気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

伊都岐島神社

2018-02-27 | 旅行記

「伊都岐島神社」と掲げられている鳥居の横から、パノラマ写真を・・・

左端のフェリー乗り場から、大鳥居の横まで進んできて振り返った光景です。

徐々に潮が満ちてきます。

中央を拡大してみます。

入江の最深部に、本殿が築かれています。

では、参道に戻って、参拝入口から入場します・・・すぐ右側に手水舎

・・・昔(いつ頃かは不明)は、こちらが出口だったと言われています。

参拝入口の表示があり、一方通行のようです、・・・入りましょう。

国宝厳島神社・金箔の看板があります。・・・左側の、世界文化遺産の看板は墨文字です。

英文・中国語・ハングル文字の表示はありませんが、各国語のパンフレットや音声ガイドがあれば?観光地としても問題ないでしょう。

ヨロッパ諸国の大半が、現地の有資格者の有料ガイドを付けないと観光案内ができない(添乗員などは観光地でガイドはできない)のと違い、

日本は自由で観光地にはボランティアの案内人までいるお国柄です。

国宝・廻廊(カイロウ)を進むと、右側に本殿から大鳥居に向かってせり出した舞台が見えます。

手前の檜皮葺きの建物は、右楽坊のようです。

そして、回廊の左側には社殿がありました。

パンフレットによれば、国宝・客(マロウド)神社とあります。

御祭神も違うのですが、ここでの祭典は先ずこの神社で始まり、その後 御本社で行われるようです。

廻廊の床が若干波打っているのは、床板が僅かに間隔が空いているので、高潮時の波による浮力をやわらげたり

床に上がった海水を抜く役目もはたしています。

・・・それでも台風などの襲来で、時々大きな損傷に遭われています。

この先の角から右側に続くのが・・・東回廊です。

廻廊の中程から、大鳥居がこのように見えます。

ここで満潮時の想像をすると、水面に浮かぶ幻想的な景観が頭をよぎります。

廻廊の幅は、約4m、御本社の手前で右に折れます。

正面の柱だけの建物が右楽坊、その左は?

御本社に沿って、回廊の角を左に曲がると・・・

御本社の祓殿(ハライデン)と拝殿(ハイデン)の間に到着しました。

御本社(ゴホンシャ)は、拝殿(ハイデン)、さらに幣殿(ヘイデン)があり別棟の本殿(ホンデン)が最深部にあるようです。

鳥居側に振り返ってみます。

この建物は祓殿(ハライデン)高舞台との間にあります。

そして屋外に、国宝・高舞台(タカブタイ)、現在も平清盛が伝えた舞楽が、毎年春秋にこの舞台で行われているようです。

高舞台は正面に素木(イラキ)の階段(立入禁止)、周囲は黒漆塗の基壇(キダン)に朱漆塗の高欄(コウラン)、・・・確かに黒と朱です。

その向こうに両サイドに倉庫のような小屋が見えますが、近づくと門客神社の札が掲げられていました。

さらにその外側の角にある建物は国宝、右が右楽坊、左に左楽房になります。

・・・高舞台の向こう側、平舞台に移動します。

反対側から高舞台と御本社(祓殿)です。

手前が平舞台・・・大鳥居側は

このような縦長の平舞台が突き出ていて火焼前(ひたさき)と呼ばれるようです、管絃祭の出御・還御はここから行われますとあります。

では、少し東によって右楽坊の位置から、

左にこの神社の入口・・・中央が廻廊・・・(こちらに張りだしているのは、昔は船着き場)右側に東廻廊までのパノラマ画像を・・・

続いて御本社・高舞台、その周囲の平舞台と続きます。

また、鳥瞰図をグーグルでお世話になります

高舞台の周囲が賑やかになってきました。

周囲には、灯篭や狛犬なども配置されています。

少し戻ってみましょう、東廻廊の山側に池のような窪地に、一つ大きな岩が置かれていました。

立札があります、・・・その地点に移動すると

内部には立ち入り禁止のようです。

「卒塔婆石」説明があります。母恋しさに・・・母は無くなっていたのでしょうか?

