気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

(涼を求めて)、続イタリア;ローマ ① 霧雨のヴァチカン

2019-07-21 | 旅行記

日曜日 F1、ドイツグランプリ、メルセデスの本拠地でレッドブル・HONDAの M.フェルスタッペン今季2度目の優勝

トロロッソ・HONDAの D.クビアトは2位と思われたが惜しくも3位入賞・・・、このレースもドラマチックなレースでした。

https://youtu.be/h0l4HJr-QHI

さて土曜日は、東京にも台風の余波が予想されましたが、予報では8時頃から雨でした。

・・・急きょ出かけることになり

風が強い、帽子を飛ばされないように・・・、

かつては、浅草付近のグランドでは自由にシートに横になれたのだが、

・・・予約制になった?、有料?、席は無い・・・、年々規制がうるさくなって自由な移動もできなくなってきた。

PM7時過ぎ、火の粉が降り注ぐ危険は全くない所で、シートで横になり隅田川花火鑑賞となりました。

南風の影響で煙が上流に流れ、スカイツリーも煙に包まれ、

ツリー上部は煙の中で、良く見えなくなった。

花火は最新式のネオンカラーがグラデーション調で変色したり、楽しい花火もありました。

海外からのツーリストも多く、花火と共にスカイツリーも人気が有るようです。

・・・8時10分、帰りの人混みで車が出せなくなりそう、・・・早めに車庫へと急ぎ・・・脱出、雨にも降られず、無事隅田川花火終了。

先週は梅雨明けせず、スッキリしない海の日、久しぶりに立ち寄ったら・・・水量が多いので思った以上に癒されました。

湯滝です。

展望台があり、お土産屋やなどもあります。駐車場は有料

こちらは滝の落ち口、立派な遊歩道が造られていますのでお勧めです。

そしてこちらが、湯ノ湖です。

ルアーフィッシングで人気の湖です。

この湖畔の右が道路、数台くらいの無料駐車場があり、この湖の向かい側が奥日光、湯元温泉

・・・下流の竜頭ノ滝から沢沿いの遊歩道を登ってくると・・・この湯元温泉まで結構良いハイキングコースです。

近くには男体山、奥白根山、・・・かつて鍛錬会で登った懐かしい場所でした。

・・・一方、こちらの並木は少し変わっています。

 日光の杉並木街道が自然に優しい日本文化なら・・・、ローマ街道と傘松・・・、

軍事車両の馬車がすれ違うことができる道幅約4mの石畳、道路断面は、礎石・砂利・敷石の多層構造、車道の中央部が高く路肩に排水される。

一直線に道路が敷かれ、坂道も急こう配を避け傾斜角は9度以下・・・橋やトンネルを多用し最短距離で都市を結ぶ、

これらの高速道路網は耐久製を考慮した自然を支配する設計施工、・・・何とざっと2000年前、日本では鉄のクワも無かったころです。

さらに、車道の両サイドに3mの歩道を設けるというる壮大な規模で・・・ローマ帝国内に造り続けた。

・・・しかし、すごいですね、技術と資材と労働力・・・そして統率力。

川や海、森からの恵みを必要最低限を頂いて、一日平安に過ごし、八百万の神に感謝する日本の人々の精神構造と大きく異なっている国に・・・またやってきました。

武力闘争で領土拡大、・・・あのローマ帝国の歴史は、拡大生産が管理の限度に近づいたのでしょう、奴隷も財産も食料も思うように増えなくなり・・・そして衰退と反乱、

為政者が領土民の統治に利用したキリスト教、・・・宗教を軽く考えたのか・・・多神教の容認を捨て、一神教をローマ帝国の国教にしてしまい・・・これが全土に浸透した。

・・・ローマ帝国の文化と、キリスト教以外は邪教とする宗教の布教・・・異国の出来事があまりに影響力が大きくて・・・、

他国に侵略して一神教を布教しなければ、自分たちの領土で勝手にすればいいのですが。

・・・現代では、ロケット砲搭載の無人機が他国の領空数千メートル上空を密かに飛来する、監視対象の地上の画像を盗撮し、

自国の安全な遠隔地で、無人機のライブ画面を見ながら、他国に空から一方的に武力行使が起こせる時代です。

現実に起こっていますが、宣戦布告も無く、密かな抹殺ですから、人権も国際法も霞んでしまいます・・・大変な時代になってしまいました。

・・・技術と軍需産業が進みすぎて、個人の力量では全体像が見えなくなってしまいました。

しかし、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも軍用品を開発していたのですが、早く争いの無い統一を願っていたのでしょう。

