下諏訪町に鎮座しているのが下社、では春宮から秋宮に車で移動しますが、・・・8月1日に移動したのは舟でした。
4年ぶりに夏の遷座祭「お舟祭り」柴舟曳行が行われたと、信濃毎日新聞の記事にありました。
コロナ感染防止のために従来のパレードは中止となったようです。
諏訪大社のHPから、周辺の地図を拝借しましょう。
この下社の春宮と秋宮の関係性を調べてみると、・・・2月1日に秋宮の御宝殿の御霊代が・・・春宮に遷御される。
冬から春へ季節の変わり目です。そして、夏から秋へと季節が移る8月1日・・・御零代が秋宮へまた移ります。
夏から秋は、特別に収穫の感謝の意味もあるのでしょうか、盛大な行事が行われます。
・・・丸太の上に、柴の葉と枝で装飾され5色の布で飾られた舟が置かれ、5tもあるそうでこれを曳行します。
南に直進、お舟を直角に左に回転させ、東を目指すと間もなく少し上り坂、その先に鳥居があり、秋宮です。
・・・春宮からの車は、鳥居の先右側の奥に無料の駐車場が何カ所かあります。
駐車場から斎館の前を通り、参拝のために境内に入ります。
右手に、竜がいます。
手水舎でしょうか? 50度近い温泉で、飲用しないようにとありました。
そして杉の巨木の間から見えてきましたのが、・・・こちらも春宮と同様・・・神楽殿でしょう。
両側に大きな狛犬が置かれています。
こちらの秋宮の狛犬は、青銅製としては、日本一の大きさだそうです。
そして、大きなしめ縄・・・神楽殿に、重さ1トンの大注連縄とありました。
・・・信濃の国は、出雲の国、出雲大社の影響が強く・・・この景観は、どこかにそっくりでした。
探してみましょう、確か2回目の参拝、2018年の冬のブログ・・・
出雲大社の拝殿の画像がこちら
出雲大社のHPでは、拝殿の注連縄の長さ6.5m、重量:1 トンと説明されています。
秋宮の神楽殿と同じ重量のようです。
この拝殿を左に回り込み、さらに左に進んで行くと50mくらい先に・・・出雲大社の神楽殿があります。
目を疑うほどの圧倒的な大きさです。
長さ13.6m、重量が 5.2 トンと出雲大社のHPにありますから、材料の確保から、縄編み・組付け、吊り下げ
最後の仕上げがまた大変な作業と思うと、・・・良く完成されたと、継続される関係者の熱意に感動いたします。
・・・この下は通らず、注意して横に回り込んだ事を思い出しました。
さてこちらの諏訪大社、秋宮の神楽殿の先(裏)に弊拝殿があります。
春宮とそっくりですが、秋宮と同じ図面を基に二つの宮大工が張り合ったようです。
下諏訪町のHPでは、「1777年(安永6年)秋宮が、立川和四郎富棟(とみむね)が請負うことになりました。
高島藩御用の宮大工村田長左衛門矩(とも)重(しげ)(大隈(おおすみ)流)は兄伊藤儀左衛門と相談して、
春宮の建築を秋宮と同じ絵図面で、35両扶持米(ふちまい)なしで請負い、
不足分は自分で勧化(かんげ)して造る旨の一札を出した。
これは採算を度外視した 秋宮の半額以下で、立川氏と競り合う形となり、すぐ仕事にかかった。
秋宮より遅く始めて約1年早く、安永8年(1779)6 月工事を終えている。
大隈流は完成した「規矩(きく)」(規則・技法)を持った当時全国に知れた一派である。」・・・以下割愛。
・・・元の絵図が同じですから、雰囲気は同じですが、・・・異なる部分(彫刻など)を探してみるのも楽しいでしょう。
左右には、春宮同様に片拝殿が建てられています。
そして、秋宮の御神木は、一位(イチイ)の木が植えられています。(あるいはこちらの漢字・櫟(イチイ)も使われるようです。)
針葉樹で成長が遅く、飛騨の一位一刀彫、昔から神主が使う笏(シャク)の素材で神社とは縁が深いそうです。
向かって右側に、一之御柱
この柱の右側に、案内板がありますので拡大します。
ここ下社の祭事は、8月1日 例大祭は「お舟祭」と書かれています。
2月1日に、この秋宮から同じように行列が春宮に向かい「御宝殿の御霊代が遷御」されます。