卒塔婆、・・・釈迦の遺骨を納めた仏舎利塔(ストゥーバ)から五重塔に、さらに五輪塔へ・・・これが卒塔婆の起源とすれば

・・・鹿児島県の南西にある小島、薩摩硫黄島が鬼界島と言われるようですが、・・・1000本もの供養塔を海に流した平安末期の話

そして許され・・・帰京して奉納した燈籠と伝えられているとあります。

御本社の西側の廻廊に移動します。

右側に、海面に浮かぶであろう建物が見えます。

これは、能舞台のようです。

 長い回廊を進むと、この先右側に、大国社や天神社とあります。

しかし手前を右に折れ、出口に向かいます。

左に太鼓橋?・・・右側は

先程の舞台です

能舞台です。

一方、山側は

・・・反橋(ソリバシ)とパンフレットに書かれていました。

 案内板もありました。

 右側の石垣は、隣の大願寺です。

この廻廊の先が出口です。左側に反橋、

こちらから見るとスッキリしています。

出口です。(昔はこちらが入口)

廻廊の出口の先は、小川に架かる石橋でした。

 

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厳島神社

2018-02-17 | 日記

久し振りの広島、市内をドライブするのは初めてだった。

JR広島駅近くでショッピング、広島城を横目に走り

原爆ドームにはやはり足が向いてしまう

何故か、原爆を受け・・・焼け野原になってしまった街中、・・・このような廃虚の中を必死に走っている市電、復興時の映像が時々放映され、・・・無念さが強く記憶に残っている。

そして、目の前でこのようなモダンな市電に出会うと、・・・元気な街にホッとする。

・・・昼頃、広島岩国道路から一般道に降り、まもなく岸壁近くの宮島口駐車場に車を入れる。

厳島に渡るには、・・・多くはフェリーに乗船することになります。

宮島松大汽船フェリー乗り場と・・・その先にJR西日本宮島フェリー乗り場、・・・二つの乗り場があります。

どちらも10分~20分間隔くらいで運行しています。

JR宮島フェリーに乗船します。ちょっと良いことがありそうで・・・

フェリー乗り場は、改札を抜けて、歩いて数十mくらいです。

厳島は遠方に見えますが、乗船時間は約10分。(フェリー航路は1.8km)

天候は晴れ、青空も見えるのですが・・・

寒い・・・出港・・・。デッキの上で寒風に当たりながら・・・朱色の鳥居を追い続けた。

想像以上に厳島は大きい島だった、周囲は約30km、裏山は・・・弥山(ミセン)(標高:535m)

鳥居の近くまで観光客が押し寄せています。

今は干潮時、今日の引き潮はあまり大きくないのだが・・・

JR宮島フェリーは、出港後大きく西側に迂回して厳島神社の前を通るように航行してくれます。

観光客向けの嬉しいサービスです・・・日中の時間帯に限られますが、・・・満潮時には大鳥居の近くを進んでくれるとのこと。

宮島フェリーの「宮島」とは?・・・、この島は平安の時代から厳島でしたが、お宮のある島で「宮島」、江戸時代中頃から・・・安芸の宮島と親しく呼ばれるようになったようです。

桟橋に到着、隣の桟橋にもフェリーが着いています。ここは観光地・・・年間300万人の観光客が訪れます。

広島港からの高速船(約30分)が運行されていたり、それ以外にも世界遺産航路や遊覧航路などがあるようです。

フェリー乗り場を抜けて、・・・ここは広島県廿日市市宮島町、に到着しました。(戦後、町名も宮島町となりました)

