電車で、湖畔を過ぎたころ江戸時代に栄えた木綿市場がの雰囲気が残る木綿街道を過ぎ、もうすぐです。

この坂道を登ると右側に・・・そして駐車場もその先右側にあるのですが、ここで道路右の建物に車を入れます。

まずは正面参道より参拝するために、ここから歩いていきます。

そして、間もなくこのような光景となります。

信号の左の坂を下ると一の鳥居があります。右が二の鳥居、ここから境内、正面の参道となります。

続きは、出雲大社編へ

 

 

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ちょっとした試練を体験して

2015-12-08 | 旅行記

11月27日 金曜日 早朝6時、窓の外はまだ暗い・・・明るくなった7時近く、散歩に出る。

小路を登ると、右前方に手水舎がありました。左下に本堂、右側の山裾に石段が続いている・・・自然に高い方に進んでしまう。

まだ紅葉が残っている静かな山間、雨に濡れた石段を登り、その先に有名な三重の塔がありました。

塔の横に受付のような小屋があります。二階、三階には土日のみ入場できる(大人200円)のですが、今日は平日の早朝でもちろん人影は無し。

案内によるとこの塔は1万人の浄財により、地元の大工が三世代、何と33年も要して1859年、江戸時代の後期に完成しています。1年に1m?、覚えやすいです・・・高さ33.3mとありました。

この塔の横から山頂に登るハイキングコースもありましたが、朝食は7時半にお願いをしていましたので・・・石段を下ります。

・・・本堂は、806年建立・・・この地方で最古の歴史あるお寺です。葬儀を行わない厄除け・祈祷のお寺ですが、案内板にありますように847年から天台宗となります。

ここは、東京から900㎞以上離れた島根県安来市(ヤスギシ)、安来節で有名なところです。

7時半近い・・・宿に戻るとすぐに食事になりました。おいしく頂いていると・・・窓の外・・・雨音が聞こえてきました・・・天気予報の通りかな・・・慌ただしく出立したのでした。

これから鳥取方面に行く予定を急きょ変更し、所々で通勤ラッシュの渋滞に合いながら、高速道路入口を目指します。

無事山陰道に入り、米子東から米子自動車道へ乗り移り・・・何事も無く1時間経過すれば・・・目指す中国自動車道に

車外の風景はこんな状態です。

・・・鳥取から中国横断している新設の鳥取自動車道が、午前9時から通行止めとのニュースを聞いて飛び出してきたのだった。

今週は日本海側の天候は大荒れで、特に北陸から北海道が大雪と予想されていた。昨夜松江では雪が舞い、さらに夜間の冷え込みで既に山間部は積雪となっている模様、今日も雪の予報だった。

冬タイヤの取り換えはお早めに! 電光掲示板に文字が流れる・・・、どの区間からか不明だが、チェーン規制が出されているようだったが・・・

30分も走らない内に、道路上に係員が、旗を振って左車線へ・・・高速道路から下道に分岐する道に誘導されることになった。

家に帰れば昨年購入したスタッドレスタイヤもあるのだから・・・一度きりのタイヤチェーンは購入したくないし、・・・マァ成り行きか。

臨時チェーン脱着所の広場で、順番に検問を受ける行列ができていた。間もなく前のトラックは左に誘導された、戻るかチェーン取り付けかの選択になるでしょう・・・

こちらの順番になり・・・係員に、窓を開け、「ご苦労様、・・・四駆、四駆・・・タイヤも新品、視界は悪くないがフォグランプを点け、雪道慣れていますから・・・」係員、タイヤを覗き込み、そして車体後部のAWD表示を確認し、「気を付けて!・・・右にユータンして高速に戻って下さい。」ヨシ! サァ、ここに長居は無用・・・

坂道を登り本線に戻った。

しかし、これからが運次第、シャーベット状になると、わだちを外れないで走っている限り走れるが、新品タイヤでも、一般の二輪駆動ではわだちを外れるとスリップの危険があります。まして、坂道は、チェーン無しでは無理ですね。

