気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

下社と上社

2023-08-20 | 旅行記

下諏訪町に鎮座しているのが下社、では春宮から秋宮に車で移動しますが、・・・8月1日に移動したのは舟でした。

4年ぶりに夏の遷座祭「お舟祭り」柴舟曳行が行われたと、信濃毎日新聞の記事にありました。

コロナ感染防止のために従来のパレードは中止となったようです。

諏訪大社のHPから、周辺の地図を拝借しましょう。

この下社の春宮と秋宮の関係性を調べてみると、・・・2月1日に秋宮の御宝殿の御霊代が・・・春宮に遷御される。

冬から春へ季節の変わり目です。そして、夏から秋へと季節が移る8月1日・・・御零代が秋宮へまた移ります。

夏から秋は、特別に収穫の感謝の意味もあるのでしょうか、盛大な行事が行われます。

・・・丸太の上に、柴の葉と枝で装飾され5色の布で飾られた舟が置かれ、5tもあるそうでこれを曳行します。

南に直進、お舟を直角に左に回転させ、東を目指すと間もなく少し上り坂、その先に鳥居があり、秋宮です。

・・・春宮からの車は、鳥居の先右側の奥に無料の駐車場が何カ所かあります。

駐車場から斎館の前を通り、参拝のために境内に入ります。

右手に、竜がいます。

手水舎でしょうか? 50度近い温泉で、飲用しないようにとありました。

そして杉の巨木の間から見えてきましたのが、・・・こちらも春宮と同様・・・神楽殿でしょう。

両側に大きな狛犬が置かれています。

こちらの秋宮の狛犬は、青銅製としては、日本一の大きさだそうです。

そして、大きなしめ縄・・・神楽殿に、重さ1トンの大注連縄とありました。

・・・信濃の国は、出雲の国、出雲大社の影響が強く・・・この景観は、どこかにそっくりでした。

探してみましょう、確か2回目の参拝、2018年の冬のブログ・・・

出雲大社の拝殿の画像がこちら

出雲大社のHPでは、拝殿の注連縄の長さ6.5m、重量:1 トンと説明されています。

秋宮の神楽殿と同じ重量のようです。

この拝殿を左に回り込み、さらに左に進んで行くと50mくらい先に・・・出雲大社の神楽殿があります。

目を疑うほどの圧倒的な大きさです。

長さ13.6m、重量が 5.2 トンと出雲大社のHPにありますから、材料の確保から、縄編み・組付け、吊り下げ

最後の仕上げがまた大変な作業と思うと、・・・良く完成されたと、継続される関係者の熱意に感動いたします。

・・・この下は通らず、注意して横に回り込んだ事を思い出しました。

さてこちらの諏訪大社、秋宮の神楽殿の先(裏)に弊拝殿があります。

春宮とそっくりですが、秋宮と同じ図面を基に二つの宮大工が張り合ったようです。

下諏訪町のHPでは、「1777年(安永6年)秋宮が、立川和四郎富棟(とみむね)が請負うことになりました。

 高島藩御用の宮大工村田長左衛門矩(とも)重(しげ)(大隈(おおすみ)流)は兄伊藤儀左衛門と相談して、

春宮の建築を秋宮と同じ絵図面で、35両扶持米(ふちまい)なしで請負い、

不足分は自分で勧化(かんげ)して造る旨の一札を出した。

これは採算を度外視した 秋宮の半額以下で、立川氏と競り合う形となり、すぐ仕事にかかった。

秋宮より遅く始めて約1年早く、安永8年(1779)6 月工事を終えている。

大隈流は完成した「規矩(きく)」(規則・技法)を持った当時全国に知れた一派である。」・・・以下割愛。

・・・元の絵図が同じですから、雰囲気は同じですが、・・・異なる部分(彫刻など)を探してみるのも楽しいでしょう。

左右には、春宮同様に片拝殿が建てられています。

そして、秋宮の御神木は、一位(イチイ)の木が植えられています。(あるいはこちらの漢字・櫟(イチイ)も使われるようです。)

