ローマとは、・・・あれもこれも気になって、
16~17世紀の芸術家が、今日の芸術の都を創ったのは間違いないでしょう。
頬に風を感じながら、あそこはあの当時どんな状態だったかな・・・と思案するのは楽しい・・・そして歴史を学ぶ。
・・・ローマは、今度のコロナも含め、何度も何度も悲惨な状況に襲われ、そこから不屈に立ち直っています。
細菌の襲来も何度もありました、・・・これって、忘れた頃に突然襲来するのは、生物界のバランスが崩れ、生存競争?
その他多数、人間界の衝突は、・・・欲望の争い? 人口過多のひずみでしょうか?
・・・小国が周辺国と同盟を強固にするには、担保の有る無しが重要と、・・・政略結婚を実行するのは古今東西、当たり前のようです。
中世のヨーロッパで、二つの国が突然歴史の表舞台に登場してきました。
歴史上非常に重要なのですが、支配者の王侯貴族の在位年数が短く、常に王位継承の争い、政略結婚・・・多すぎて理解が難しい。
地中海西端のイベリア半島、・・・イベントは、1492年1月2日
「グラナダ無血開城」 この画像は有名です Francisco Pradilla画
左黒毛の馬上の人物・・・グラナダ王国最後の王 ポアブディル王(優柔不断?肉親と争ったあげく・・・)
対する右側、白馬の女性・・・イサベル女王・カステリア王(スペイン国のヒロイン)
隣の栗毛色の馬上・・・イサベル女王の夫、フェルナンド王・アラゴン国王(策士でしょうか)
ほぼ同じような実写? 構図は同じようです。
そして、グラナダ王国の大きな鍵を
戦勝国に手渡す儀式の様子です。(アルハンブラ宮殿の鍵でしょうか)
上記の2つの画像は、スペインで大人気の「イサベル 波乱のスペイン女王」連続TVドラマ
(かつてBS日テレで放送)の一場面でした。このTVドラマは見られました?
・・・イスラム勢力に奪われたイベリア半島をキリスト教徒が奪還する闘争(レコンキスタ)が、771年から続いていました。
独特のイスラム文化を熟成させたグラナダ王国、そして最後まで抵抗したアルハンブラ宮殿
・・・このグラナダの地は、地中海にも面し、山からの水も豊富です・・・住み易そうに思われます。
ここは世界遺産、ヘネラリーヘ離宮から望む・・・現在のアルハンブラ宮殿です。
・・・その向こうに、今日のグラナダ市内が見えます。
この宮殿から西に約10㎞(市街地が見える方向)にサンタ・フェの町が現在でもあります。
・・・1491年初めスペイン両王軍は、港町マラガ(ピカソの生誕地)の町を攻略し、
そこから内陸に山麓を100㎞、この地のアルハンブラ宮殿を包囲していたが・・・長期戦となり、
宮殿から約10㎞離れた荒れ地(サンタ・フェ)に石組の簡易城壁で囲んだ駐屯地を設けます。
包囲中の駐屯地に40歳くらいのコロンブスが、同年齢位のイサベル女王に謁見して陳情しています。
以前、1486年にも黄金郷ジパングを探したいと西回り航海の援助を要請するが、進展していなかった。
包囲すること約1年、・・・1492年1月2日、グラナダ王国は降伏となりました。
・・・探検航海のスポンサー探しの話は、
ポルトガル王国が支援したアフリカ沿岸探検から火が付きました。
ポルトガルではエンリケ王子(航海王)時代の探検を引き継ぎ、ポルトガル王ジョアン2世がアフリカ西海岸の探検を続行。
1482年になると航海が困難だったアフリカ西端部を攻略し、黄金海岸(現材のガーナ)に到達、この地に要塞を建設した。
現地では金、象牙以外に人間を奴隷として略奪・・・離島に奴隷収容所も設置し、新たな商売の奴隷貿易を開始。
1488年に探検隊はさらに南下中、嵐に遭遇し沖に流され・・・どうにか湾内に避難、・・・先に進むと海岸線は北東に続いている。
・・・アフリカ最南端を迂回できていた。
ジョアン2世は最南端通過に喜び、これでアフリカ東海岸に沿って北上するインド航路の実現が目前となった。
・・・少し前の1483年、ジェノバ港町出身のコロンブスは、ジョアン2世に航海の援助を要請していたが断られていた。
1525年頃描かれた クリストファー・コロンブス の模写(ライフ人間世界史6より)
ライフ人間世界史 6巻によれば
コロンブスは、マルコ=ポーロの「東方見聞録」に触発され、黄金郷があると信じているので探検に出たい。
20歳代半ばに、フェレンツェの医者から地球は球体、インドに行くなら西回りを勧められていた。
地球の全周はこの位の距離、これまで多くの探検で知りえた距離がこの位、残りの未踏の距離を計算すれば?