そんな時代の遺産を見たくて、・・・またローマをフラフラ歩くことになりました。

・・・下図は、周囲の城壁をみるとローマ帝国全盛の3~4世紀頃の様子でしょうか。

この絵は、コロッセオ内の展示資料を借用しています。

テヴェレ川が、下から右上に向かって流れ、中洲がある付近の両岸が湿地帯、この左上方に七つの丘があり

ロムルスがローマ建国をしたと言われるパラティーノの丘もあります。

テヴェレ川の上流から見て左岸に都市が集中しています。右岸は、レンガ工場でしょう。

城壁内には、オベリスクが沢山立ち並び、コロッセオが中央上部にそびえ立っています。

エジプトの公共事業、ピラミッドに影響されたのか、これだけの大きな建造物が描かれているという事は、

毎日どこかで石組みをする工事が行われていたのでしょうね。

争いが絶えない時代です、定期的なイベントでローマ市民の結束力を保つ必要があります。

農耕民族では収穫祭や村祭りでしょうが、ローマ帝国では戦勝記念のパレードや凱旋門建造、・・・捕獲した奴隷の格闘戦も組まれた事でしょう。

猛獣との格闘や、奴隷同士の格闘、血が流れる悲惨な光景を、心拍数を上げ興奮状態で見るのが・・・この人種の娯楽のようです。

ラテン系の国で行われる闘牛は簡易版でしょうか、入門編だった日本の闘犬(土佐犬)は・・・娯楽は昨今他に多くあるので衰退しました。

昔のローマ市内・・・城壁内の中央のやや下に、128年に再建されたパンテオンの神殿も見つけることができます。

2000年前、これが本当に建てられたのか? と思いたくなりますが、

その前から、ギリシアには多くの神殿がそびえ建っていたのですから、・・・この時点で既に何百年の技術の蓄積があるのです。

・・・ローマの都市をざっと振り返ると、・・・紀元前、王政時代にガリア人から侵略されています。

その後800年、19kmの城壁に囲まれたこの都市は外敵の攻撃は無かった。

約100万人が暮らしていたローマは、410年に西ゴート族に陥落させられ、市内では略奪が起きたと各種の歴史書に書かれています。

4万人の西ゴート軍にローマは包囲され食糧難から飢餓に苦しみ、その後三日間に渡って略奪されたそうです。

4万人から・・・想像ができないですが・・・無法地帯です・・・被害が少なかったのは教会関係の施設だけだったそうです。

・・・100万の老若男女・・・どうなったのか、・・・被害の少なかったキリスト教関連施設から、・・・少しづつ復興したようです。

時代が進み、キリスト教の聖職者達はやがて、ローマ教皇をトップに階級を設けます。

大司教は土地を寄進され領主の地位にあった。

同様に司教も教区という広い範囲を管理し多くの権限があった。

その下に司祭・助祭、最小単位の教会で管区内の人々を管理し、10分の一税を徴収できたとあります。

修道院長・修道士がその下で信者が最下層・・・。

階級ができ聖職者の生活が安定すれば、聖職売買、聖職者の腐敗、堕落、俗化もおこります。

ローマ教皇は8世頃から寄進により教皇領を持つようになったようですが、武力もなくてなぜ権力を持ったのでしょう。

・・・800年ヨーロッパ最大の勢力となったフランク王国のカール1世は、ローマのキリスト教を容認し、各地に教会・修道院・学校を建設させているようです。

そして、最大権力者のカール1世がローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)のミサに参列し、ペトロの墓前で頭を垂れた。