針葉樹で成長が遅く、飛騨の一位一刀彫、昔から神主が使う笏(シャク)の素材で神社とは縁が深いそうです。

向かって右側に、一之御柱

この柱の右側に、案内板がありますので拡大します。

ここ下社の祭事は、8月1日 例大祭は「お舟祭」と書かれています。

2月1日に、この秋宮から同じように行列が春宮に向かい「御宝殿の御霊代が遷御」されます。

その遷座祭は、春の移動があって、秋が来るので成り立つのですが・・・

・・・舟祭りのイベントが主になり、最近は前日( 7/31) の宵祭が年々華やかになるようです。

そして向かって左側に、ニ之御柱です

同じように、この左側奥に三之御柱、・・・四角形で囲む右隅に四之御柱が建てられています。

境内を下がってくると、下社 秋宮の正面鳥居はこちらになります。

駐車場はこの手前を右斜めに登っていきますので、遅ればせながら正面をご案内申し上げます。

・・・先日の舟祭りは、・・・丸太が二本のそり状と言われます。

神楽殿まで引き上げるには、この坂が最後の難所のようです。

下社例大祭、舟祭り・・・伝統行事が続いていることが、神話の世界に関心を持つキッカケになるでしょう。

この参道を少し下ると、中山道と甲州街道が交わる賑やかな場所になります。

ここで、昼食を・・・そして、諏訪湖の反対側に移動します。

・・・2~30分くらい、約10km走り、目指すのは・・・

諏訪大社の上社、本宮です。

こちらの本宮 はかつては盛大な様子だったそうですが、明治の神仏分離で縮小となります。

また現在は、残念なことに一部が修復中でした。

判り難いので、グーグルの画像を拝借します。

左下から県道183号を進むと(北は、下方向となります)・・・神宮寺の交差点です。

前方の道路に架かる四の鳥居方向は進入禁止の表示ですので・・・右折します。

少し進むと県道16号の左側に、参拝者向けに広い駐車場があります。

そこに駐車して、右側の側道に出て前方の小山を見ると

諏訪大社 本宮大鳥居です。

参道の右側では土産屋に挟まれた広場で、市が開かれていました。

本宮は、諏訪湖の南からは少し離れています。

案内図がこちら

大鳥居を入り、すぐ左に力士像があります。

力士名は、雷電為右衛門・・・有名な江戸時代の力士ですが・・・。

知りませんでしたが、地元の名士だったんですね。

御祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)も出雲の国譲りの神話では、色んな解釈がされています。

国学院大学 「古典文化学」事業・・・などでは、日本の神様などが詳しく解説されています。(ご参考まで)

江戸時代、儒学や藩学が盛んになり、神道、儒教、仏教の敵は・・・異国から布教に来たキリスト教となります。

1613年の12月には、徳川家康の強い影響力で伴天連追放令が出されます。

キリシタンではないことを仏教寺院に請け負わせた寺請制度(キリスト教以外も、地域によっては規制があったそうです)が浸透します。

・・・大航海時代のスペイン、ポルトガルは、他文明の土地に上陸しては、布教と虐殺、資源を略奪する犯罪行為を続けていました。

家康の追放令以前に、秀吉は伴天連がキリシタンの武士や農民を扇動し反乱を起こし、我が国の侵略が目的との情報を得ていました。

我が国の武力も利用して中国に侵略する計画も耳にし、これ以上の布教を押さえようとしています。

当時、朱印船で往来するマニラに駐屯するスペイン艦隊に、秀吉は書面で脅しをかけていますから、大局観は正しかったと思います。

・・・時代が移り、明治政府の混乱が続く中、1873年(明治6年)キリスト教の禁制が解除されます。

これより前、外国人居留地では、1859年(安政6年)信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可しています。

この時期、薩長連中は朝令暮改も多く、ドタバタ続きのようで、真相は良くわかりません。

いずれにしましても、1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法、28条 信教の自由を保障する規定が設けられます。

国教を目指した神道は、祭祀と宗教を分離し、神道は祭祀だけを行い 宗教ではないとの解釈に落ち着いたようです。

カトリック教が主流の欧州でも、年々無宗教の割合が多くなり、今日ではザット半数に・・・、何を示唆しているのでしょう。

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諏訪地方の神社

2023-08-11 | 旅行記

日本各地の観光名所に、神社仏閣があります。

土地の歴史と建築文化、立ち寄ってみたいですね。・・・パワースポットや神頼みは、あまり興味がないのですが、

ヨーロッパでも文化の中心に、キリスト教、中でもカトリック教、いや教義よりもバチカンの影響力に関心があります。

松本市から諏訪に向かうと塩尻峠の先、下諏訪地区に入ります。

諏訪湖の北、中山道が通り諏訪湖に流れ込む砥川の右岸に諏訪大社があります。

正確には、下社 春宮と位置付けられ、ここから約1km南東に下社 秋宮が鎮座しています。

諏訪大社は古事記などに登場する杵築神社(出雲大社)と共に神話の世界を祖としています。

神話の世界は古事記や日本書紀を基に、さまざまに伝えられているようですが、神社本庁の国譲りを転記しましょう。

以下、神社本庁HPから拝借

天照大御神あまてらすおおみかみさまは、孫の瓊々杵命ににぎのみこと豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを治めさせようと考えられ、建御雷神たけみかずちのかみ天鳥船神あめのとりふねのかみに命じて、様子をうかがわせてみました。