その遷座祭は、春の移動があって、秋が来るので成り立つのですが・・・
・・・舟祭りのイベントが主になり、最近は前日( 7/31) の宵祭が年々華やかになるようです。
そして向かって左側に、ニ之御柱です
同じように、この左側奥に三之御柱、・・・四角形で囲む右隅に四之御柱が建てられています。
境内を下がってくると、下社 秋宮の正面鳥居はこちらになります。
駐車場はこの手前を右斜めに登っていきますので、遅ればせながら正面をご案内申し上げます。
・・・先日の舟祭りは、・・・丸太が二本のそり状と言われます。
神楽殿まで引き上げるには、この坂が最後の難所のようです。
下社例大祭、舟祭り・・・伝統行事が続いていることが、神話の世界に関心を持つキッカケになるでしょう。
この参道を少し下ると、中山道と甲州街道が交わる賑やかな場所になります。
ここで、昼食を・・・そして、諏訪湖の反対側に移動します。
・・・2~30分くらい、約10km走り、目指すのは・・・
諏訪大社の上社、本宮です。
こちらの本宮 はかつては盛大な様子だったそうですが、明治の神仏分離で縮小となります。
また現在は、残念なことに一部が修復中でした。
判り難いので、グーグルの画像を拝借します。
左下から県道183号を進むと(北は、下方向となります)・・・神宮寺の交差点です。
前方の道路に架かる四の鳥居方向は進入禁止の表示ですので・・・右折します。
少し進むと県道16号の左側に、参拝者向けに広い駐車場があります。
そこに駐車して、右側の側道に出て前方の小山を見ると
諏訪大社 本宮大鳥居です。
参道の右側では土産屋に挟まれた広場で、市が開かれていました。
本宮は、諏訪湖の南からは少し離れています。
案内図がこちら
大鳥居を入り、すぐ左に力士像があります。
力士名は、雷電為右衛門・・・有名な江戸時代の力士ですが・・・。
知りませんでしたが、地元の名士だったんですね。
御祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)も出雲の国譲りの神話では、色んな解釈がされています。
国学院大学 「古典文化学」事業・・・などでは、日本の神様などが詳しく解説されています。(ご参考まで)
江戸時代、儒学や藩学が盛んになり、神道、儒教、仏教の敵は・・・異国から布教に来たキリスト教となります。
1613年の12月には、徳川家康の強い影響力で伴天連追放令が出されます。
キリシタンではないことを仏教寺院に請け負わせた寺請制度(キリスト教以外も、地域によっては規制があったそうです)が浸透します。
・・・大航海時代のスペイン、ポルトガルは、他文明の土地に上陸しては、布教と虐殺、資源を略奪する犯罪行為を続けていました。
家康の追放令以前に、秀吉は伴天連がキリシタンの武士や農民を扇動し反乱を起こし、我が国の侵略が目的との情報を得ていました。
我が国の武力も利用して中国に侵略する計画も耳にし、これ以上の布教を押さえようとしています。
当時、朱印船で往来するマニラに駐屯するスペイン艦隊に、秀吉は書面で脅しをかけていますから、大局観は正しかったと思います。
・・・時代が移り、明治政府の混乱が続く中、1873年(明治6年)キリスト教の禁制が解除されます。
これより前、外国人居留地では、1859年(安政6年)信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可しています。
この時期、薩長連中は朝令暮改も多く、ドタバタ続きのようで、真相は良くわかりません。
いずれにしましても、1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法、28条 信教の自由を保障する規定が設けられます。
国教を目指した神道は、祭祀と宗教を分離し、神道は祭祀だけを行い 宗教ではないとの解釈に落ち着いたようです。
カトリック教が主流の欧州でも、年々無宗教の割合が多くなり、今日ではザット半数に・・・、何を示唆しているのでしょう。