今日とは違い、建物は普通の教会程度だったでしょう。

この時、ローマ教皇レオ3世は、黄金の冠をカール国王の頭上に置いたそうです。

・・・カール1世は突然の行為を拒否せず、冠を受け入れたが、これが後に皇帝の戴冠式と呼ばれるようになったようです。

教皇が勝手に冠を授けたが、・・・これが神によって戴冠される儀式の始まりのようで、・・・授けるのは、ローマ教皇・・・

この演出は、フランス国王がローマ皇帝になりました、承認者の権限がローマ教皇にありますと宣言したように見えたでことでしょう。

カール1世は、戴冠の儀式と分かっていれば来なかっと伝えられているようですが、近年は知っていてローマ皇帝の冠を受けたとする説が有力のようです。

しかしカール1世は、神の代理人を自称する者(ローマ教皇)は武力も無く、自分より権力者であるとは・・・もちろん思ってもいないでしょう。

・・・802年、司教会議で「国家の首長は、聖俗両界の首長であり、司教の叙任権は国家の首長がもつ」と決議された。

叙任権は権力者のカール1世と思われていたのですが、・・・やがて時代が移り・・・ご承知の様に教皇は、皇帝を・・・破門すると宗教で脅したのでした。

・・・11世紀から13世紀、この時代がキリスト教の最盛期でしょうか

1092年 ピサ が司教座から大司教座に昇格しています。

1419年 フェレンツェ がピサに遅れること300年、大司教座になります。

・・・中世の雰囲気とは・・・あのローマのパンティオンの絵が、パンティオンと真実の口近くのレストランに飾ってありました。

社会が豊かになり、芸術家が育ってきました。

ローマの歴史、・・・中世の主役は、やはりローマ教皇でしょう。

ヴァチカン・ガイドを参照しながら調べてみたいと思います。

・・・1504年ダビデ像を完成させたミケランジェロは、ローマ教皇 ユリウス2世からローマに呼び戻され、教皇の霊廟を造れと命じられた。

(ウフィツィ美術館蔵、ラファエッロ作)

このユリウス2世(本名、ローヴェレ)の肖像画は見る機会が多いですが、この前任者がアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)。

(肖像画:ウィキペディア アレクサンデル6世)

この二人の教皇争い(1492年)で、ボルジアは枢機卿を買収し圧勝、敗れたローヴェレはフランス王の下へ逃亡。

・・・ギリシャ神話の時代かと思うようなアレクサンダル6世の教皇時代、教皇だって元は人間だ・・・と自由です。

教皇に子供がいた・・・認めましょう・人間だから、その息子、チェ-ザレ・ボルジアも教皇の武闘派として有名です。

このチェザーレ・ボルジアが教皇領を支配した地に、レオナルド・ダ・ヴィンチが赴き、軍事顧問となっている・・・そんな時代でした。

そして、フィレンツエでサボォナローラが、1498年5月23日絞首刑を受け、火刑になったのもこの教皇との対立がありました。

・・・今回は、システィナ礼拝堂です。

ユリウス2世は、ミケランジェロが自分の霊廟建設で巨大な大理石を運び入れ・・モーゼを彫りだすと壮大な構想を聞いていた。

並行して進む大聖堂の建築家であるブラマンテが、作業中のミケランジェロに霊廟には何体彫るのだ?・・・40体 との答え、

続けて・・・ダビデを彫るのに何年かかった?・・・4年 とミケランジェロ、私は作業は早いです

霊廟に40体・・・、だったら完成に160年もかかるだろう・・・と言うような問答があったそうな・・・。

・・・さて、いつになったら完成するのか?・・・教皇は自分の霊廟に関心が薄くなり

歴代の教皇が手を付けなかった殺風景な礼拝堂に対して、あの馬小屋は20数年前に改築しているが(建て替えないで)・・・、

(出典は、昔の雑誌と思ったが?)システーナ礼拝堂の昔の天井

ミケランジェロに礼拝堂に12使徒の天井画を描かせる・・・、と言い渡した。(ブラマンテの陰謀説は、省略)