15世紀後期の世界地図(ライフ人間世界史6より)(喜望峰の少し先まで描かれていますが、探検の内容は機密のようです)
医者の推定5000海里に対し、コロンブスは約3070海里(5680㎞)とインドまでの距離を少なく見積もった。
(しかし、後年知り得た距離は、何と約18,826㎞。)
・・・サンタ・フェでは資金の工面で、教皇からの援助金転用案やユダヤ人から助成する話も飛び出し、紆余曲折の末、
イサベル女王は、グラナダが陥落し財政に余裕ができたとの進言を受け、去って行ったコロンブスを呼び戻し、航海の援助を約束した。
コロンブスとは1492年4月17日、この地「サンタ・フェ」で航海の経費と発見後の取り分などの記載された契約が締結された。
船員の募集と船の準備に約10週間かかったとあります。
1492年8月3日
(ライフ人間世界史6より)
ポルトガルの河口から旗艦船サンタ・マリア号を中心に3隻の船で出航、
・・・アフリカ西岸から西の大洋に船を走らせ・・・目標の距離には到達した、
船乗り引き返せの合唱、そんな中、午前2時、島を発見・・・朝を待って10月12日未知の陸地に(島)に上陸、
インディアンの金の鼻飾りを見て、コロンブスはインド到着の証拠だと考え、
”私はジパングの島を発見できるかどうかやってみるつもりだ。”と日記に記したそうです。
15日後にキューバ島を発見、ジパングと思ったが・・・絹をまとった賢人も、純金の宮殿も見当たらない。
イサベル女王、フェルナンド王の信任状や贈り物は、・・・渡す相手が・・・見つからない。
上陸して3か月、サンタマリア号が浅瀬で座礁し、船の木材で島に砦を造り39人が駐屯することになる。
結局、・・・コロンブスは、見つからないのは・・・ジパングよりも遠くまで来てしまった。
ここは、シナ(現中国)だろうと考えることにした。
帰らなければ、・・・スペイン王に報告のため、コロンブスは東北東のルートで帰路につく。
(ライフ人間世界史6より)
途中嵐に遭遇し、・・・やっとのことで損傷した2隻が、3月4日にリスボンに到着する。
リスボン到着時に、(香料、金が豊富、住民はおとなしく簡単にキリスト教に改宗させられるなどと)
既に書き終えていた手紙をスペイン両王に送って、ポルトガルに留まった。
・・・ポルトガル王の接待を受け・・・1か月が過ぎた頃、今後の運命を決する報告に向かった。
スペイン両王の待つバルセロナの宮廷・・・歓迎を受けた
この画像も「スペインのTVドラマ」イサベラより
帰国報告は弁舌巧みだった・・・土産は現地の動物、住民、金銀パールの工芸品・装飾品、さらに布教の見通し
発見した大陸の先住民は、アフリカの人々と違う部族だった・・・黄金郷ジパングの発見は近しと思えた。
・・・黄金郷が発見できたら、キリスト教の布教・現地人を支配下にし、領有権を主張し、承認が必要となった。
領有権などを誰が承認するのか・・・これまで、ポルトガル王国だけがアフリカ沿岸の探検を続けていた
ローマ教皇が1481年、教書でアフリカ西岸のカナリヤ諸島以南の新領土はポルトガルに与えた。
スペイン王国も教皇に、大洋一帯の征服(布教の権利)と貿易の独占権を願い出た。
教皇はスペイン出身のボルジア卿が新教皇アレクサンデル6世として、1492年8月11日に就任していた。
1493年、教皇は1481年の決定を改め、西経38度以東はポルトガルに、38度以西はスペインと認めた。
(ライフ人間世界史6より)
スペインは、コロンブスに次ぎの航海を認め、1500人もの入植者や教会関係者なども送り出し、探検を続けた。
一方、ポルトガルは、教皇の承認した新規の境界線は認められないとスペインに抗議、
ポルトガルは境界線の重要性を認識しているので必死です。
両王国は隣国でライバルであったが、1490年カトリック両王の長女(約20歳)がポルトガル王子に嫁いでいる。
1494年6月、結局、スペインが譲歩し、西経46度37分まで境界線は移動することで決着した。
南アメリカ大陸の一部(ブラジル)がポルトガルの権利となった。これが後に大きな利益となる。
この地図は1502年作成とされています。(ライフ人間世界史6)