この先右側に進み、その先で左の商店街を通り厳島神社・参拝口に進むか、海岸沿いに進むか分かれます・・・海岸沿いに行きましょう。

道路に平行して、海岸沿いに遊歩道があります。

近年整備されたのでしょうか、砂浜から立派な石垣を積み上げて、堤防状に遊歩道が続いています。

波は穏やかで・・・綺麗な海岸線です。

右前方の大鳥居まで、数百メートルくらいでしょうか。

途中、階段があり砂浜に降りて・・・歩いて鳥居の近くまで進んでみましょう。

締まった目の細かい砂です、磯の香りはあまりなかった・・・前方に低い防砂提?でしょうか

その上に乗り、・・・先端まで進むと

大鳥居の横まで進んで、柱を見ると頑丈な構造です。

柱は波に洗われ、基礎も侵食され傾く危険もあります・・・大鳥居は、柱を2本の袖柱で支えていました。

ここで振り返ると、遠浅の入り江です、その最深部中央に本殿が建立されています。

そして左側の岸壁に眼をやると、結構上まで岩肌が茶色に変色しています。

この周囲は若干水深があるのか・・・潮が満ちてきました。左側の岸壁に引き返しましょう。

・・・砂浜を少し戻って・・・階段から歩道に上がると、ここにも鳥居がありました。

近くに、宮島の案内図もあります。

ここは参道です。・・・灰色の灯籠が並び、緑の松並木が続いている。

横に目をやれば、砂浜と青い海、穏やかな風景の中に、朱色の鳥居が存在を主張しています。

参道を進み、この先の角を左に曲がると

右前方に、横に長い厳島神社が・・・再度見えてきました。

さらに参道を中程まで進み、そして大鳥居の方を振り返ると、こんな光景です。

ここから階段を下りて、また大鳥居の方に進んでみましょう。

中央部が小川のように大鳥居に向かって流れています。

資料によると大鳥居の高さは約16.6m、柱の間隔は約11m、

鳥居の左側に行ってみましょう。

浅瀬を回り込み、大鳥居の正面から・・・額には、「厳島神社」と書かれています。

では、反対側を・・・本殿側からは、

何やら、文字数が多いようです。「伊都岐島神社」(イツキシマ)とあります。

平安時代、平清盛がこの神社を大改築するまで、この島は伊都岐島(イツキシマ)と呼ばれていたようです。

1168年の改築にあたり、本殿側に従来の神社名「伊都岐島神社」を掲示し、反対側に「厳島神社」と掲げ、以降厳島と呼ぶようになったと言われています。

この鳥居、屋根があるのに気づかれました?檜皮葺きで箱状の中に5~7トンの石を敷き詰め、鳥居の総重量を増やして自立するように工夫がされていました。

中央を流れる小川に飛び石が置かれています。その中程から厳島神社の全景です。

 参拝は、左側からとなります、東回廊経由し・・・本殿・正面手前に舞台があり、西回廊・・・右側が出口となります。

 先程の階段から、参道に戻りました。

正面が入り口ですが、

 左の丘の上に古い建物があります、階段を上ると、大きな建造物ですが・・・寂しげな雰囲気です。

千畳閣(センジョウカク):秀吉が建立を命じたが、秀吉の死により未完成で現在に・・・、明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。

五重塔は、1407年建立、高さ27.6mとあります。

参道に降りて、左側に「厳島神社御由緒」が掲げられています。

御祭神:市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命(タギツヒメノモコト)とあります。

女性が3人、・・・『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群・・・世界文化遺産に登場します。

昨年7月、文化遺産に沖ノ島以外も認められてニュースになりました。女人禁制の沖の島の映像もTV特番で流れました。

古事記に登場する神話の世界です。・・・宗像3女神を祀っているということは、とにかく古い・・・沿革に593年とあります。

天照皇大神とスサノオノミコトに関係して出現したといわれる3女神です。(・・・略)