これが1508年のこと、

(ヴァチカン市国、スイスの衛兵、制服はミケランジェロのデザイン)

・・・礼拝堂:長さ40.23m、幅13.41m、高さ20.70m、後陣(アプス)は無い。

教皇宮殿を防御する役目と礼拝堂の二つの役目を持つため外壁ががっしりして、

内部は地下室、中二階(執務室もある)、礼拝堂、上部に広い屋根階、外側に警備用回廊もある。

・・・ケランジェロは、自分は彫刻家であり、絵描きではないと断り・・・ローマから失踪するが・・・、

捜索され、結局引き受けるためローマへと・・・フィレンツェからフレスコ画が描ける弟子達を連れて戻った。

・・・教皇に詫びを入れ、礼拝堂に足場を組み、希望通りの12使徒を描き始めたが、・・・二人目描画中に、

モチベーションが上がらず・・・作品を一部消去し・・・またも失踪、

しかしまたも捜索され、再度教皇に侘びを入れ、・・・天地創造を描かせてと、下絵のプランを提出・・・、工期は半年から1年と答えた。

一人で完成させるからと、教皇に12使徒の5倍の10000ダカットを要求するが、3倍の6000ダカットでと命じられ・・・作業にかかる。

(ヴァチカン美術館のスライド紹介画像より)こんな足場で、上を向いて描いていた

半年経ったが、Ⅰ/10も出来ていない、報酬は払われず、

・・・教皇-ミケランジェロに「いつ終わる?」、返事は「完成したら」と、度々やりあった・・・有名な話です。

教皇は戦争に出かけることも多く、何かと戦費も必要になる時代に、もう一人のスーパースター、ラファエロが1508年から宮殿で描き始めました。

時代はルネッサンス末期です。

・・・この絵も同じレストランにありましたが、サンタンジェロ城の 祝 修復記念なのでしょうか。

今日のテヴェレ川とサンタンジェロ城です。

ローマは彫刻だらけ・・・この橋の上にも素敵な天使像があるのですが、ローマを創った男は別途

サンタンジェロ城からヴァチカン市国への・・・この大通りは、ミケランジェロの時代はどうだったのでしょう。

このような大通りはありませんし、馬車道と建物が立ち並んでいたようで、現在の広場も無かった。

ヴァチカン美術館の入口へ向かいましょう。

このような城壁に沿って入口があります。

城壁のアーチは従来の出入口、これが現在は個人の出口専用になっていて、この城壁の左に沿って進むと張り出した部分に

新しく回転扉の入口が造られた。多分2000年頃完成

室内で荷物検査と、改札が設けられている。

エスカレータで上階に進み

館内でいろんな案内がありますが、このジオラマで先程の城壁が手前になります。

この城壁から手前に進むと最寄りの地下鉄の駅ですので、駅から徒歩でこれます。

さて館内は、省略、反対側のの宮殿から、礼拝堂に階段を降りて入ります。

システーナ礼拝堂です。室内は撮影禁止・・・昔の映像から

階段からドアの先に・・・祭壇近くの所に出ます。

高所に大きな窓が12ヵ所ありますので、明るいです。

多分私語禁止だったでしょうか(小さい声で)

窓から上部がミケランジェロ、彩色が結構鮮やか、右側が本来の出入口

そして、天井画は旧約聖書が題材

奥の祭壇画は、後年ミケランジェロが描かされたものです。最後の審判

天地創造、主役はこの部分でしょうか

ミケランジェロは、ローマを救った、・・・これから60代、70台になっても頼られることになります。

 

 

 

 

 

 

 