二柱の神は、出雲の国稲佐いなさの浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。

そしてこの国を治めている大国主神おおくにぬしのかみに、この国を天神あまつかみ御子みこに譲るかどうかを問いました。

大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。

大国主神には、事代主神ことしろぬしのかみ建御名方神たけみなかたのかみという二柱の子供がいましたが、そのうち建御名方神は、力じまんの神でなかなか納得しませんでした。

そこで建御雷神と力競べをすることにしました。ところがどうでしょう。

建御名方神が、建御雷神の手をとると、氷のようになり、剣の刃のようになりました。 これはたまりません。

建御名方神は、父である大国主神の命に従うことを約束しました。

その後、建御名方神は信濃国に移り、信濃国の国造りをしました。

以下、割愛

・・・ここに登場する大国主神を祀っているのが杵築神社(現在の出雲大社)、

そして、その子供 建御名方神 が建御雷神に負けて逃げてきたところが諏訪湖の南といわれています。

・・・そのような言い伝えのある諏訪大社は、下社以外に、上社 前宮と上社 本宮 の二社を合わせて4カ所を参拝します。

では、先程の鳥居から北に進むと、出雲大社よりは小さいが、立派なしめ縄のある拝殿?でしょうか

・・・立て札に、神楽殿とあります。

立派な神楽殿です。

神楽殿が中央に置かれているので、神話の時代のように神楽は重要だったのでしょう。

左から回り込んで

奥に見えるのが本殿?でしょう。

弊拝殿とあります。拝殿と幣殿の機能が一体になった建物です。

中央階段の先に、楼門造りは2階建て、門に対して屋根が大きい・・・ここの拝殿で参拝。

奥に続くのが、幣殿と称する神職がお供えなどをされる場所となっているのでしょう。

もう一つの立て札、左右片拝殿とは

中央の弊拝殿から長い平屋建て(約11m)が、吹きぬけが多い・・・こちらも拝殿、両サイドに建てられています。

そして向かって右側の拝殿の手前に、大木が四方をしめ縄で囲ってあります。

これが御柱です。この場所が 一之御柱となります。

神木(御柱)はモミの木で、直径1m、高さ17m・・・この奥に四之柱が見えますが立ち入り禁止のようです。

先程のもう一方の片拝殿に戻りましょう。

こちらが、二之御柱です。もちろん奥に三之御柱があり、四角で囲っています。

何を囲っているのか? 御宝殿を囲っているのでしょうが、ご本尊を祀る本殿が無いのです。

春宮では御柱で囲われ、その内側に塀で囲まれた神域には「ご神体」があります。

ご神体は、・・・「杉の木」が植えられているとのことです。

この神域の後部には、神聖なる自然の山があります。

振り返って、

諏訪湖に延びる、一直線の少し下り坂の道路が続いています。

右側に、下記の案内図がありました。

万治の石仏が、この近くにあることを知り、散策に出かけます。

境内から右の砥川に向かい小道を下っていくと、川に出ました。

観光地にするには、目立つ橋を架けよう。

太鼓橋ではありません、鉄製の幅は狭いが丈夫な橋が架かっています。

そして、上流に向かうと間もなく案内板が

そうでした、誰だったか有名人が・・・岡本太郎氏が訪れた、そのように記述されていました。

大きな石に阿弥陀如来の頭部を彫って・・・いつしか、御利益と作法まで・・・

観光協会も商工会も、万治の石は観光資源です。

すでに立派な物語が継承されているようで、SNSでブームになれば土産物屋も・・・。

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久し振りの信州

2023-08-03 | 旅行記

土曜日の朝、駐車場から数分の所に蓮池? 蓮の花を見て回る。

このように、水面に大きな葉を浮かべる植物、じっくり見るのは多分・・・不忍池いらいかな。

案内板は、何故か 西が上です。

現在地から下側に目をやると・・・天守閣が東側になります。

昨日に続き、朝日を浴びるこちらの城を散策にまたやってきました。

信州・松本  松本城です。

城の西側、内堀に掛かる埋橋(ウズミバシ)、埋門から架かる橋でその名がついているようですが、現代(1955年)に架けられました。

戦国時代は内堀の中に塀を建てた特殊な構造だったようですが、詳細が不明でこのような朱塗りの橋が架けられたようです。

内堀に沿って南側に移動しましょう。

周囲は松本城公園、朝から海外からの観光客が多くみられます。

本丸に進むには、・・・すぐそこ、右側に黒門が見えて来ました。

黒門に進みましょう。

二の門と袖塀は1990年の復元とあります。

本丸に入るにはこちらが正門となります。ここで拝観券を購入します。

そして、海外の観光客に大人気でしょう、忍びの黒衣装です。

