気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ガレー船の時代までは、真珠だった

2019-03-12 | 旅行記

カモメが飛んでいる。

広場の北側、サンマルコ時計塔の下を通って、ブランド品が並ぶ狭い繁華街を直進すると、ここはイタリア

Ferrari、フェラーリ、跳ね馬のショールームが突き当りに、

・・・右折し、その先を左折しながら・・・気になっていた、ヴェネツィアの人は運転が下手らしい、・・・

それはそうと、ショールームだった?・・・車?・・・走れないだろう

・・・オット・・・迷子に・・・なった?

確か数回ジグザクに北を目指せば目的地・・・人の流れの多い道を選択して

・・・この広場で、・・・ラッキー、

左の先に・・・、階段がある

リアルト橋が見えてきた。

・・・海運王国だった時代、この付近は商業の中心地

確か昔は、木製の跳ね橋だったようです。ルネッサンス時代まで

・・・サン・マルコ広場から、ここまで10数分くらいか、・・・思ったより早かった。

残り数段、・・・青い洋服の女性が立つ位置が橋の最上部。

大理石が敷かれた石組みの橋は、1561年に完成している。

中央部で橋の両側に向けアーチが掛かり、十字路の角にもお店があり、橋の幅は22mもある。

では右側に折れ、橋の欄干から・・・

密集した14世紀~16世紀のビル街が並ぶ光景は、かつての繁栄ぶりが想像できます。

大商人は運河横にビルを建て、船を横付けにできた、・・・仕事場の上は住居で、この運河沿いは一等地

1527年、ローマの悲劇があり・・・ここから逃れた建築家は、このベネツィアでも活躍しています。

・・・島に逃げてきた民族がここまで大都市を造るとは・・・

裕福な時代の歴史的遺産ですが・・・住民の減少は続き、今後老朽化する建物を維持していくのは大変です。

橋の反対側の光景です

市街地をS字形に走るカナル・グランデ(大運河)、今日でも物流の大動脈です

橋の横から階段を下り、川面に目をやると、・・・飛んできた・・・脚 細いねー

街の主役は・・・ゴンドラです、昔からの黒がイイ。

橋の西側、さらに移動すると

フェリー乗場、Rialto、リアルトのチケット売場

この右側には電光掲示板で、行き先や発着の時刻表があります。

サン・マルコ広場へは、この先運河の左右に次々と乗り場があり、結構時間がかかりそう。

・・・これも、ホテルに飾られていた絵画ですが、

建物のデザインがアッサリとしていて、14世紀頃?・・・いや、風景画は、15世紀以降の題材でしょうか。

しかし、すごいですね。船で物を運ぶのが商売の民族とはいえ、丸太を運び、石材を運び、ロープと滑車で建てたのでしょう。

・・・この14~17世紀ヴェネツィアの発展が気になります。

各種ガイドブックや歴史書には・・・10世紀頃から交易で繁栄し、11世紀にはアドリア海の東沿岸部も制圧し豊かな島になっていきます。

北ヨーロッパから人気の人材として奴隷や、木材などを、北アフリカ沿岸のイスラム教徒に売り、金・銀を手にして、・・・買付です。

シリア、トルコ、コンスタンティノーブルなどで東南アジア原産の香辛料などが、シバの女王やメッカで有名なアラビア半島を通り運ばれてきていた。

金銀の工芸品、宝石、香辛料などを買い付けて、ヴェネツィアに戻ると・・・文化の遅れたヨーロッパの王侯貴族に高値で売れたそうです。

・・・やがてお宝の輸送船は、海賊やライバルのジェノバ共和国に襲われる、・・・航路の安全確保には、海軍の増強が急務でしょう。

地中海東では1300年頃・・・遊牧民からトルコが誕生・拡大し、やがてビザンティン帝国を侵略し、100年後・・・首都コンスタンティノープルも包囲される状況。

イタリア半島では、教皇領、君主国、公国、共和国、自治都市・・・これらが乱立し領土争いが常態化。

・・・商売で生きるヴェネツィア共和国は、アドリア海はもちろん、北の大陸側も販路として重要でした。

隣国との争いには、金の力、外交以外に武力も必要になります。

商業都市フィレンツェやローマ教皇は自前の軍隊を持ちませんが、金で傭兵を雇いました。

ヴェネツィアも陸軍はありましたが、隊長を含め全て傭兵です。資金をつぎ込み軍事力を強化します。

・・・重宝されたのが、国内に仕事が少なく出稼ぎが多いスイス国民、・・・外貨獲得に外国で傭兵に。

ジェノバ、ピサ、ミラノ、ヴェローナ、バドヴァ、・・・これらの都市とヴェネツィアは、同盟を結んだり、裏で資金援助したり・・・

14世紀の勢力図がこちら、ヴェネツィアは、大陸側は海岸線から少しの範囲とアドリア海の東沿岸部の都市を半数程度制圧しています。

突然吉報が・・・1402年、トルコのスルタン(君主)自ら率いた大軍が、何とモンゴル軍との戦いで完敗します。

トルコのスルタンは捕虜になり・・・軍は四方八方へ・・・そして消滅。