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イタリア チヴィタ(CIVITA)別名「死にゆく町」

2019-07-07 | 旅行記

これは修道院?・・・標高は高くはないが、確かに・・・天空の要塞かと思える・・・消滅寸前の町の様相です。

さてここは、

フィレンツェとローマの中間、いやローマ寄りの・・・標高はそんなに高くない420mくらいの高台の町

フィレンツェから南に160kmくらい走ります

途中、車窓から天空に虹が架かり何か良いことの兆候でしょうか・・・、

しばらく南下・・・やがて、オルヴィエート(ORVIETO)で降り、西側の小高い街に向かう

丘を登り、バニョレジョ(Bagnoregio)の駐車場に到着

駐車場横の・・・お土産屋さんが、迎えてくれた

ミニバスに乗り代えて、この上に広がるバニョレジョの街外れまで・・・5分位走ると、

道路沿いに長い塀と並木道が続いています。

・・・やがて大きな看板が現れた・・・街外れでしょう・・・目的地近し

 

Civita (チヴィタ)の大きな写真です。

この画像は、ミニバス後部の窓からの光景です。(向こうから・・・こちらに走ってきました)

公園内の駐車場?に到着したかな・・・減速して、右に曲がり・・・到着の雰囲気。

到着です。下車して、

上空からの写真を正面から見てみましょう。20~30棟の大きな建物があるようです。

振り返り、左前方に進むと・・・この高台の端から

・・・はるか彼方に・・・地平線にそびえ立つ孤島が見えました。

周囲をカットし、ズームイン

何故か、危ない雰囲気・・・

崖の断層が露出しているのを見る限り、岩山では無いし、隆起でもなさそう、

脆い地質で周囲が崩落し、孤島になった雰囲気です。

丘状の高台にあった城壁に囲まれた街が・・・やがて尾根状になり更に土砂が流れ、・・・歯止めが利かないのでしょうか。

建物は中世の時代でしょう、相当古そうで、地盤強化の杭などは打ち込んでいないでしょう。

・・・ここで、後日調べた地形図を見てみましょう。

・・・中央よりやや下側の左端に最初に降りた、バニョレージョ駐車場です。

左側の画面外に大きい湖がありますが、高速道路は画面の右側(画面の外)を南北に走っていますので

右側から画面の中央を左に横切り左端のバニョレージョにやってきました。

こから背骨状に見える街並みを右側に2/5くらい進むと市街地の端、公園内の駐車場です。

展望台があり、それから広場の手前側の崖を下り、右に進むと、そこから先は入場料が必要になります。

その先・・・橋が良く見えませんが尾根を右に進むと・・・チヴィタの文字が読める所が目的地です。

・・・では先に進みます。

このような崖の上から、下の車道まで下ってきました。展望台から降りるには近道です。

舗装された坂道を下っていくと(振り返った画像です、奥から来ました)

お地蔵様のような祭壇が・・・どんな悲しいことがあったのでしょう・・・地震かな? 花束が供えられていました。 

ここは行き止まりの広場、周囲を見ると反対側に・・・入場料を売っている小屋があります。

入場料は,イタリアは赤字国でインフレでしょうか、・・・結構高くなってきたようです。

 

 多分、2013年頃から入場料を徴収し、1.5€・・・値上げで、現在は、5€/人、

・・・ここで改札、係員のチェックを受けます。

 目の前には、・・・長い橋があります。

橋を再確認しましょう。先程の高台、展望台からの画像です。

画像の右側の下が入場券売り場、その先から全長300mの・・・結構高い高架橋を進んで行くことになります。

少し登り傾斜の橋を進む、結構高いが、・・・下を覗いてみましょう。

・・・気になったのが横の手摺、年季が入っています。

遠目からは、最近造られたのかと思っていたが、錆を落として塗り替えないと、ボロボロにすぐなりそうで危険です。

 

調べてみると、・・・橋は1965年に建てられたと地元の記事にあったと思いましたが、

橋が無ければ生活できない状態が・・・50年以上も昔から続いているのが・・・不思議です。

橋の反対側の下を覗くと・・・この太く黒いゴムパイプは何でしょう

ガス、石油、電気・通信ケーブル、それとも水道でしょうか。

・・・イタリア各地に、崖の上のような高台に小さな町ができていて、ケーブルカーで行き来する所が沢山あります。

このチヴィタは地震に何度も襲われ、周囲の崖から徐々に崩落し、住民は減少し続け、現在は数世帯しか住んでいないようです。

・・・橋が使用できなくなったら、崩落や倒壊の危険があるので観光地としても安全優先、永久保存は難しいでしょう。

橋を渡り終え、右に急な坂道を登ると曲がり角に、豪華な門扉

避暑地でもないでしょうが、豪邸?