左上、キューバの先にフロリダ半島らしき描写が・・・フロリダ半島は1513年発見とされています。
ローマ教皇庁が承認しようがしまいが、我・・・関係無い、あるいは無視する連中がいても当然です。
後の海運国イギリスも当時は国力が小さく、ネーデルランドから後にオランダが独立するが重要性には気づいていなかった。
・・・毛織物生産で先進国となったフィレンツェの様な商業都市ネーデルランドでは、1477年1月ブルゴーニュ公が戦死。
その一人娘と結婚の約束をしていたのが、ハプスブルグ家のマクシミリアン公・・・一人娘からの援助要請で、急ぎ駆けつけ結婚
やがて、豊かなネーデルランドを足掛かりに国力が増大するが、1482年3月、妻の女王が事故死。
夫のマクシミリアン公は王位継承の資格がなく、嫡男フィリップが王となり、その摂政となる。
フランス王の扇動で公国内で反乱がおこり、12月に2歳の娘マルグリット(王女)を強引にフランス皇太子と婚約されられる。
ところが、天罰かフランス王ルイ1世、翌年1483年8月30日亡くなる。
嫁いだ先の皇太子はシャルル8世王として、13歳で即位(実際は、義兄ブルボン公夫妻の摂政下となる)
突然のこの絵は、1484年に13歳で描いた自画像 アルフレヒト・デューラーで北方ルネッサンスの画家
(マクシミリアン公は彼を援助している)
1486年2月、マクシミリアン公は神聖ローマ帝国の後継者(ローマ王)となり、戦費調達にネーデルランドに増税した。
・・・多くの市民・貴族の反対で内戦となり3か月も幽閉され・・・救出の帝国軍により5月に開放される。
1491年12月、フランス王シャルル8世(21歳)ブリュターニュに侵攻、ブリュターニュ公国王女(14歳)に結婚迫り、結婚した。
この王女とは前年1490年、マクシミリアン公が再婚相手として婚約していたのを・・・娘の夫に強引に横取りされた。
フランス王の二重結婚に、ローマ教皇は1492年2月結婚の追認とマクシミリアン公の王女の離婚を特赦した。
1492年10月、マクシミリアン公、何とかネーデルランドの内戦を終結させた。
1492年12月、マクシミリアン公、フランスに併合されていたブルゴーニュ伯(諸侯の領地)の奪還に侵攻した。
1493年3月、勝利し奪還に成功、フランスから1482年2歳で嫁がされ・・・離婚後も返さなかった娘も取り返した。
1493年8月、マクシミリアン公、父の死去で神聖ローマ皇帝に選出された。同年ミラノ公国スフォルツァ公女と再婚。
1500年当時の神聖ローマ帝国
ライフ人間世界史7より
デューラー作 1506年 ヴェネツィアにて描かれた祭壇画、教皇(ユリウス2世)、神聖ローマ皇帝マクシミリアン byウィキペディア
1512年 アルフレヒト・デューラーは、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの宮廷画家となる。
・・・当時ヨーロッパの人々は、ローマへ、ローマへと・・・巡礼者。このような格好の人々が多かったようです。
巡礼者 ライフ人間世界史5より
下図の説明も、ライフ人間世界史5より
ローマは石畳では無かった、朽ちかけた建物の間の砂利道を・・・巡礼者は宗教的な案内書を持ち
「市の7つの大教会を記した地図」を見ながら順路通り進むと、教会が恩寵(オンチョウ)を授けてくれた。
例えば、ある教会に入れば、48,000年間は、自分の犯した罪の罰が猶予された。
地図の城外の左上に、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)
次に城壁内に入り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)
その上、中央はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)などなど
そして、中央下・・・昔のサン・ピエトロ聖堂が道順の最後の場所にあたっていた。
・・・一ヵ所で48,000年、十分すぎると思うが・・・死後いつかは来ると信じて、最後の審判までの年数が欲しいのでしょうか?