一方1405年、イタリア半島北部ではヴェローナなどが、敵対していたミラノから圧力を受け、ミラノの支配下になるよりは、自由のあるヴェネツィアの属国を選びます。

属国となった土地は広大で農業が盛ん、これで食料も確保でき、・・・15万人の人口が・・・属国含めると約10倍の145万人の大国に。

運を味方に・・・15世紀前半、ヴェネツィアは最盛期を迎えます。

しかし、アルプスの北西にフランク王国、北に神聖ローマ帝国と強国が・・・面倒なのが宗教で脅す教皇と教皇領、

・・・一方、地中海の東方では、・・・滅亡から20年、トルコが復活し、徐々に勢力を拡大してきます。

1453年5月29日、トルコに攻撃され、首都コンスタンティノープル陥落、・・・900年続いた東ローマ帝国が滅亡。3日間略奪が続き・・・

異教徒の脅威! イタリア半島では5大国が緊急協議、ローマ教皇領、ナポリ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェが争いを中止。

翌年1454年に協定を結び、イタリア半島はこの後、40年間つかの間の平和、そして後に言われる ルネッサンス の時代です

・・・中世の時代は各国の王もキリスト教徒です、教徒よりも教皇の力が強く、破門されると、誰にも相手にされなくなって悲惨。

この権力者・教皇の選出(コンクラーベ)に投票権があるのが枢機卿。

枢機卿の推薦に教皇が関わるので、親族を枢機卿にし多数派工作、・・・何と10代の枢機卿も誕生と教皇のやり放題。

宗教を商売にする教皇と、交易で富を目指すヴェネツィア人民、懇願する相手に首は切らないと約束し、胴を切る乱暴者のスルタン

このような中で個性を発揮したのが、・・・何故?、人間は自由だろうと考えた・・・意志の強い人々

天才が次々に創作作品を発表する・・・この時代に興味を持ち始めると・・・宗教とは、教団とは、・・・考えてしまう。

・・・16世紀のヴェネツィア、豪華な宴会のシーンを想像できる絵画があります。

「カナの婚礼」 1562~63年頃の作、 縦6.77m、横:9.94m、作者:ヴェロネーゼ(正式名:パオロ・カリアーリ)

総勢130人、左端のテーブルに手前から新郎新婦が並び、横には当時の著名人、フランソワⅠ世、スレイマン1世、君主カール5世など

中央手前の楽団員には画家仲間が、左からヴェロネーゼ、パッサーノ、ティントレット、ティッツアーノ。

 

2013年5月 当ブログにて。・・・ルーブル美術館で鑑賞できる作品です。

・・・サン・マルコ広場に帰ろう・・・適当に近道だろうと進んで、いくつか橋を渡ったら、狭い四つ角で・・・迷子になった。

スマホのGPS位置情報が・・・反応が遅い、・・・急ぎ足の通行人に・・・広場は?・・・左? 

・・・広場に向かう途中のブランド街で、蛍光グリーンの女性が目立っていました

この都市でもカラフルなユニフォームの女性が仕事中、宅急便ではなく・・・ゴミの回収中でした。

Keep 〇〇〇 clean、隠れている文字が Venezia(ヴェネツィア) と思ったら、Venice?・・・EUの民間業者?

・・・ヴェネツィア 興味が持たれたら・・・塩野 七生(ななみ)女史の作品。「海の都の物語」をお勧めします。

30数年前に書かれた作品ですが、なぜかベクトルが合うので・・・(後半しか読んで無いのですが・・・)

このヴェネツィア共和国の歴史が、共和政体、信教の自由、言論の自由(出版)など、各種記録をベースに詳しく描かれています。

この中から、1480年ヴェネツィアにやってきたキリスト教徒の旅行記がありますので、ご紹介しましょう。

・・・何故生死をかけてまで、行くのか? 参考に地中海の地図を

実はこの時代、北ヨーロッパの庶民が・・・死後の世界を脅かされ・・・免罪を求めて、聖地巡礼に参加したのです。

ミラノの公務員、サント・ブラスカさん、35歳、独身、聖地巡礼パック旅行に申込み、半年間休業して・・・、

1480/4/29 ミラノを出発し、ヴェネツィア共和国にやってきました。

・・・なかなか巡礼船が決まらないが、紹介され毎日あちこち観光していました、・・・ヴェネツィアの観光政策によって。

教皇が12世紀の末に、ローマ以外ではこのヴェネツィアだけに与えた特権を営利事情に利用していました。

それが、・・・キリスト昇天祭に、ヴェネツィアの聖遺物に参拝すると「完全免罪」を得ることができるというものです。

1480年の昇天祭は、5月11日、・・・サント・ブラスカさん聖遺物に参拝し「完全免罪」と日記に書き残しました。

・・・ヴェネツィアは200年間「巡礼事業法」で、旅行の安全とサービスがセールスポイントです、徹底していました。

フランスなどに比べ1割くらい割高な旅行費用ですが、ヨーロッパ中に人気がありました。

3種の証明書、①「パスポート」:教区の司祭が発行する聖地巡礼専用の身分証明書・・・(これは本人が入手できました)

