気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

清洲(清洲城)から稲葉山(岐阜城)へ

2012-07-25 | 旅行記

日曜夜の東名渋滞を避け、6/25日(月曜)平日にユックリ帰ろうと思ったら、日曜深夜から明け方まで、原因不明の激痛に襲われた。

食欲もなく、AM9:30出発、気分転換に東名阪自動車道から名二環(名古屋第二環状)の清洲東ICで降りる。

JR東海道本線「清洲駅」、名鉄名古屋本線「新清洲駅」が近くにある。

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向こうに見えるのが再建された清洲城、車を停めた橋の手前の駐車場、この公園付近が清洲城跡のようだ。

案内板を見てみよう。跡地がJR東海道線と新幹線で分断されている。

参考に、案内板の下方向に向かうと東京方面。

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那古野城(ナゴヤ)(現在の名古屋城二の丸跡)で1534年生まれた織田信長が、1555年、21歳でこの清洲城に移る。

大河ドラマでは、この頃木下藤吉郎が信長の草履取りから、この清洲城の割普請で石工達を競い合わせて短期間に完成させ、その功績で普請奉行になったと紹介されます。

この話は、江戸時代 秀吉人気にあやかった創作本(甫庵太閤記、絵本太閤記)の影響が強いフィクションようです。

木下藤吉郎の当時の働きは、信長に情報の提供をしていた生駒屋敷に出入りし、吉乃(キツノ)という女性に取り入り、行商人の経験も生かした、諜報工作での才覚を認められていくようです。

吉乃は信長の長男・次男・長女を生んでいる。

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この橋の下を流れるのは五条川、右に東海道線、新幹線が走る。

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残念、月曜日は休館でした。

尚、かつての清洲城の天守は、現在の名古屋城の築城の際に移築され(名古屋城御深井丸の西北櫓です)(4月のブログで紹介)重要文化財に指定されています。

目の前の清洲城(天守)は、1989年、地元清洲町町制100周年記念として、場所が多少離れるが川の反対側に当時を創造して建設されたとのことです。

・・・大昔

1560年5月19日、この地を信長が単騎飛び出したのが午前7時過ぎと言われています。

約12㎞離れた源太夫殿宮(熱田神宮)まで一気に駈け、午前8時頃、戦勝祈願をしています。

そして兵の集まるのを待ち・・・前線の砦へ・・・

午後1時過ぎ雷雨が上がると織田軍、今川義元の本陣に突入する。

「敵襲!」・・・親衛隊旗本300騎が円陣をつくり義元を囲み防御する・・・繰り返しの攻撃についに義元の円陣も50騎になり、織田勢の服部と毛利、義元に切りかかる。

「大将の首、討ち取ったり!」、毛利の勝ち名乗りに今川勢は逃げ出す。

合戦は約2時間、信長! 桶狭間で奇跡的な勝利!有名な戦です。

・・・

信長27歳、桶狭間の勝利から、美濃征服にその後何と7年もの歳月が・・・、34歳まで苦しい戦いが続いたようです。

現在の地図で見てみましょう。

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木曽川、長良川、揖斐川(イビガワ)などが流れる肥沃な濃尾平野、

しかし、やっと下流域の尾張を統一したが当時20万石くらいでしょうか

武田信玄100万石とも言われます。石高が多ければ人口も多く、戦で戦闘員も多く抱えることができます。

この広大な地域を制圧するには、北方の美濃・稲葉山城を攻めることになる。

稲葉山城(現在の岐阜城)に行ってみよう。

・・・

一の宮ICから高速に乗り、一の宮木曽川ICで降りる。

この先3㎞位で東から西に横切る木曽川は川幅も広く、渡れば・・・そこは美濃(岐阜県)

その先北上すると正面に稲葉山(金華山)、そして山頂に城が見えた。

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うっそうと木々が茂り、山肌が良く解らないがこれは山城だ。

この稲葉山城は標高329m、北側に長良川をのぞむ金華山頂に築かれていた。

車は南側から近づくと道路は直進できず北東にカーブする。

山の麓の岩戸トンネルを通り、東斜面の井ノ口トンネルと続く。そして山の北側長良川の手前に出た。

この北側は急斜面で右側は長良川、直ぐに金華山トンネルに入り岐阜公園側に出てきた。

金華山を南から反時計回りに3/4周したことになる。

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公共の駐車場(バス他)の先に岐阜公園が広がる。公園の中央奥に金華山ロープウェー乗り場があり山頂横まで登れる。