ローマ市内は治安が乱れ、貴族のオルシーニ家、コロンナ家も、スペイン系の無法者も多いようです。
殺人・強盗は日常茶飯事、バチカンの城壁に罪人の死体が吊るされない日は無かったと言われる。
宗教界は、縁故主義で司教、枢機卿は登用され、高位聖職者のモラルは堕ち、金、女、派手な生活で財政は悪化。
1492年8月11日、就任したアレクサンデル6世は愛人の息子:チェーザレ・ボルジア(16歳)をバレンシアの大司教に就かせた。
16歳ですよ・・・周囲の抵抗を押し切って、・・・キリスト教会の教皇は、最高権力者です。
他にもボルジア家から枢機卿を5人就かせ、他に知人、友人と・・・派閥を広げなければ。
教皇は多分頭脳明晰、乱れた宗教界の改革は、・・・周囲の連中と同調しながらも・・・教皇庁を意のままにしなければ・・・。
そして、教皇には他にも子供がいて、堂々と政略結婚と武力で教皇領の再支配に動き出します。
1494年頃、新枢機卿12人を任命し、何と息子のチェーザレ(18歳)は大司教を足場に、このたび枢機卿に就いた。
さて、同じころ、フランス王国では、摂政から独り立ちした シャルル8世(24歳)が国力に酔っていたのか・・・
1494年1月25日、ナポリ王が死去し、自らのナポリ王位継承を主張、教皇はこれを認めず、ナポリは皇太子が継承した。
現在のナポリの都市は、若干治安に問題のある場所があったり、難民が多数押し寄せて大変なようですが、中世は大国です。
イタリア半島の南部大半を領土としていました。
教皇に拒否され、シャルル8世率いるフランス軍、傭兵含め約25000人、8月23日グルノーブル出発、
・・・アルプスを越え、イタリアへ
・・・ミラノ公国の摂政イル・モーロは、利害が一致しフランス軍に自国内の通行を許可、
ここミラノで、レオナルドは、「岩窟の聖母」を完成させ、
(仏、ルーブル美術館)
スフォルツァ家の初代ミラノ公のブロンズ製騎馬像の製作中だったが、準備した17トンのブロンズが
この後、戦争の危機で大砲の材料に流用されてしまう。
フランス軍はさらに南下し11月フィレンツエへ、・・・サヴォナローラが批判していたロレンツォ・メディチが2年前に突然亡くなっていた。
家督を継いだ長男ピエロがフランス軍との交渉に失敗、市民の隆起でメディチ兄弟フィレンツェから逃走、・・・臨時政府が通過を認めた。
フランスの大軍は通過する際、諸侯にナポリへの進軍を認めなければ交戦と宣言し、争いの無いままローマに向かう。
ローマも教皇も大軍相手の交戦をあきらめ、フランス軍12月31日ローマに入り、教皇が要求をのみ、1495年1月28日にナポリに向かう。
新ナポリ王は逃走し、1495年2月22日、シャルル8世はナポリに入城、ナポリ王を宣言し支配を始めた。
4月12日、教皇の呼びかけで、トルコからの防衛名目の神聖同盟(ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国)を結成。
フィレンツェは不参加(サボナローラの支配下)
5月20日 情勢の変化を察知し、ナポリからシャルル8世逃げる・・・海路を断念、陸路を激しい抵抗を受け、双方多大の被害を出しながら逃げ帰った。
・・・シャルル8世がフランスに逃げ帰った頃、隣国2か国で、フランスを敵国として2重の政略結婚が決定した。
1496年10月20日、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の王子ブルゴーニュ公フィリップ(18歳)に・・・スペイン・カトリック両王の次女フアナ(18歳)が嫁ぐ。
1497年4月3日、カトリック両王の王子フアン(19歳)にマクシミリアン1世の長女マルグリット(17歳)が嫁ぐ。
・・・運命とは、
1498年シャルル8世、事故死する(城内で誤って石に頭を打ち付け、28歳で亡くなる)
ルイ12世、1499年ミラノ公国は自分が継承したと侵攻して、またもイタリアが戦場になり、多くの有名人が逃げ出すことになります。
イヤー・・・この間だけで頭が混乱、・・・王家の継承を追いかけ・・・教皇と枢機卿は金の生る木で、勝者の歴史に深く関与しているようです。