②「聖地巡礼認可証」:ローマ法王が発行します。

これが無いと、あちこちの聖跡に参拝して得られる「免罪」が無効になってしまうので巡礼には必要な書類。

③「ビザ」:現地王朝のイスラム教徒から通行許可証がでる。

この取得に面倒な②と③をヴェネツィア側で代行してくれたのです。

もし、巡礼者が旅の途中で死んだら、遺体の処置、遺物は遺族へ、残りの日数に応じて旅行費の返還も行われた。

やがて・・・6月1日のキリスト聖体祭が済むと、6日出港と決まった。

・・・6/6 早朝6時、ヴェネツィアの港からやっと船に乗り・・(略)・・・

途中赤丸印などの寄港地で風を待ち・・・右端の港ヤッファ(現在のテルアビブ)に到着、・・・風次第とはいえ・・・長かった。

しかし、ここでも手続きに日数が掛かり、7/27 ガイドが案内する聖地巡礼団体ツアー・・・ロバに乗りサァ出発。

途中アラブ人に通行許可証の提示を求められたり、ここの通過は難癖をつけられないように静かにとか・・・緊張、そして1泊、

翌日、エルサレムに入場する。アラブ人の信仰についてこんな感想を述べています。

・・・イエス誕生の洞窟の中に、イスラム教徒が靴を脱いで入り礼拝するのを見る。

イスラム教徒は、イエスを聖者にして立派な正義の人と言う。

だが、彼らにとってはイエスは予言者ではあっても、神の子ではない。

聖者の由来、十字架に付けられたゴルゴダの丘のことは、・・・笑って信じない。

予言者はそんな苦悩に満ちたことなどやるはずがないと言う。

・・・ところで、聖跡参拝は免罪が 、完全免罪 7年と40のどちらかになるという。

聖スティファノの門から、イエスが十字架を背負わされて引き立てられていったヴィア・クルチスを行く。

しばらくして、シモンがイエスに代わって十字架を背負った・・・ガイドが言う。

・・・ピラトの宮廷跡、白い大理石の上で、何も理由の無い死をイエスに言い渡したと言う。

聖母マリアが少女の頃、字を習いに行ったマリアの学校も聖跡(感心するくらいアチコチ行きますが・・・割愛)

・・・ピラトの屋敷跡も見る。連れてこられたイエスが鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ白い布を着せられたのだ。

免罪、7年と40、祈りを捧げる。

ユダヤ教の要所、ダヴィデが天使を見た場所も見学する。

・・・聖母の生まれた家、聖アンナの墓所参拝、聖母の母である製アンナの遺体は、

コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが、コンスタンティノープルヘもっていったので、今ここには無い。

しかし、免罪は、完全免罪

オリーブ山のふもとの、聖母マリアに捧げられた教会に参拝。ここも完全免罪

左手に下っていくと、聖母マリアの昇天の場に出る。7年と40日の免罪

・・・最期の晩餐の家・・・、完全免罪

・・・聖墳墓教会では、アラブ人の監視役から、家畜でもあるかのように一列に並ばされ、・・・参拝料を徴収され、

巡礼者が中に入ると外から鍵が閉められ、翌朝まで開けないことになっている。

異教徒もこの聖地の重要性を知っていて、参拝料も最も高い。

・・・さらにキリスト誕生のベツレヘムに行き、その後ヨルダン河へも・・・

アラブ人に襲撃されるかもしれない危険があり、48人の一行の内、参加者は半数以下になった。

エルサレムに帰って三度目の聖墳墓教会に行き、祈りで夜を明かす。

エルサレムでの12日間が過ぎ、明日の 8/8 夜明け前ここを出発する。

・・・ヤッファーに着いたのは、翌々日の夜だった。

8/11夕方、出港。風は順風、8/15キプロス島着、シロッコ(南西の逆風のこと)が止むまで停泊、・・・略・・・

10/14 レジーナの港に入る。アドリア海の半ばを残すだけになった。

10/17 パレンツォ到着、風がシロッコとなり、しばらく停泊が続きそう。

急ぐ巡礼者には、小舟(数人)で沿岸部を迂回する便もはかってくれたので乗り換える。

・・・波の上に見え始めたこの都がどれほど美しく見え・・・略(やっと戻れた)(亡くなる方もいました)

10/22、ヴェネツィア着、三日間死んだように眠り続けた。

ミラノに帰ったのは、115日だった。(彼はこの後、旅行記として出版しています)

・・・巡礼は、行きの船旅だけで45日、ヤッファから上陸、聖地を巡礼しヤッファに戻り、船で発つまで22日、

帰りの船旅が 72日間、これに故郷からヴェネツィアまでの往復日数とヴェネツィア滞在日数がありました。

・・・ドイツやフランスからの巡礼者は、さらに2か月は必要となり、人生をかけて申し込む聖地巡礼パック旅行でした。

これもホテルに飾られていた画像です。

今日の風景と比較しても、ドゥカーレ宮殿は変わっていません。

16世紀には、この街はほぼ完成形となり現在に・・・。

ヴェネツィア土産は、時代と共に変わって来たのでしょうか・・・。

変わってきたのは、戦争の仕方?