尾根の右がロープウェーの終点、・・・左に城が見える。

時間は昼少し前、中華粥を無理して流し込み食事t休憩。

昔のイラストを見てみる。今とは植生が違い、一説には赤松の多い山だったとか。

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多少元気になった、・・・ロープウェー乗り場に向かう。

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営業は年中無休、夏季AM8:30~PM5:30 往復料金:1,050円

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ロープウェーの右側の尾根は、馬の背口と言われ、山頂まで約1.1㎞、最短コースだが岩場もあり危険。

左側は、百曲口で、同じく山頂まで約1.1㎞、禅林寺から尾根を登る険しい道で、斉藤道三が造ったとされ、木下藤吉郎がこのコースを攻め上がったとされる。

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眼下の中央を横切るのが長良川。右側が上流で、長良橋横から鵜飼観覧船の乗り場がある。

さて、この金華山の地形図を見てみよう。

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南西から南の尾根を登るコースが一般的で、七曲口(大手道)と呼ばれ、距離は約1.9㎞。

この道も斉藤道三が造ったとされ、当時も信長の時代も大手道で、鷲林寺常在寺の前に総門があった。現在は道も整備され小学生でも登れると言われる。

ロープウェーを降りると、すぐ右側になぜか金華山リス村がある。

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そして少し進むと、登山道の案内板が・・・

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百曲口を下りたい衝動に駆られるが、今回は我慢しよう。

尾根沿いの道に、ゲートが(天下第一の門)

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案内板を見てみよう

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このような道が続きます。

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途中、左側に歴代城主の案内が掲示されていた。

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この付近平らな場所が続く、馬場跡とされている。

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この先、少し登ると二の丸

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石段を右に曲がると

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二の丸門をくぐり、左に曲がると尾根に上がる道と真直ぐ進む道に分かれる。

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塀が見えるその先にやっと見えてきた。

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戻って、尾根に上がろう。山麓の東が見えてきた。

そして目の前に石垣、見上げれば天守閣

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ここを右に折れ、石段を登ると時計台がある。

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入場料を払って中に入ろう。入場料は200円、近くの資料館と共通です。

・・・岐阜城の歴史を紹介して、次回に

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鈴鹿サーキット見学

2012-07-08 | 旅行記

三重県鈴鹿市、東名阪自動車道、鈴鹿インターは山側にあり、鈴鹿サーキットは海側の丘陵地にある。

日曜日昼、家族を迎えにサーキットの近くに出かけた。

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50周年と書かれたゲート・・・鈴鹿サーキットは、1962年9月20日オープン、今年の秋開業50周年です。




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B.Cコーナーが見えてきた。

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迎えまでに少し時間があり、サーキットの内部を見学させて頂けることになった。

最近新装なったサーキットはどのような感じでしょう。

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上の工事中の写真は2009年3月。
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これが新しいサーキット(コースの一部:正面スタンド付近)

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パドックトンネルに向かう
ここからコースの地下を通って反対側のパドック(レースに参加する車やバイクの関係者が入るブース)に行ける。

この上に見えるスタンドは、V1、正面スタンドで一等席だ。

車は、別の地下トンネルでサーキットの内側に入れる。

コースと、観覧スタンドの地図を見てみよう。

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エスカレータで地下トンネルへ

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さらに先に、もう一段地下に降りるエスカレータがある。

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このトンネルを抜けてエスカレータで上がると

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振り返るとセンターハウス、その向こうに3階建ての建物が見える。

2階から渡り廊下でパドック側に

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ここが、レースに参加する方のパドック駐車場

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1回に降りよう。

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ここがパドック、通り抜けるとピットロード、そして右側に(東側)?

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走行前の打合せ

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ピットロードの前まで行ってみよう。

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ピットレーン側は低いコンクリートの仕切り、コース側は高いフェンスで仕切られています。

中段に開口部があり、ここからレーサに指示を出す。

覗いてみよう。

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仕切りの柵からゴール方面を覗いてみる。

・・・時間は、PM1時近い

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徐々に、エキゾーストノイズが高舞ってきている、・・・レースが始まるのか?

