気が付くと、春があっという間に流れて行きます。
アマリリスからハイビスカスの季節に
新緑の5月も・・・残り少ない週末になってしまい、・・・土曜日は運動会、曇天で幸いでした。
小学生全員参加の玉転がしも、盛り上がりました。
終了後、首都高速で・・・港の見える公園に
見事な庭園です
この色の名前は?ピンクオブプリンス?・・・イングリッシュローズ?、・・・若干熟女になってしまいましたが、・・・
停泊している船が見えます。
そしてマリンタワー、・・・山下公園、フェステバルが行われています。
近くのレンガ倉庫もイベントが行われ、多くの人出で賑わっていました。
PM7:00、中華街、先日のお店に再訪します。
今日は朝9:00から予約していた成人病検査があり、その後運動会に駆け付け・・・慌ただしい一日だった。
検査も終了したし、ゆっくり食事をして・・・PM9:00、ベイブリッジの夜景も素敵だが、
お台場からレインボーブリッジに入ると・・・高層ビルが日増しに増え景観が変化していくのに驚く。
・・・5月最後の日曜日、三社祭の次は、
金曜日から、今日の宮入まで本祭が続きます。
湯島天満宮、平成30年5月27日
PM2:00から「古事記伝の魅力」 本居宣長記念館館長の講演が参集殿で行われます。
・・・三重県松坂から来られた吉田悦之氏の講演・・・期待していた題材でしたが、
冒頭「講演時間が1時間の依頼ですが、話は1時間半くらいにすぐなってしまいます、今回は1時間と言われておりますので・・・」
と前置きがありましたが、本居宣長の生い立ちなどの話に55分、資料を配布された古事記は・・・残り時間10分強を使って・・・慌ただしくさわりだけ
・・・古事記の内容あれこれよりも、まず「信じること」と最初に強調されました・・・何故か宗教の布教に通じるものがあるのかと興味を抱いたのでしたが・・・
「古事記伝の魅力」因幡の白うさぎ、ヤマタノオロチが何故登場するのか?・・・学者肌の人は、伝いたい情報をアレヤコレヤト順を追って説明したいのでしょう・・・
本題にたどり着かず消化不良・・・本居宣長の功績で、古事記をどのように読むか、・・・そして読めるようになったようです。・・・別途、関係書を読んでみましょう。
本殿で大祭の祭典、玉串拝礼後、参集殿で直会の儀・・・初夏がすぐそこに
・・・ブログ、UPされずにありました。
シャム国 (現タイ国)の都、アユタヤ、しかし略奪されて廃虚の都です、・・・旧市街地?に入ります。
河川に囲まれたかつての都は・・・
このような案内板がありました。現在地は中央の赤丸です。
では、先程のワット・ヤイ・チャイ・モンコンは・・・右斜め下、緑の丸印です。
入口の手前に模型が展示されていました、マット・マハー・タート
ガイドブックによれば、1374年の建立。仏舎利を納めるための寺院です。
中央の高い仏塔がランドマークでしょう・・・塔の上部は豪華な金色に輝いていたそうです。
回りを小さな仏塔で囲み・・・さらに周囲を回廊が囲み・・・寺院の一番外側は立派な塀が続いている。
・・・では、内部に進んでみましょう。
これが中央の仏塔でしょう。レンガ積みの技術は相当高度な感じです。
このような目を引く看板がありました。タイ語、英語、日本語です。
中国語が無いのが・・・看板の作成が相当古いからでしょうか
観光客向けに、この様な行為は禁止ですと警告しています。
多分、管理されていない(放置された)状態の遺跡に見物客が押し寄せ、好奇心から探索を始め
そのような状態の写真が出回り・・・人気が出ると旅行会社がツアーを組み、観光客に場内が荒らされて
・・・多少管理をするようになった。推測ですが?
周辺に、・・・無残な残骸が集められていました。
坐像の胴体ばかりです、・・・頭部が人工的にカットされて、残っていません。
ビルマに約1年半占領され、その期間に荒らされてしまいました。
この都では、一部の仏像は頭部が金で光り輝いていたそうです。
寺院の宝物と金で装飾された仏像頭部は、隣国ビルマに持ち去られたそうです。
かつては緑も多かった都だったのでしょう。
この大木をぐるっと・・・反時計回りに回り込んで、裏側に進みます。
見つめられましたか?・・・、 n・・・n、角度が悪い?