昔々からの伝承で・・・航海の安全祈願、守護神として3女神が祀られていました。

・・・弥山(ミヤマ)山頂に登る予定だったが、予期せぬ事情でストップし、周辺を散策していたのだが。

弥山を断念し、・・・参拝することにしましょう。

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呉 大和ミュージアム

2018-02-11 | 旅行記

出雲大社を昼過ぎ出発、国道431号を東に進み・・・斐川町三絡から山陰自動車道(有料)に入り、

宍道JCTから三次・広島方向に進むため松江自動車道に乗り換える。

三刀屋木次料金所まで有料区間、この料金所を通過して、・・・何故か料金所の先、いつの間にか左カーブに入る車線を走行している。

このまま高速を直進する予定だが・・・道が違う・・・ハザードランプを点灯して停車、後続の車を右手で追い越させる指示をして、なぜ道を間違えたか確認しにバックする。

と、料金所から係員が走って来た。

スミマセンこのまま進んで一般道に降りてタイヤのチェックを受けて、・・・また本線に上がって下さい。

・・・直進・通行止めの表示は出てた?、チェーン規制・検問の矢印は無かったでしょう?・・・何故か車線が絞られて、そのまま下道に誘導された。

料金所の手前で検問を実施し、適合車両は、そのまま高速を走らせて欲しいのだが、チェックするスペースが無いのか一般道まで降ろされて・・・また坂道を登って本線に戻った。

・・・吉田掛合ICを通過した・・・雪が降らなければ出雲大社から須佐神社を経由して峠を越えてこのICまで走る予定だった。

この付近、結構雪が多い、・・・峠の除雪は難しかったかも知れない。

・・・中国山脈を北から南に走る無料の区間は、「中国やまなみ街道」の名前がついたようです。

平成27年3月22日全線開通とのことで、国と地方字自体で建設を負担したので無料の高速道路です。

島根県松江市から広島県尾道まで約137km、無料区間に入って30数kmも走らない内に県境の表示があり広島県に入った。

県境は中国地方の中央を東西に走る中国自動車道付近かと思ったら、結構北まで広島県が侵食していた。

この広島県の高野から中国自動車道までは、まだ約45㎞も走らなければならない。

この先で故障車や事故発生で突然渋滞にぶつからないように祈りながら進む。

道路は対面通行の片側一車線、トンネル内は路面に積雪が無いので問題ないが、橋の上は横風が強く、路面温度も低くスリップの危険がある。

しばらく走ると、やっと三次東の案内が出てきた。

この先で中国自動車道と交差する。中国自動車道は、北広島、通行止めの表示・・・他にもあるようだ

直進して・・・尾道方面に進む。

途中、世羅から一般道をショートカットと考えたが、所々に雪注意の表示があるので・・・このまま約50km走る

 この案内板の手前で無料区間は終了。

高速道路をそのまま進み、瀬戸内海側を走る山陽自動車道(有料)に入り、広島方面に。

路肩に雪が残っていたり、雪注意の表示も見られる。

50kmくらい走ると、また別の無料高速道路に乗り移る。

広島空港がこのJCTの手前、右側山間部に移って、・・・どのくらいになったでしょう。・・・(こちらに移ったのは、1993年10月でした)

かつての旧広島空港は海に近く、JR広島駅までタクシーが便利だった・・・などと思い出していた。

・・・東広島呉自動車道に乗り換える、・・・青い空、・・・しかし、雲の流れが速かった。

 

・・・空いている高速道路を順調に走り・・・終点の看板が出てきました。

急に交通量が多くなった呉市内をドライブし、岸壁近くの駐車場に駐車、・・・・目指す建物横に・・・いきなりドカーンと展示されていました。

巨大なスクリュー、その向こうに・・・金色に輝く真鍮製か、砲身を左右に振るためでしょうシャフトが目立っていた。

第一印象「イヤー重そう」砲身がさく裂しないようにとはいえ、こんなのをたくさん装備したら・・・紀元前、ハンニバルの象部隊のようです。

戦艦大和の有名な、巨大46cm砲(口径18.1インチ)、砲身長:21.13m、砲身重量:165トン

これを3連装砲台(2510トン)に取付けて、乗用車クラスの重さ1.5トンの砲弾を・・・42km(42、000m)、4kmでなく42kmくらいまで到達できる(最大射程)驚きの仕様です。