地上戦はオスマントルコが陸伝いに数万人規模の大軍を動かすので、圧倒的な勢力と対抗するには連合軍。

海戦は、(ヴェネツィアの海軍は、ガレー船という帆船に人力エンジンとして漕ぎ手を100人位は乗せていました。)

訓練されたヴェネツィアやギリシャの海軍は戦闘力が高く、船の性能も地中海一番で強国でした。

 

「海の都の物語」によれば、ヴェネツィア 絶頂期の記録があります。

・・・1423年、ガレー船:45隻と11,000人の船員、120トン級以上の大型帆船:300隻には8,000人の船員、

小型帆船:3000隻に17000人が船員として従事していた。

造船工は6,000人、絹や綿布の織物工は、帆布を織る者も含めて16,000人・・・経済大国だった。

・・・1499年はガレー船60隻・・・この年、2度目のオスマントルコ軍との戦いがありました。優勢な状態で和議

1538年はガレー船82隻・・・トルコと3度目の対戦、(ヴェネツィア単独では戦力不足で対抗できない)

連合を結び、法王庁が36隻の約束で27隻、スペインが82隻のところ49隻、結局200隻の約束が158隻のガレー船。

対するオスマントルコは約200隻、これでも乗組員の技能が高く戦力では勝てたでしょうが、

・・・スペインは北アフリカ対策が重要で参加が目的か・・・結果、敗戦・・・これ以降、地中海はオスマントルコが制圧。

1571年、レバントの戦い、ヴェネツィア:104隻のガレー船、更に大型のガレアッツァ6隻と110隻の軍船を用意

法王庁とその他連合国:98隻、何とか208隻の軍船が揃った、(ガレー船以外の帆船を合わせると大艦隊)・・・始めてトルコ軍に大勝した。

・・・以後スペインの海軍は戦う相手が無く無敵艦隊と呼ばれたが・・・後にイギリスと戦い完敗(英国の大砲:性能が格段に進化)

・・・トルコ軍は2~3年後復活したが、支配地はピークを過ぎていた。

ヴェネツィアは、陸軍は傭兵だったが、海軍は給料を支払う自由民でした、・・・船は増やせるが・・船員を無条件に増員ができない。

トルコのように漕ぎ手を奴隷や支配地から強制労働力として集めることができなかった。

フランス:1600万、スペイン:800万、ドイツ:1000万、イタリア(ヴェネツィア除く):1100万、

トルコ(エジプト、北アフリカ除く):1600万・・・・・総人口の数字です。

ベネツィアは属領を含んで:145万(本土は1/10)と圧倒的に資源不足で・・・継続は困難だった。

どこかの国と同じような話です。

勝負には、ルールがあるので・・・決着しなければならない、勝てる方法はあるでしょう

戦争は継続できなくなったら、終了です。

・・・たくましく、世界有数の観光都市に・・・商売人ですから。

・・・ヴェネツィア、日はまた昇る

ヴェネツィア島を後にして・・・向こうに見えるは、・・・本土から流れ込む河口があります。

旅人はこの河口まで船で下って、この付近に小屋でもたくさんあったでしょう。

ここから島へは・・・帆を上げて、風任せ・・・水路を気長に・・・  気長な旅をしてみたい。 

 

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ヴェネツィア共和国 新しい守護聖人

2019-03-04 | 旅行記

サン・マルコ広場の一角に鐘楼が・・・、高さは、ガイドブックによれば96.8m、素晴らしいランドマークです。

エレベータで、60mまで一気に登ります、・・・展望台から・・・これは前回の動画からの画像です。

東側の眺望。奥に見えるのは・・・大陸と続いている細長い半島のような低地で、砂州の親分でしょうか。

この島の周囲にも多くの島が点在し、どこまでが潟でしょう、・・・右側の隣の隣?が外海です。

・・・眼下の寺院でした。

気になるサン・マルコ寺院は、

屋根の上に、ネギ坊主がモコモコトと。

・・・なぜ 聖マルコがこの地に? 寺院の正面に絵解きがありますので・・・後程。

この寺院の建立は11世紀、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(現イスタンブル)の聖堂がお手本といわれています。