有名な、撮影スポットです。
ガイドブックなどで、タイ国で仏像を撮影する場合、カメラ目線が仏像を見下す状態にならないように・・・
この場合、地面すれすれのローアングルが好ましいようです。
ビルマ軍に切り落とされ放置された頭部は・・・、自立しているのが大変なので、周囲のモノに支えて下さいとお願いすると
この様な感じでいかがですか?・・・共存共栄です
周囲は、・・・立派な構造物があったのでしょうが、この様な略奪された廃虚となって、・・・今日まで残っていました。
異様な光景です、両腕も切り取られています。
寺院の中央に進むと、何故か破損の少ない仏像がありました。
金迫等が貼ってなかったのでしょう。
この仏像は・・・寺院内で狼藉を働く連中を一部始終目の当たりにしていたのでしょう。
彼らが引き上げると、悲惨な映像を脳に焼き付け、眼を閉じてしまった。・・・同胞が修理され寺院が復興なった日に、開眼するかも知れません。
このアユタヤは、タイ国の・・・かつての首都だった。貿易で繁栄した歴史上の仏教都市です。
しかし、1767年、略奪され、火災も発生し、全てのアユタヤ王国の資料が焼失してしまいます。
・・・近代になり、タイ国の国史で重要なアユタヤ時代・・・資料が少なく歴史の作成に事欠くありさまで・・・修復・復興は夢のまた夢。
残っているレンガも、建築当時から相当風化したことでしょう
足場が組まれ、倒壊防止の補修なのでしょうか、
この地は、・・・世界遺産(文化遺産)でした。都の復興は諦めて、現状を維持するのが大役でした。
「文化遺産:(3)現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくともまれな証拠。」
この樹木は・・・樹齢何年になるのでしょう
焼け落ちた都で生き残り、成長を続けてきたのでしょうか、それとも、代替わりをしたのでしょうか
・・・境内から戻り、・・・売店でマンゴージュース、ここのジュースは美味しいとガイドさん
バスに戻り、西に数百メートル移動し、次の寺院へ
グーグルの画像を拝借しましょう。
中央右上の赤丸から、左に移動して1ブロック先の赤丸が、Wat phra Si Sanphet ワット・プラ・シー・サンペット
上方が北、・・・北から左右に二本の河川が流れ、南東部で合流しています。
ここは、中洲のように周囲が河川に囲まれた水の都、海運業が発達した都、貿易の盛んな都でした。
仏塔が見えてきました。広大な緑の境内が広がっています。
セイロン式の仏塔です。
残念、この地も・・・レンガ積の建造物が破壊されています。
・・・ここでも入口手前の建物内に、このような模型が展示されていました。
ガイドブックによれば、ここの寺院は 1491年に建造された第一級の王室守護寺院。
この都で最大規模、王宮と同様1767年ビルマ軍により破壊される。
石灰によって白くなってしまった3基の仏塔しか残っていない。
仏塔の近くに進むとこの様な案内板が立っていました。(上段の横長の看板と下段が別々に立っていました)
上段が境内の全景・配置図、下段は境内中央部に建っている仏塔の案内でしょうか
境内中央から右側に
景観にマッチするような女性が・・・ハムストリングの発達が素晴らしい
三つの仏塔を、何とか一つの画面に収めたい・・・こんな感じになりました。
これらの仏塔には15世紀、アユタヤを統治した3代の王の遺骨が納められています。
仏塔の周囲の建造物は、壁だけが残っています。
全てレンガ積みの重厚な建物で・・・高さも結構ある、・・・
壁の立ち上がり部、黒くなっているのは火災の跡か、どのような内装だったのでしょう
アユタヤが繁栄した時代、日本人もこの郊外に多く居住していたそうです。
日本刀を差した侍は、この地の文化に触れてどのような感想を持ったのでしょう・・・何か資料は?
・・・侍の世の中は、1600年、関ヶ原の合戦以後大きく変わりました。
敗れた西軍・豊臣側は多くの浪人が誕生してしまいます。
士農工商、農民のあこがれだった武士が生活に困る時代、浪人が職業を生かすには・・・。
・・・浪人の一部が東南アジアに流れ、各地で傭兵・外人部隊として活躍するのは・・・帰れる保証は無いが・・・一度きりの人生・・・
世は大航海時代です。海路での貿易が活発になり、特に香辛料を求めインド・インドネシアでは各国の勢力争いが激しくなりつつありました。
長崎、堺の貿易商はもとより、貿易で大きな利潤が得られるうまみ知った各地の藩も東南アジアに駐在員を派遣する・・・そんな時代が始まっていました。
日本が東南アジアに資源を求めた昭和の始め、山田長政の伝記は小学校の教科書にも登場したそうです。
江碕 惇 著、史実 山田長政 を読んでみました。
染工(紺屋コウヤ)の息子が臨済寺で学問を学び、町道場に通い、体格も良く、しかし武士になれず、雄弁でほら吹き仁佐と呼ばれた人物が
1610年、20歳で堺から長崎経由台湾に密航します。台湾でシャム行きに乗り換え・・・目指すはシャム(現タイ国)の都アユタヤ
・・・1606年から8年間の間に30隻余の朱印船が遠いシャムに到着している、・・・そんな時代に青春を過ごした人でした。