呉市訪問の目的は、

2005年開館したこの大和ミュージアムです。

昨秋の訪問スケジュールでは江田島の夕日や・・・釣りも計画したが、今回は無し。

閉館がPM6:00なので、慌ただしく飛び込む。

入って右側にミニドッグがあった。そこに戦艦大和の S=1/10 の姿があった。

鹿児島県枕崎市の沖200㎞の海域で撃沈され、長い年月が経過しました・・・近年、海底探索で菊の紋章がカメラで撮影されTVで放映されました。

船首の菊の紋章は、・・・大きいです。

 46cm主砲が並び、砲身の根元カバーが上下動の可動域を教えてくれる。

艦首の両舷に集中して機銃台が並んでいる。

大和の予備知識は少ないが・・・完成した時は、戦艦至上主義から、空域を制する航空母艦時代に進んでいたといわれる。

水上艇は積載されていた。

もちろん、航空母艦も当時の艦隊の中心に存在していました。

赤城、真珠湾攻撃に参加

 こちらは、これも有名な紫電改(詳細略)

 日本の職人が優秀なのは、このような見本(これは機械加工の仕上げの程度)△記号の数が多い右側が精細仕上げ

を作成し、目標の品質に合格しているか・・・加工開始時、中間時、終了時などとチェックし合否の判定をし、不適合品を除外しているからです。

仕上げ記号が理解できる学力と、根気よく目標に合格するまで学習する国民性でしょうか。

・・・依頼した勢品の見本品は良くできていた・・・合格、しかし数多く生産すると、不適合品が続々混入し・・・

全数検査をすると半分以上が使えない。時間をかけて良品を1~2個生産するのと、量産品で品質を安定させるのは、また違うのですが

そんな隣国で生産した結果、10年も修理が続いたこともありました。

「大和」の概要が掲示されていました。(動画などの撮影は禁止されています。)

 

そして、当時の設計図の一部も

窓の外が輝き始めた。

呉の、元軍港に夕日が沈む

隣のコーナーに進みます。潜水艦や人間魚雷などの横に・・・誰もが知っている機体がありました。

ゼロ戦です。

軽量化からくるスピード、圧倒的な操縦性能、そして付属タンクを装着すれば驚くほどの航続距離、

後年、軽量化による無防備な点を攻め込まれ・・・

訓練し力量の優れた人材育成は時間がかかる、人材は貴重な財産との発想が無く、簡単に補充が利く消耗品との発想がどこかにあったのでしょうか

複雑な思いで大和ミュージアムを後にした。

・・・呉から広島市内に向かうが、退社時のラッシュに若干遭遇。

そして広島市内、平和大通りのホテルに駐車、PM7:00前、八丁堀方向へ散策

しかし、寒風が・・・雪は舞っていないが寒い、地元の人の話でも異常なくらい寒いとか、

厳島神社は雪が残っているのだろうか・・・明日昼頃に参拝しよう。

 

 

 

 

 

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出雲は雪が少なかった

2018-02-06 | 旅行記

松江や福井・金沢などの都市では例年にない大雪が続き、またもや多くの車両が路上でやむなく青空駐車。

事前に大雪注意報が出されていたのに、・・・道路が白くなりそうと判断出来たら、国道は検問を実施しチェーン規制を早めに行って欲しい。

国道は動脈です、全体の通行量を減らして除雪を行いながら、雪道を走れる車は何とかその地域から脱出できるように通行止めは避けて欲しい。

ドライバーの忍耐や沿線の人々の好意がマスコミに取り上げられ、管理する当事者の不適切な対応がまたも見逃され、・・・今後も再発するだろうと思うとスキー場へ足が向かなくなりそう。