ヴェネツィアは早くから東方と交易があるので、半球状のドーム(伊:クーポラ)を屋根に載せる工法も確立していたようです。

十字の中央部が一番高いドーム、手前の主身廊と奥の内陣にも各々ドームが載り、更に左右にと・・・何と五つも載せています。

だから内部で天井を見上げると窪みが連続して続き・・・側廊から進んで斜から見上げる結果、さらに複雑な凹凸に戸惑います。

ビザンチン様式に、西ヨーロッパの様式を16世紀頃まで次々と加飾して、完成に至ったようです。

ところで・・・西ヨーロッパ社会が1096年に第1回十字軍を送り、イスラム圏の進んだ文明に驚いたようですが、

ヴェネツィアは、長い間の取引先です・・・参加はしていません。

ローマ法王の熱弁が有名です・・・「ヨーロッパは貧しくみじめだが聖地エルサレムは乳と蜜が流れるところ」

「この地で不幸な者は、彼の地で幸せを得るだろう」

「聖地奪還は神の御業であり、神の御業に参加する者には、罪が許されて、贖(あがな)いは免除される」と

・・・得意の手法で信者を脅し、1000年も昔の聖地は他国の土地だが、

聖地エルサレムが異教徒に圧迫されている、殺人は免罪される奪還しようと。

・・・次男・三男や農業に従事する若者が・・・未来に希望が持てるなら正義の騎士として、異国の地へ戦いに。

11世紀、ヴェネツィアは、海軍を要しアドリア海を支配下におき、繁栄していました。

1202年イスラム教徒に取り返されていた聖地獲得に第4回十字軍を編成し、ヴェネツィアに輸送船を提供してと

ヴェネツィアは、遠征軍リーダーに・・・乗船料はこれくらいと、・・・エーッ、金の集まりが悪く・・・船賃が無い

・・・では、アドリア海の都市ザーラを奪い返してと条件を出し・・・遠征軍は奪還してくれました。

では、船と船員も提供し十字軍に参加しましょう・・・ヴェネツィアは法王の威厳、エルサレムの聖地奪還より

地中海交易でライバルの東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを占領し実益を得ようとします。

難攻不落の要塞が陥落し、首都を占領しました、参加国で占領地を分配し・・・ついでに財宝類を持ち帰りましょう。

1204年のことです。

・・・サン・マルコ寺院にはアレやこれも、沢山残っています。

・・・展望台で、もう少し南に向いてみると、・・・この光景が見たかった。

この港から外海に出て行く船道は、左前方に進みS字形に島の間を抜けていきます。

ヴェネツィアは、12世紀に巨大な国営造船所を建造し、大航海時代までヨーロッパで最強の海軍がありました。

本島の東端にありましたが、現在は立入禁止区域のようです。

素敵なコバルトブルー、いや若干エメラルドグリーンにも・・・濁流が流れ込むことが無く、海の色が綺麗です。

・・・更に少し右に・・・見えている部分は潟に点在する小島です。

球体の海面に光が反射し真珠のようです。平和な光景です。

海に突き出た所に建つ教会が デル・サルーテ教会です。

右側に柱があるので・・・移動します。

サンマルコ広場、寺院の真向かいです。

広場正面には、共和国時代この場所に教会が建ち繁栄を見守っていたそうです。

・・・オーストリア軍を追いヴェネツィアの領土、ヴェローナにやってきたフランス軍のナポレオン

中立宣言のヴェネツィアに味方に付くよう脅迫し、・・・物資の提供を受けながら戦う意志のない相手に宣戦布告、

そしてヴェネツィア共和国は1000年の歴史が終わってしまう屈辱の白旗・・・

フランス軍とオーストリア軍は1797年10月講和条約を結び、ヴェネツィアはオーストリア領に。

・・・ナポレオン様ご一行が来島されるので宿泊施設を、真向かいに左右の建物と調和させ建てたようです。

ナポレオンがこの地に立ち、「世界で最も美しい広場」といったのは、有名な話とのこと。

このような時代だったでしょうか、かつて宿泊したホテルに飾ってありました。

こちらは、北側、大陸と結ぶ鉄道・道路が走っています。

もう少し北東に向きを変えると、共和国時代の商業の中心地、リアルト橋があります。

・・・

ヴェネツィアは、5世紀に戦闘民族から逃げて、湿地帯にある無数の小島の一角(現在より東)に移住したとされます。

・・・ヴェローナで見かけた・・・ローマ帝国が建てたアリーナや公共施設が無いのは、・・・港にも使えないこの地は重要視されなかった。

ナポレオンがオーストリア軍を追ってきた時点で、下図は全てヴェネツィアの領土でしたが、陸路はパドバまで、

赤〇がヴェローナ、青〇はパドバという都市、本島へは・・・

ここから河川を舟で約35㎞くらい下り、渡ったようです。

川の両岸には別荘や住宅が建ち、農業が行われていました。

ヴェネツィアは、地理的に東西ローマ帝国の中間に位置し、戦闘民族では無いがアドリア海を利用して

交易で生きるには、まずは物流の安全には海軍の強化(造船能力と乗組員)、交易相手との友好には外交力

情報の収集には各国に大使館を置き諜報活動も優れていたようです。

国の統治は、かつてのローマ帝国のような共和制、元老院(貴族院)、元首の監視に二人の護民官を置き、

法の支配は貴族といえども厳格に、信教は自由と先進的でした。

しかし、21世紀、改めて問題になっているのが宗教、

今日の信者数:一説には、ユダヤ教:約1700万人、キリスト教:24億人、イスラム教:18億人、ヒンドウー教:約18億人、仏教:約5億人・・・)