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車が入ってきた。

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レスキュウカー、そしてアナウンスがありバイクレースがスタート・・・

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レースの邪魔にならないように、

多分1周2分20~30秒くらいでしょうか、直線250km/h位は出ているんでしょう

思った以上の迫力です。

F1のトップクラスですと1周、1分30秒くらい、直線Max時速300km/h以上でしょうか?

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ピットに戻ってくるバイクも出てきた。

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携帯が鳴った、迎えの時間だ、残念だがまた寄ることにしよう。

鈴鹿サーキットは今年春から、特定日予約制で若干数、自家用車でこのサーキットを走行することができるようになった。

ぜひ走ってみたいものだ。

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エレベータで地下に降り、トンネルを出て、お礼を言ってサーキットを後にした。

・・・

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サーキットから5分くらいで、HONDA鈴鹿製作所がある。

来客が出入りする敷地の一角を除き、緑の樹木が視界を遮っている。

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内部にテストコースもある。

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自動車産業は、HONDA、TOYOTAと日本の産業空洞化を必死に守ろうと奮闘中!

焼き畑農業と一緒で、人件費が安い所を探して次々と世界を移動し生産基地を変える、安い物を世界に輸出するのが企業の使命と豪語する会社が多くなった中で、企業は社会貢献・雇用も使命、・・・鈴鹿と埼玉で国内生産100万台を目標にするHONDA。

HONDAジェットも、もうすぐ就航・・・期待しています。

すみません、TOYOTAの愛車でサーキットに駐車しました。

来年にはTOYOTAからHONDAに乗り換えますので、寛大によろしくお願い申し上げます。

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ひょんなことで古事記?

2012-07-05 | 旅行記


6月23日(土曜日) 朝早く、車で高速道路を西に向かう。

猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)って誰 ?

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・・・? 難しくて読めないが通称「天孫」、「天照大神の孫」らしい。

・・・いつの時代の話でしょう・・・・・。

その昔、神代の物語(神話)に登場する有名人のようです。日本版、天地創造、その後の話

かつては神道が学校において、国民道徳の名で行われてきましたので、戦前に教育を受けた方はご承知のことでしょう。

今日、教育基本法で公立学校における特定の宗教のための教育は禁止されているので、天照大神(てんしょうだいじん?)・・・なに?、 となります。

神代の世界、古事記の世界の片鱗が見つかるでしょうか?・・・これから縁あって向かうところは。

AM9:00 四日市で渋滞したが AM9:30 鈴鹿インターを降りる。

右折すると直ぐに、大きな赤い鳥居が目に飛び込んでくる。

鳥居を通り抜けて振り返っても、神社名を記した額は鳥居の貫に付いていない。

ここから約5Km、椿大神社(つばきおおかみやしろ)の参道に掛かる鳥居のようだ。

道路をまたぎ2本の丸柱が立ち、最上部に水平に島木が置かれ、その下に貫が柱の内側まで平行に通っている。

非常に単純な形で、明神鳥居を見慣れているとあっさりしていて、何か見落としたような気がしてくる。

鈴鹿山脈の麓に鎮座するこの神社は、伊勢国一の宮・猿田彦大本営 非常に歴史のある神社のようです。

境内入口左には交通安全祈願の車が順番待ち。

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境内を進むと、右側に案内板が・・・

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神前結婚式も多いらしい。早速このような光景に出合った。今日は大安吉日!

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季節は夏、そして、今年も半年が過ぎようとしている・・・

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拝殿の手前に見慣れた大きな輪が・・・この時期良く見かける光景です。

「茅の輪くぐり」・・・今年の残り半年も健康で過ごせますよう祈願しましょう。

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手水舎(てみずや)で手水を使い、その先に茅の輪が置いてある。

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左側に反時計回りに1回、右側は時計回りに1回、そして拝殿に進む。

自分は茅の輪をくぐらず失礼しました・・・そして明日の夜、激痛に襲われることになる。

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この椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、32神もの神様が祀られている。

改めて社務所でパンフレットを頂くと、祭神は複数あり主神(しゅしん)が、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)とありました。

「古事記」や「日本書紀」に登場する地上の神の一人です。

天上の高天原(たかまのはら)を治める天照大神(あまてらすおおみかみ)らが、地上世界も天照の直系の子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治るべきだと地上界に降ろすが、地上は乱れて騒がしいと戻ってきた。

地上界は、大国主神(おおくにぬしのかみ)が築いていた。

この神は天照の弟、須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫である。

・・・キリスト教の基となる福音書が書かれたのが約2000年前、古事記が書かれたのが約1300年前(奈良時代)

為政者が民衆を支配し易くするためには何が必要か?