・・・山国の日本は多くの山脈が走り、尾根と谷間が平地に向かい複雑に走っています。

この地形の影響で雪雲の流れと気流の上下流が100m離れただけで大きく異なる地域もあり、積雪も違ってくるようです。

出雲の地は、西側が開けた海岸線を持ち、東に向かって平地が続き、北側と南側に防風林のように山並みが続く。

・・・風の抜けが良いからか何故か出雲地方は雪が少なかった。

国土省のライブカメラをチェックしても、出雲の平地では路面が露出しているのに、裾野からは道路が真っ白、雪が積もっています。

・・・前回2015年11月の訪問時は、出雲大社の東隣の古代出雲歴史博物館に駐車したので、・・・ここを通っていなかった。

1月11日、10時、高浜川に架かる宇迦橋の大鳥居の近くで停車、ここが参道の入口。

高さ23m、鉄筋コンクリート製、中央の額(扁額)はタタミ6畳もあるとのこと。

(鈴鹿ICを出てすぐ、道路に架かる椿大神社の赤い大鳥居も大きいが、高さはこちらの方がありそう)

出雲の地は、鳥居の向こうに見える宇迦山(ウカヤマ)が西から東に屏風のように走り、裏側の北の日本海からの風をさえぎっているかのようです。

・・・橋を渡り、新門通りの参道を進みます。気温も低く早朝の人通りは数えるほどです。

左側の松の木の先、左に入ると 竹内まりあ さんの実家(旅館)があるようです。

緩やかなのぼり坂の先にある高台が勢溜(セイダマリ)と呼ばれています。江戸時代はこの一角は特に賑やかだったのでしょう。

そして、石段の上に優雅な正面鳥居が建っています。

出雲大社では、一の鳥居、二の鳥居などと順番には呼んではいないようですので、どこから参拝されても歓迎のようです。

この一番目立つ正面鳥居が、勢溜の鳥居、木製です。

いつものグーグルで確認しましょう。

勢溜の信号を右に行くと古代出雲歴史博物館があります。

今回は信号を左折し、

スターバックスの横を通り、その先を右折し、出雲大社の駐車場に車を入れます。

天候は、チラホラ小雪が舞うが・・・傘は持たなくても大丈夫。

駐車場の東端、境内との境に小川が流れています。お城の外堀のようですが、後ろの山から流れ出した清流です。

川には、欄干付きの立派な橋が架かっています。

では、橋を渡り境内に入ります。

足立美術館や玉造温泉では結構積雪があったのですが、ここで作業される方に聞いても、このようにほとんど降らなかったようです。

この先右側、松並木の参道に鉄製の鳥居があります。(三番目の鳥居)