この暑さの中で、頭が下がります。オット 派手さは無いが、左手の先で武器を回していましたよ。

この場所は桝形に造られているので、右に進みます。

この先、左側の櫓門を抜けて本丸へと進みます。

右側は帰りの出口のようです。

こちらが一の門(櫓門)(ヤグラモン)、1960年(昭和35年)の復興とあります。

左側に、通り過ぎてしまったのですが、甲冑が展示されてありました。

今日も晴天、ここは記念撮影コーナです。長椅子は置いてないようです。

ここは標高589mとありますが、何と比較すれば・・・

東京都八王子市の高尾山、麓の京王線、高尾山口駅の標高が190mくらい

そこから人気のハイキングコースです・・・山頂まで約400m・・・そうすると高尾山の山頂は599m。

本丸御殿跡を、正面の大手口に向かって進みます。

大手口の上に渡櫓が走りその高さが12m、左が天守、右は乾小天守:高さ16.8mこちらは観覧できません。

右側に回り込んで

この先で拝観券のチェックとあります。

傘立ての先、石段を上がると城内は木造建築です。木製の階段ですから、下足は禁止です。

ビニール袋を渡されて、城内を持ち歩くことになりますが、これが大変な苦行となります。

出口が少し離れた右側の所になるので、持ち歩いて頂きたいのでしょうが・・・方法はあるでしょう要改善。

大手口には頑丈な扉があり、その先から・・・年季の入った滑りそうな木の階段の数々に挑戦することになります。

大半の人がバッグを背負い、階段の端に設けられた手摺を片手で握り、

反対の手に靴の入ったビニール袋を操りながら、階段に取り付いていきます。

階段付近の撮影は禁止です。

急階段が多く、段差が普通の二倍くらいある所もあり、甘く考えていると危険です。

天守の2階に到着、個人の寄贈品、火縄銃と関連資料が展示されています。

松本市出身の赤羽氏の寄贈とありました。

こちらは甲冑

2階は、東・南・西側に窓があり・・・比較的明るい、

係員の指示に従って、先を急がず無言で上ります。

段差注意!、上りは、階段に手をついて上がるくらい段差が高い所があり、ここは降りるほうが危ない。

天守の3階は窓が無く暗い部屋、五重に見える天守閣が・・・この階があることで、

外からは気づき難いが、内部は実質6階となる構造で、分りにくいこの階は最も安全と考えられたようです。

天守5階部分、この階は天井が高いです。

この5階は、天井が4.54mもあり、稽古場や作戦会議などが開かれたのでしょう。

最上階に上がる階段は、途中に踊り場があります。

最上階、天守6階です。

北側に、守護神が祀ってある・・・その謂(イワ)れが掲げてありました。

眺望の写真と案内が

国宝、旧開智学校が近くにありますが、

現在は修復工事中で見学はできませんでした。

東側が

王ヶ頭の裏側が美ケ原高原、茶臼山の裏側にかけて、ビーナスラインが走っています。

20年頃前は、夏に大勢のファミリーで、霧ヶ峰、車山高原、白樺湖と有料道路をドライブしたのが懐かしい。

南側は

駒ヶ根、木曽方面です。

駒ヶ岳ロープウェイに向かう道路で、バスの最後部左端に座ったら、カーブで身体は谷底の上に振られ・・・始めての恐怖体験。

光善寺のヒカリゴケ・・・懐かしい、久しぶりに・・・夏は信州の旅行が多かった。

中山道の馬籠宿、妻籠宿、カーナビが無い時代に地図を片手に・・・。

西は

天狗岩の向こうに上高地、右に穂高、左に焼岳、その向こうは・・・飛騨高山

・・・高山からの帰りに、中部縦貫自動車道の安房トンネルを通らずに、紅葉の峠を山道ドライブしたら

後ろから・・・爆音が轟くラリーの連中に遭遇、競うように走り・・・シフトチェンジが忙しかった。

多分10数年前を最後に・・・中央道の渋滞が嫌になり、こちら方面は疎遠になっていました。

写真を見ると昔のことが次々と・・・思い出されてくる。

・・・エ! 二十六夜社? 天井?

天井は太い梁で、隙間に・・・何か見えた。

反対側に回ると

頭上に「二十六夜社」が祀ってありました。

石川数政・康長父子が深志城からの城を改築し、御殿、太鼓門、黒門、・・・、

天守の築造は、1593~1594年頃と考えられているとのこと。

では、注意して階段を降りることにしましょう。

こちらは、南側、水深の浅い内堀の向こうが松本城公園

ここは天守の南東(辰巳)に増築された「辰巳附(タツミツケ)櫓」から北側の眺望です。

北側から石垣左側の入口に歩を進める人々、・・・階段気を付けてくださいよ!

国宝、松本城 

「辰巳附櫓」の先に増築された「月見櫓」の1階から出口となります。

朱塗りの回廊が見えますが、こちらが北、左が東、向こう側が南になり、

これら三方の戸を外してふきぬきとし、月見をするための贅沢な櫓でした。

出口は、入口の隣の門からとなります。

ありがとうございました。

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