これらの宗教の中で、一神教の与える恐るべきマインドコントロールパワーに驚くと共に、なぜこうも信者が多いのか

この疑問が少しでも解けるように、またイタリア各地でアレコレすることになったのです。

サン・マルコ広場(以前の画像・寺院の北側 修理中)

右側の建物の回廊

シャンデリアのような、光の滝が・・・

中央部右側に、・・・ガイドブックで必ず紹介されているお店です。

フローリアン、1720年創業、現存するカフェでは世界一古く、ゲーテなどの来店は有名

フローリアンの前の広場には、11時頃から椅子が並べられます。

広場の向かい側には、1775年創業のカフェ・クアードリがあり、こちら側にも椅子が並び始めます。

サン・マルコ寺院

一部では、サン・マルコ大聖堂とも呼ばれるが、共和国時代はカトリックの司教座は、島の端にある別の教会に置かれていた。

この地でも、若きナポレオンがミラノのドォーモと同様、教会のありように強引に介入してきたようです。

島の端の教会から、この広場の有名なサン・マルコ寺院をカトリック教の司教座に代えたので、

一部の関係者は大聖堂と呼んでいます。しかし信教の自由な土地ですから、昔からの寺院と呼ぶ人が多いとのこと。

さて、寺院の正面、ドームが半球ではなく縦長のプラネタリウムか天文台のように立派な造りです。

正面ファサードの頂上にシンボル、このヴェネツィアの2代目守護聖人です。

手に持つのは福音書でしょう。

キリスト教では4人の著者の福音書が採用されていますが、最も古い紀元50年頃に書かれたとされる著者です。

聖マルコの像が建つ、サン・マルコ寺院です。

少し目線を下げると、羽のあるライオン:マルコのシンボルでもあり、ヴェネツィアのシンボルがここにもあります。

日本語で、有翼の獅子と説明しているガイドブックも見かけます。

・・・中央入口の上部、半円形の部分に鮮やかな色彩で描かれているのが、・・・

あまり話題にならないが、キリスト教でも禁止していた偶像崇拝に逆らって、正面中央は無難にイエスと十字架。

この建立時期は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立し、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と争い、