(2015年12月、2016年1月のブログ ~ 出雲大社 旅行記)・・・前回と重複しないようにしないと

・・・斜めに進み、手水舎に向かいましょう

まもなく、こんな親子連れが出迎えてくれました。

因幡の白うさぎ、

この石碑の右側には、縁むすびの碑が

縁結び・・・なるほどここにも縁結び・・・出雲大社は、若い女性に特に人気のようです。

右手前方に進むと、参道中央の松並木に合流しました。

正面に鳥居が見えます。四番目の鳥居になります。

この鳥居は、毛利さんの名が刻んである銅製の歴史ある鳥居です。

右側の境内の案内図を

左側には、遷宮の御挨拶があります。

 伊勢神宮も橋を架け変えたり、遷宮には長い期間必要とされるようですが、ここ出雲大社は伊勢神宮と異なり

隣に用地を用意していないので本殿は移さず、大屋根などが葺き替えられています。

2008年4月からの遷宮は、2013年に本殿遷座祭が斎行され、2016年3月にほぼ完了しました。

 胴鳥居の正面に本堂が見えるのですが、拝殿の東端が中心のラインに重なり、スッキリしない。

鳥居ー拝殿-本殿と くの字 に並んでいるので、この位置からの画像は・・・難しい。

・・・拝殿の西側に建築中の建物があります

なるほど、遷宮の御挨拶に記されていた、2期工事のようです。

ここ拝殿で参拝します。2礼・4拍・2礼です。

何故(シ)四なのでしょう、幸せの(シ)と説明されるガイドさんがおられました。

拝殿の裏に周ると本殿があります。

正面階段の上の門が「八足門」(ヤツアシモン)正月三が日は内部に入れるようです。

江戸時代初期の建造ですが、まもなく解体され、1744年現在の位置に移築再建された年代物です。

御祈祷を申し込めば、この階段の先(八足門の左側)から内側に入り、

楼門の近くでお祓いを受けられます。

ご朱印帖は左の「御守所」で・・・神社名は記されず、参拝 の文字と日付、社印 のスッキリした形です。

「八足門」の前に、ミッキーマウスのような大きな赤い丸印が3つ、4か所にあります。

江戸時代の・・・さらにその昔から・・・神話の物語がありました。

・・・発掘されて神話の世界が・・・現実の出来事となり

(出雲大社のHPより画像1点と文書を引用します。)

古代には3本の大木を鉄輪で束ねて1本の柱とし、高さ16丈(48メートル)の御本殿でありました。
千家國造家(出雲大社の宮司家)に伝わる古代御本殿の平面図「金輪御造営差図」が、その壮大な御本殿の容姿を今に伝えています。
平成12年には境内より、古代御本殿の御柱が「金輪御造営差図」そのままに3本束ねの姿で発掘され、今の世に顕現しました。

・・・とあります、

拝殿の東側にある宝物殿の入り口横には

再現された柱が展示されています。

先程の床にある赤丸は・・・八足門から、このような巨大な橋脚だったようです。

伝承によると平安時代は本殿の屋根まで高さ約48m、

その本殿に上る階段の橋脚で、・・・この様な物が並んでいたと言われています。

古事記、日本書紀に登場する重要な社(ヤシロ)です。

皇族や天皇陛下のお名前も見られます。

では西側(左)に周って、もう一か所重要な所に

西側のほぼ中央右側に進み

案内板があり

奥にある一番高いのが御本殿です

更に本殿の裏(北側)に周ってみます。

摂社の中でも大国主大神の親神を祀る素鵞社(ソガノヤシロ)があり重要文化財です。

振り返って本殿を反対側から見るとこの様に、スッキリしています。

平安時代には、このような本殿のみが高い所におかれていたようです。

 瑞垣(ミズガキ)の外で四天王?・・・白うさぎが守っていました。

戻って、

 

 境内の西側からのパノラマ写真です。

左端に半分だけしか映っていませんが長屋のように続く建物は、この出雲大社だけの特別な建物です。

十九社(ジュウクシャ)重要文化財・・・全国から八百万の神様が集まられた時、ここに宿泊されるそうです。

境内の東西の端に、向き合って建てられています・・・そうです、神無月(旧暦10月)、いやこの地では神有月(神在祭)期間中、十九ある扉が開かれます。

撮影ポイントは、下の画面で左端中程 十九社横から眺めた、拝殿裏と本堂です。

神楽殿は省略

帰り際、胴鳥居の横で、神馬神牛像に挨拶し

世界共通、撫でるとご利益があると伝わるので

ピカピカです。

多少雪が舞い始めた出雲大社から、・・・稲佐の浜へ

 

荒れた冬の海に、何故か砂浜に目立つ岩山が一つあります。

昔ははるか沖合にあり「沖御前」と呼ばれ弁財天が祀られていたそうです。

現在は、豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)・・・?、時々、一般の方と話題が神社の話になり、・・・主祭神が〇?、と登場する神様に詳しい方が多いのに驚かされます。