第40代天武天皇が天皇家の系譜と朝廷の伝承に間違いが多く、再編集し誤りを正すように命じた。

朝廷中心の国家体制が確立するには天皇が治める根拠を示し、統治の正当性を語る証拠が必要だった。

これに答えたのが「古事記」であり、「国譲り」などの神話から天皇家の正当性を説くことが目的とされた。

大陸からの情報も参考にし、神代の世界・国生み・天地の始まり・神々の誕生・・・国譲り・天孫降臨・・・天皇の正当性・・・と創作された。

聖書でも、ナザレのイエスはアダムの血筋で有名なダビデの直系とされましたね。

創世記・神話の世界から何とイエス生誕までの系図が作成されたのも、権威・正当性の証拠となるよう関係者が創作したわけですね。

さて、大国主(おおくにぬし)は高天原(たかまのはら)からの使者を二度撃退するが、三度目の強力な武力神には逆らえず、・・・国譲りを承諾し条件を出している。

立派な神殿を建てて欲しい。

そして、その後創建された勇壮な出雲大社は、この大国主を祀っている。

大国王は地上を献上すると約束した。

天皇家が国を統治する正当性の根拠は、天照大神直系の子が、この時から地上を支配したと記録すればよかった。

日本書紀では、天皇家の祖神(皇祖神)は高皇産霊尊(高御産巣日神)(たかみむすひのみこと)としている。

この神は高天原の最高神で、国譲りの命令をした神とされている。

この神話が先に創られ、後の神話で天照大神(天照大御神)が皇祖神に変更された。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が降臨に指名された。

・・・しかし、この段階で当時の編集者が物語を変更した。

現実の世で持統天皇が幼少の孫に天皇職を譲位し、文武天皇が誕生した。

・・・このドラマを神話に取り入れ、天照の子が辞退し孫を代わりに指名することになったようです。

瓊瓊杵(邇邇芸)命(ににぎのみこと)が地上界に降臨することになった。

天照の孫に当たり、このために天孫と呼ばれる。

高天原は天孫に、8神を従わせ、八尺(やさか)の勾玉(まがたま)、八咫(やた)の鏡、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器(皇室の象徴)を与え降らせた。

降りる途中で、天と地を照らす不思議な神が現われた。

天之鈿女命(天宇受売命)(あめのうずめのみこと)が名前を聞くと、地上の神「猿田彦(毘古)神」(さるたひこのおおかみ)で案内役を買って出たと告げた。

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 椿大神社の資料 より

一行は、九州日向の高千穂の霊峰に降り立った。

・・・・・山岳信仰の日本では、聖地として深山がふさわしかったのでしょう。

いかがでしたか、この案内役の神が主祭神です。

明治神宮・・・日光東照宮・・・熱田神宮・・・その昔の時代です。

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現実に戻って、拝殿横の社務所・・・そして参道を戻る東側に

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この先境内に、別宮 椿岸神社がある。

天之鈿女命(天之宇受女命)(あめのうずめのみこと)が祀られている。

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天照大神が天の岩屋戸に隠れた時、半裸で舞って(かぐら舞)皆を笑わせ、大神を誘い出した神様で「芸能祖神」でもある。

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近くに扇が鎮座している。

また・「美の神」、天孫降臨における猿田彦大神との出会いから「縁結びの神」でもある。

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少し進んだ先に、水量多い「かなえ滝」があった。

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振り返って整理してみよう。

椿大神社(つばきおおかみやしろ)、パンフレットより

太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」を西暦紀元前3年に、「倭姫命」(やまとひめのみこと)(垂仁天皇の皇女、甥の日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙の剣を授けた)の御信託により、「瓊瓊杵(邇邇芸)命」(ににぎのみこと)(天孫、天照大神の孫)、「栲幡千々姫命」(たくはたちちひめのみこと)(天孫の母親)を相殿(あいどの)(同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)として社殿を造営、日本最古の神社とあります。

神話の世界を今日まで伝承されてこられたことに驚くと共に、古事記の内容が一部創作であれ故人の智恵と努力に敬意を表し、改めて古事記、日本書紀を読んでみようと思った。

そんな由緒ある椿大神社でした。

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