そう、心配なのは、チェーン規制の前に山道に進んでいった車が、スリップして車線を塞ぎ、後続が塞いだ車を避けて先に進まないと、2~3台の雪道に不慣れな迷惑車で延々と行列になったら最悪です。

冬到来のこの時期は、まだまだ夏タイヤの車が多く、チェーンを装着したことのない車もあり、一番危ない。油断大敵とこちらも車間距離を開け、路面状況を見ながら進む。新雪が積もって白くなった所が時々出現する程度で、大半がまだシャーベット状態、しかし粉雪が舞っているのでできるだけ早くこの状態から脱出したい。

トンネルを何個か抜けて岡山県に入ったがまだみぞれが降っている。しかし、多少空が明るくなってきた。蒜山高原(ヒルゼンコウゲン)PAの表示が出てホッとする。ここから中国自動車道まで35㎞くらい、山脈の峠を越し、徐々に下り坂になると思う。

昨日は、ここで休憩しこんな山陰の山並みが見られたのだったが。

 

今回は休憩無しで先を急ごう。

30~40分順調に走り、中国自動車道に合流する落合JCT付近でやっと晴れてきた。

無事雪の山陰地方から脱出に成功! 瀬戸内海側は、多分快晴かな?

・・・振り返ってみよう

昨夜はライトアップされた三重の塔に天候の回復を祈願して、11時頃床に就いた。

その前は、7時半頃精進料理を頂いて、・・・

7時頃宿に到着、抹茶のおもてなしを受けて

・・・安木に来る前は、

そうだった、突然嵐が来たような感じ、平穏な日中から夕暮れが近づくと・・・

時間は5時13分

ここ出雲大社の西1km、稲佐の浜、風が突然強くなり、近くの駐車場に小走りに急ぐ、しかし1分後、突然雷が鳴り、雹(ヒョウ)が降り注いできた。駐車場横のトイレに飛び込み・・・1分くらい、静かになった、白くなった地面を走り、車に飛び込む。

神様が集まって来たのか、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神(オオクニヌシノカミ)と対面した時間だったのか

・・・奈良の都が最盛期に、かつて栄えた山陰地方の神話を、当時の為政者がどうして数多く古事記に採用したのでしょう。

神無月(カンナヅキ)全国から旧暦10月10日、この浜から出雲大社に八百万(ヤオヨロズ)の神々が上陸されるという。日本全国の神が出張して、そしてこの地は神有月(カミアリツキ)。

・・・この地の主人公「大国主神」が数多くの試練を与えられたように、この稲佐の浜と「沖御前」今では弁天島、この地は強烈な印象を与えてくれたのでした。

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金剛峰寺というお寺

2015-12-01 | 旅行記

奥の院を後にして、先程駐車場が満車だった金剛峰寺に車を走らせる。

観光バスが駐車場の入口に並んでいる。空いたスペースを探していると運良く、バスの裏側に1台分のスペースがあり枠内に駐車できた。

駐車場前の道路を渡り、ここからお寺への参道です。

世界遺産 金剛峰寺の案内板によると、

「1131年10月17日に覚鑁上人(カクバンショウニン)が、鳥羽上皇の許しを得て大伝法院を建立、その後豊臣秀吉が亡き母公の菩提を弔うため、木喰応其上人に命じて建立したことに始まります。

当時は、秀吉公の母公の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青巌寺(セイガンジ)と呼び、応其上人の住坊(ジュウボウ)となりました。

その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は1863年に再建されました。

1868年(明治元年)に行政官から青巌寺を金剛峰寺に改号するように指導され、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。

1869年(明治2年)この二つのお寺は合併され総本山金剛峰寺として現在に至っています。」

・・・正門(1593年の再建)の向こうに檜皮葺の大主殿が見えます。大きな塔婆も、

「昔はこの門を正面から出入りできるのは、天皇、皇族、当山の重職に限られていました。今でも一般の僧侶は、右の小さな入口をもっぱら利用しています。」とも記されています。