・・・日本の山道とは違いますね、石が豊富なイタリアは、ここでも石畳みの道です。

左にカーブし更に登ると 

 城壁?の門、これは、サンタ・マリア門

昔は5つの門があったようですが、この反対側や周囲も現在は利用されていないでしょう。

城壁の左側に売店があります。

その先に進むと、・・・オッ!、ライティングされて・・・モダンな壁面、観光地でした。

・・・「死にゆく町」と紹介されて・・・今のうちに見に行こう・・・、物珍しさとこの光景に・・・訪れる人々が増え、

しかし、この町に金が落ちるわけでもなく、・・・覗かれるだけでは、生活も大変です。

・・・入場料を取りたくなります。

これでまたニュースになり、旅行会社もツアーを企画し、観光客が押し寄せ・・・

宿泊施設を整備して、レストランと土産物を用意して、

人手が足りない・・・バニョレージョの町から通勤して頂こう、・・・取り合えず・・・よかったですね。

・・・年間来村客は数十万人に近くなってきたようです。

メイン通りの左手に美術館、食事や売店もあります。

広場になっていて、・・・手前側には、カラフルな線香が、アロマでしょう

台上には、アクア、基礎化粧品のようなボトルが並んでいました。

綺麗な湧き水、山野草、ハーブ、農園、修道女、・・・そんなイメージ?

に近いような・・・商品を販売していました。

さて、ここでも町一番の大きな建物が中心にドーンと建っています。

(日曜日に、皆でブラブラと街外れの教会に行くのもありでしょうが、・・・競って一等地に豪華な教会を建てたいのでしょうね)

サン・ドナート教会と鐘楼です。左は宿泊ができる建物です。

中に入ってみましょう。

建築当時住民は結構多かったのでしょう、思ったより広く、椅子も多く並んでいました。

正面の祭壇も立派ですが、右側に気になる彫刻が黒装束の・・・

下の案内文を撮影してなくて、詳細は不明ですが。

聖母マリア?、聖ドナート?、ドナテッロ風の作品?

そして、この奥にも・・・主祭壇の右側、礼拝堂でしょうか

リアルな磔刑、その下にライトアップされているのが、聖ドナート?

これらの彫刻は、ルネッサンス以降、バロック時代頃の作品でしょうか。

横たわっているのが、ライティングで・・・見えるようで良く見えない、・・・近くに行けないのが残念です。

さらに右側に、聖母子像があり、ここでは優しい光を投げかけていました。

その右横に、赤い文字からすると・・・ 何かを訴えています

教会、鐘楼、2016年10月30日のイタリア中部地震で深刻な被害を受けました、・・・義援金募集

そうでした、まだ記憶に残っていますイタリア中部地震・・・TVで地震の被災地映像が流れました。

 イタリアも日本と同じく活火山が多く地震大国です。

調べてみると、このチヴィタは、何度も地震の被害を受けているようです。

1695年の大地震は、ローマ教皇らの教会復興で再建されるも、1764年の地震では周囲の道が崩落したようです。

想像では、高台の街並みは周辺部が崩落し、町は相当狭くなるしバニョレージョに行き来するのも難しい、物流も滞り、・・・

この時期あたりから・・・住民が町を捨て始めたようです。

・・・元々この地の祖先は、エトルリア人と聞いてビックリ・・・

古代より優秀な技術屋のイメージがあるエトルリア人が興した町?

エトルリア人の起源について良く分かってないようですが、イタリア半島では先住民とのことです。

ギリシア文明が先にありました、南部のシチリア島やナポリにギリシア人が移ってきますが、当時現在のローマなどに都市は無く、

中部以北にエトルリア人が住んでいて・・・歴史の教科書はそうでした。

何故かエトルリア人は、鉄鉱石などから精錬法も考え出し、鉄器の製造技術が・・・あったといいます。いつ頃?