その後、帝国と教皇を和解に導き、教皇から感謝され・・・共和国はキリスト教に重心が移っていったようです。

それから、何故かアーチの上に4頭の精巧な馬がいます。

これは、コンスタンティノープルからの略奪品(銅製のレプリカ)です。

中央の入口以外に、・・・左右に各々2場面、計4か所で描かれているのが、この寺院ができた由来です。

右端:ターバンの人々が何をしているのか・・・

ヴェネツィアの交易相手は、東ローマ帝国やイスラム国、アラブの国々と西ヨーロッパの国々です。

大昔、アレクサンドリアで布教していた聖マルコ が捕らえられ・・・その墓が発見されたとの情報が・・・

キリスト教会でブームになっていた聖遺物、ガラクタでもなんでも物語があれば高く売れた時代です。

ヴェネツィアでは守護聖人をギリシャ出身のテオドーロよりは、聖マルコの方が格が上、

その遺骨が手に入れば正真正銘の聖遺物、異教徒のエジプトの墓から盗み出す・・・作戦が練られ

828年、イスラム教徒が嫌う豚肉で覆って・・・そんなシーンらしいです。

隣りは、自国の船でヴェネツィアに何とか到着

左の3番目のシーンが

 結構、力を入れて描かれています。

ドージェ(元首・総統・軍団長)による遺体の引き取り場面です。

遺体を祀る寺院の建設が始まるのは・・・すぐです。

2年くらいで最初のサン・マルコ寺院が完成し、ヴェネツィア共和国は守護聖人を聖マルコに改めました。

一番左が、聖堂に聖遺物(聖マルコの遺体)を運ぶ行進の図です。

このモザイク画は13世紀の完成で、4つの中で一番古いようですから、この新しい寺院ができてから200年後です。

時代は、・・・ライバルだったジェノバ共和国と戦い・・・勝利して、

貿易・商業で他国が嫉妬する程するほど富を集め、地中海交易は前途洋々、そろそろ自国自慢が解禁されたようです。

・・・本堂に入ります。

金色がベースですが・・・ガイドブックはモザイクとありますが、モザイクとしては繊細、画素は・・・?。

画像からでは不明です

1000年もの長い間、蝋燭の煙や香炉で若干くすんだような、沈んだ感じになったのでしょう。

完成当時は、これ以上に豪華、光り輝き・・・。 

これは、採光もよく、雰囲気は出ているが

汗だくでこられた巡礼者も多かったでしょう。振り香炉も活躍しています。

こちらの画像では、中央と内陣のドームでしょうか

画像が傾き判り難いが・・・多分中央のドーム、ガイドブックでは12世紀後半の傑作

ルカによる福音書「昇天」聖母マリアと12人の使途がキリストを見上げ・・・以下略

こちらも画像がブレていて・・・そうでした、ここは撮影禁止のようでした

以前は今回と同じく11:30頃、照明が点いた時間帯に多分撮影が可能で

探し出した画像です。

このように主身廊から正面の祭壇を見ると、天井のドームの状態が多少理解できます。

モザイクの主要テーマは、キリストの生涯と受難、そして復活とあります。

制作時期が12世紀から14世紀中までとあり、有名な画家ティツィアーノの下絵をモザイクにした作品もあるとのこと。

こちらの内部も含め16世紀頃まで、コツコツと手を加えられていたようです。

・・・前回は、照明が暗い中、内陣の後ろに別料金で入れるコースがあり、但し宝物の撮影は禁止

「パラ・ドーロ」と呼ばれるサン・マルコ寺院の最大の宝物が据え付けられていました。

これはヴェネツィアの依頼で、コンスタンチノーブルで制作された「黄金の聖壇の飾り」

黄金と数々の大きな七宝が嵌め込まれた大きな衝立状の工芸品でした。

・・・今回は、別料金でテラスに上り広場を見ます。

右側の狭い急な階段を5mほどでしょうか、結構上ります。

そして右側にテラスがあります

 

何これ! 掠奪してきた4頭の馬、競馬場に置かれていたものらしいですが、素晴らしい作品です。

テラスからの北側広場です。

回廊と上部の窓のアーチが整然と並び重厚な建築物です。

鐘が鳴っていました、あちこちから・・・昼12時のようです。

天気が悪く、広場には両側のお店から4か所テーブルが並べられましたが、閑散としています。

では内部に戻り、テラス内側からの豪華な本堂の様子が鑑賞できます。

階段を降り出口に向かいますが・・・

下の画像の様子は、前々回・・・床上に海水が上がって・・・でもこの位は慣れたもので

このような仮設廊下が造られ、落ちないように進んでいるところです。

では、リアルト橋に行きます。 

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ヴェネツィア共和国だった頃

2019-03-01 | 旅行記

Venezia(ヴェネツィア)、英護ではVenice(ベニス)、ローマと並んで観光資源に溢れた歴史の重みが感じられる街です。

「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」「水の都」

かつて始めてのこの街に宿泊し、夜半ホテルの部屋から街中を眺めていて、治安が良さそう・・・、

一人で地図も持たずにカメラ片手にサンマルコ広場に行ってみようと・・・無謀にも出かけた記憶が鮮明によみがえってきました。

ホテルは、サンタ・ルチーア駅から歩いて5分位

 上の画像の左手前側に、サンタ・ルチーア駅(鉄道)があります。

数段の階段を上がった上に駅舎があるのですが、この街にタクシーは走っていませんので駅前ロータリも無く、

上部に横長のひさしが通っただけの機能優先の建物だったと思う。

駅前は、フェリー乗り場です。(上の画像の右側)

駅舎の東横にサン・ジェレミア教会(11世紀の設立)があり、運河との間の道を進みます。

この先、ホテルは左に進むのですが、カナル・グランデ(大運河)に架かる数少ない橋が右にあります。

橋を渡って、反対側から振り返ると

11世紀の教会にしては、ギリシャ風モダンなデザインです。

そして、数か所フェリー乗り場が見えます。

・・・近くの通りに面した、ここが宿泊先の4つ星ホテル

そして、部屋から眼下の通りを眺めていたら

結構治安が良さそう、女性の一人歩きも見えます・・・

屋台のお店は片付けられているが、若干飲食店の灯りが見える。

・・・カメラ片手に出かけたのが、PM9:00だったようです。

方向感覚は良い方だが、・・・・見通しがすぐ悪くなる道に困りながら進むと、・・・狭い運河に架かった橋が現れた

確かヴェネツィアは100、いや120以上だったかの島が集まり、運河も100数拾以上、橋も数百はあるようでした。

運河に架かる橋が多いのは当たり前と、どんどん進む。

・・・橋の先は違う区域、区画整理いや、開拓された年代が違うのか・・・道幅が急に狭くなったり

四つ角の小さい広場に出てくると、さてどちらに進もうか・・・

街角で、覚えやすい目印が見つからず、通行人についていくと・・・狭い路地に入り・・・後に続く

路地の先は、・・・開けていた。

近道だったようだ・・・、この先密集した商店街で・・・この辺は?、多分リアルト橋

付近の商店街はシャッターが降りていて、先に進んで迷子になっても、店が閉まっていては聞くこともできない。

路地は迷路のようで、来た道は覚えられそうになく・・・引き返すことに 

15分位で・・・このような光景に戻れて、ホッとした。

ウインドウショッピングがしたかったのだが、ホテルの中にも多少ありました

ヴェネチアングラス、クリスタルか否か分からないが、今日では鉛の使用制限があり

かつてのような製品は製造できないでしょう。

そしてホテルからの翌朝、眼下に、旧市街らしい屋根と壁

通勤客で活気が出てきたようです

サンタ・ルチーア駅前のフェリー乗り場に出発です。

ショーウインドウに温かい光が点きました。ここは世界有数の観光地です。

・・・

今回は、この日も霧雨模様、・・・左がイタリア本土で、右がヴェネツィア本島。

ヴェネツィアの境界線は本土側にも土地はあって、例えば左の海岸に沿って数キロ北東にマルコ・ポーロ空港もあります。

今日では、河口から約10㎞くらいまでが行政区域でしょうか。

3850mのリベルタ橋によって鉄道と道路が走り、本島側と結れています。

鉄道はこの先、画面右に直進してサンタ・ルチーア駅が終着駅、途中で右に分岐して隣の島に進むと貨物駅

道路もこの先本島で右に曲がり、終点のTRONCHETTO(トロンケット)の駐車場に進みます。

近くにあるトロンケット島からの地名でしょうか。

黄色のラインで駐車場に到着。フェリー乗り場に進み・・・

青の航路でボートによりサン・マルコ広場の東側のフェリー乗り場から再上陸です。

右側のジュデッカ島との間を進むと、やがて鐘楼が目立つ、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が離れ島に