・・・堂々と正門から入ってしまいました。

大主殿(東西54m、南北63m)をはじめ、別殿、新別殿、奥殿、新書院、茶室、阿字観道場(瞑想を体験できます。1時間くらい、参加料¥1000-)、経蔵、

そして右側に鐘楼(1864年の再建)があります。

・・・伝燈国師廟、護摩堂など・・・境内は総坪数48,295坪の広さです。

金剛峰寺のHPより画像を拝借

正面の大玄関に龍の立派な彫刻が・・・

さて、「金剛峯寺(コンゴウブジ)」の名称は、空海さんがこの聖地、高野山一山の総称として、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(コンゴウブロウカク イッサイ ユガユギ キョウ)というお経より命名されたそうです。

高野山金剛峰寺の名称は、山号が高野山となります。

昔はこの地の寺全体が金剛峰寺でしたが、明治以降から現在では、各種行事、法要などは壇上伽藍の金堂(本堂)で行われ、この金剛峯寺は、高野山弘法大師御廟を信仰の中心とされる高野山真言宗の総本山として、1000万大師信徒の信仰の中心となっています。 

 

・・・下図のように建物の正面から右側に回り込んだ所が入口です、下足を脱ぎ入場します。

 座敷を次々に拝見していきますが、建物内部は撮影禁止なのでパンフレットの一部をご紹介します。

パンフレット中央の画像を、・・・別途HPより借用したの画像を再掲します。

ここ柳の間、悲しい事件が起こっています。1595年、秀吉から自刃を命じられた二代目関白豊臣秀次が、ここで自害しています。「秀次自刃の間(ジジンノマ)」です・・・秀吉 我が子可愛さで・・・晩年の老害でしょう、忠告者の声に、・・・聴く耳持たず 。

・・・渡り廊下で、左側の別殿に進みます。

上の画像が、別殿(ベツデン)、1934年(昭和9年)弘法大師御入定1100年に建てられました。

・・・さらに左下の新別殿に進みます。

この部屋に進む手前で、お茶のサービスを受けました。上の画像のようにお茶を頂き、この部屋でしばし休憩。この建物は、1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年建立、参詣者への接待所として建てられたコンクリート造りの入母屋式建物です。

新別殿を出て、ここから庭園や阿字観道場、書院、中庭、売店、台所などを通ります。

庭園は回廊のような廊下を進みます。・・・屋外だから撮影は大丈夫でしょう・・・歩きながらのスナップ写真です。

 

・・・イタリアやフランスの修道院にも建物の周囲の廻廊を歩けるような構造が多く見られます。修道僧が瞑想の時間に利用しているようです。

この白砂は、海原か雲海か・・・雄大な自然界を庭園という様式に凝縮して表現する日本独特の文化は、・・・大切にしたいですね。

 

この金剛峯寺で有名な庭園が、蟠龍庭(バンリュウテイ)です。一部改宗中でしたが。

ここも新別殿と同じく1984年に造園されました。2340㎡ 国内最大級の石庭とありました。

もう一つ、時間が無くて体験できなかったのが残念!

阿字観道場です。上部画像はHPより借用。この建物は1967年(昭和42年)建立とのことです。

・・・最後に大きな釜がある広い台所を通って・・・どこかで見たのと似ている・・・(永平寺の台所によく似ていました)

出口から斜め右方向を見ると 、程好い大きさの落ち着いた建物が木々の緑と実に良く調和していました。

経堂のようです。

・・・突然、鈴鹿の家族から夕食を一緒にとTELがあり、6時頃までに寄れないか?と

他にも周りたい所が有るのと高野山からの夕日が見たい・・・ウーン、朝靄の高野山も体験していないのだから、・・・しょうがない、また来よう

3時半高野山を後にする

ここ高野山は、空海さんが日本の国の形ができたころ、原生林を切り開かれ、真言宗(密教)の曼荼羅の世界を体験し修行できるように努力され、晩年自ら即身成仏も示されさらに入定され、伝説が生まれた。

・・・「有難(アリガタ)や、高野(タカノ)の山の岩陰に 大師はいまだ 在(オワ)しますなる」・・・弘法大師 第一番 御詠歌「金剛(コンゴウ)」

高野山は、空海さんが見守ってくださる聖地でした。

 

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