・・・全国から集まる神々は、宿泊する十九社は分かり難いので?、ここの浜に集合し、その後宿泊する十九社に向かうそうです。

さて、この後、須佐神社に行きたいが、休憩して情報を収取すことに、

新門通りで、お店の人に駐車場を教えて頂き、・・・通りから西側に入った先に大きな駐車場がありました。

日本ぜんざい学会壱号店

食べ物の登場が少ないので、時には甘味も・・・シュークリームのように丸くふっくらした焼き餅入りです。

・・・ヤマタノオロチ、須佐神社・・・積雪が無ければ25㎞、30~40分なのだが、その先山道を走り、松江道路まで20㎞

除雪作業が済んでいれば大丈夫なのだが、引き返すことになると面倒なので断念し、

太陽が出ているでしょうか?・・・雪模様と言われる瀬戸内海に向かうことにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皇族の方々・・・天皇陛下の文字も見えます。

 

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節分祭

2018-02-04 | まち歩き

2月2日金曜日、朝から小雪が舞っていたが、昼過ぎには止み、翌3日は太陽も顔を出してくれた。

昼の気温は8~9℃、午後2時過ぎ、池之端文化センター駐車場に車を入れ、切通坂の夫婦坂から境内に入る。

坂の上部、欄干の陰に先日の雪が残っていた。

例年になく気温が低い東京だが、この樹木は春の訪れを知らせてくれる。

今日は、節分だ。

本堂の裏、右手には仮設の舞台ができていた。

舞台横には、これから節分祭があり、参加者の御芳名なども貼り出されている。

境内は、沢山の絵馬が掛けられ、多くの親子連れも見られる。

インフルエンザが大流行しているので、マスク姿の人達も多い。

・・・さて、白梅・・・昔からある本堂横の白梅「白加賀」も沢山咲いていました。

正面にかつて紅白の大木の梅が置かれたが、今は無く、

しかし他にもたくさん咲き始めていた。

ここは、湯島の高台、湯島天満宮、・・・社務所前に案内図があるので

渡り廊下の向こう側が、豆まきの特設会場、

社務所内で裃を着つけて頂き、関係者、知人たちと談笑していると午後3時、節分祭が斎行されると案内があった。

・・・渡り廊下を渡り、本堂内へ

・・・他の神社では、豆まきに関取が引っ張りだこのようですが、ここは湯島、

切通坂の下は上野広小路、鈴本演芸場があります。そうです、噺家の方達が来れれています。

宮司さんにより節分祭が執り行われ、やがて3時半、豆まきが開始されました。

福は内!、福は内!と連呼。

鬼への掛け声が聞こえない・・・

鬼も・・・いた。

赤鬼!

衣裳が派手だ。

渡り廊下を戻り、社務所横から廊下を進み豆まき会場へ

会場は満員で警備の人も大変、本富士警察からも来れれているのか

芸能人も・・・演歌歌手の方や

若手俳優や

青鬼もいました。

その昔、京都の奥、鞍馬山で鬼がでる・・・豆を投げて撃退させた。

そんないわれがあるようで、今日では

インフルエンザの鬼退治!

袋入りの豆は軽くて、空気抵抗が多く、遠くまで届かない、

紅白の餅パックは、顔面に当たらないようにそっと下から投げる。

ジャズシンガー阿川さん、にこやかに登場されて大歓声!

風が無く、絶好の豆まき日和となりました・・・笑顔が一番。

・・・

社務所に戻り、裃をお返しして、

宮司さん他にご挨拶をし、社務所を出ました。

本堂を半周すると、・・・まだ後半の豆まきが行われています。

寒い毎日ですが、季節は春に向かって動いていました。

2月8日から3月8日・・・「湯島天神 梅まつり」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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