ルネッサンス後期に着工され、17世紀に完成し、チィントレット、カルバッチオ等の絵画で有名

この教会の対岸では、本島市街地をS字形にカナル・グランデが走り、この位置で合流します・・・こんな風景です。

サン・マルコ寺院の鐘楼が見えきて、ドゥカーレ宮殿が視界に入ったら、・・・

中世の船乗り達は、12世紀に建てられた二本の柱頭に感謝の祈りを捧げたのでしょう

聖テオドール(最初の守護聖人)が左側に、槍と盾を持ち・・・聖マルコでは無いようです。

有翼のライオン像、

これはヴェネツィア共和国の紋章です。

・・・そして、フェリー乗場から・・・歩いて・・・この2本の円柱が建つ小広場に到着

この2本の円柱の真下から、サン・マルコ広場を見てみましょう(これは昔の画像です)

さて、観光の目玉が サン・マルコ寺院やゴンドラでしょうか

下の写真も昔の画像ですが、・・・多少気になる所があるのですが・・・、船体の色が黒のみ?・・・習慣です。

この時は、潮位が90~110cmくらいだったのでしょうか?・・・海面が高いでしょう・・・

ヴェネツィアを悩ます、アクア(水)・アルタ(高い):満潮ということですが、通常は異常潮位現象を指します。

内海(潟)の海水面が満潮時(大潮)の大きさと、季節風(海風)の強さ、気圧などの条件により100~160cmにも達する現象。

通常 潮の満ち引きはピークが30分くらいですから、上の写真は満潮からどのくらい経過した状態かは不明です。

・・・昨年11月上旬は、150cmに達し大変だったようです。警報のサイレンが100cm以上で鳴るようですが・・・。

ゴンドラは、1隻6人乗り40分80€が相場との話、乗り場やコース、もちろん時間で異なるのは当然ですが・・・。

ホテル・バウアーの横の運河から乗船、・・・薄曇りになってきましたがゴンドラは30分位で十分、路地から・・・

自由の女神や交通信号もあり、・・・やがて大運河にでます。

ゴンドラの船団、いい風景です。

・・・この観光用客舟、左右非対称・・・右側面は直線で、こちら側にオールを入れる。

左側面は大きな曲線を採り、傾きを補正しているようです。

右前方にサンタ・マリア・テッラ・サルーテ教会のドームが見えてきました。

こちらの運河側が確か、ファサードのようでした。

ラテン十字ではなく、中央部にドーム、奥に内陣、その内陣にもドームが載り、鐘楼が建つ。

サン・マルコ小広場からの見た目を美しく、その様な設計で計画され

(これも昔の画像)正面からはドームが重なり、左右対称のデザインです。

この教会、1919年 今年のイタリア版カレンダーを購入した中に、採用されていました。

 この教会は、17世紀のヨーロッパを襲ったペストの終息を祝い、1631年着工、1687年完成。

教会の土台には、〇〇〇本の杭が打ち込まれているとか

このようなボーダシャツ、似合いますね (昔の画像でした)

市の免許と約100万円と言われる営業ライセンスが必要で、ゴンドリエーレ:船頭さんになるのは大変

・・・〇〇〇は?、10万でした。

さて、この建物をつなぐ渡り廊下のような構造物・・・下を小運河が、・・・ゴンドラも通るコースですが・・・

主役が・・・分かり難い、

この画像ですが、何とこの画像もカレンダーの2月に採用されていました。

なぜそんなに有名なのでしょう。

名称は、「ため息橋」、左の建物がドゥカーレ宮殿の裏側、右側の建物が牢獄

この橋を渡ると二度と生きては帰れず、囚人がため息をつきながら渡ったという「ため息の橋」

しかし、イタリアの建築物カレンダーに選ばれた理由については、デザインでしょうが・・・?。

サン・マルコ寺院もありました。

2019年4月のカレンダー

この寺院も、イタリア全土で良くみられるラテン十字ではなく、・・・いや十字形ではあるので、縦横同じのギリシャ十字か?

・・・漠然と内部に入るとあまりの凹凸の多さに目移りがして、全体像すら把握できない、更に前回は暗かった。

前回、鐘楼に登った時の動画から、パノラマを切り出して見ると、十字の中央部と四方にドームが載せられているのが良くわかる。

前々回の照明が点いた本堂内の画像を整理中。

 

 

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