ローマ建国の神話(紀元前753年)の頃には、・・・信じられないが、完成していた、・・・銅や銀、錫も精錬できて加工する技術も身に付けていた。

山岳地帯に住むのは、鉱山に関心があり、地震が多発しても断層などから各種の鉱物を発見できたからでしょうか。

後のローマ帝国では、橋やトンネルなどの技術がエトルリア人から受け継がれ、優秀な土建集団がヨーロッパ全土に広めることになります。。

古代エトルリアは12の都市国家があり、紀元前6世紀頃まで繁栄したようです。

・・・ローマ建国の神話では、テヴェレ川の上流に、エトルリア人は都市を築いていたとあります。

ではこの地、チヴィタでは橋の先・・・丘の向こう東に10kmくらい、標高70~80mの低地にテヴェレ川が流れています。

テヴェレ川は、その先北東に水源があり、ペルージャのアペニン山脈から流れ出て、河口まで405㎞の大河です。

この付近から北にエトルリア人は住んでいたのでしょう。

このテヴェレ川を下流に下れば、・・・ローマです。

建国したローマは、ロムルスが初代ローマ王(父母は、・・・神話ですので略)、2代はサビーニ族、3代目はラテン系王、4代目サビーニ族、

5代目がギリシャ人とエトルリア人のハーフ、6代目:エトルリア人

この6代目の王の頃からローマは発展するが、エトルリアはイタリア北部で衰退し、やがて5代目の王の一人息子が6代目の王殺しで・・・

未承認の7代目王に・・・エトルリア人の王です。

・・・紀元前509年頃、ローマはエトルリア人の7代目王一族を追放し共和制になります。

244年間、ローマ建国からの王政時代は、エトルリア人は活躍していましたが・・・末路は残念、

・・・その後、共和制の弱小ローマ国にエトルリア国が攻め込んでいますが、攻略できず

・・・必死に守るローマ国、・・・何度となく戦い、やがてエトルリアは衰退、敗戦、

紀元前264年ローマ軍にほぼ征服されてしまったようです。 

これらの建物の石は、柔らかそうです。日本の大谷石と同じ種類なのでしょう。

紀元前のエトルリア人の痕跡は感じられないですが、

ローマ帝国末期からのカトリック教の影響は今日まで続いています。

地震が無ければ平和な町です。

この橋を戻ります、丘の向こうがテヴェレ川です。

地元の記事に、こんな画像がありました。

 そして、ミニバスで終点の駐車場へ

こんな雲海に浮かぶ画像が流れていました。

地震の災害に遭われないことを、お祈り申し上げます。

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夏越之大祓、その夜・・・F-1、オーストリア・・・祝 HONDA

2019-07-06 | 日記・エッセイ・コラム

母の分 も一つくぐる 茅の輪かな  小林一茶

湯島天満宮の「夏越大祓」ナゴシオオハラエ のご案内に歌われていました。

・・・茅の輪・・・

・・・6月と12月の晦日に行われているようです。

梅雨の時期、神社の境内に突然大きな草の輪が出現して・・・隣に立て看板が・・・

大きな8の字が描かれ・・・このように通るのかと・・・最初に目にしたのは、・・・何歳だったかは忘れてしまったが、

今年は6月30日、日曜日、知人と天神様に車で出かけた。

あいにく夕方4時頃から霧雨、境内にはすでに多くの参列者が来られていて、準備も整っている様子です。

さて、頂いた形代という、身代わりに

「氏名・年齢」を書き、家族の分と、車やバイクの車両番号を記入して提出して、袋に入った切麻というお清めを頂く。

これで後程、自らに「左・右・左」と振り掛け身を清める。

・・・祭典は17時斎行、屋外で神主からお祓い受け、・・・大祓詞、その後、切麻で身を清め、最期に「茅の輪」をくぐる。

という次第ですが・・・。

外の様子は霧雨から・・・小雨になった様子、結局あまりないことらしいが、今回は屋外の祭典を中止し拝殿にて行うことになりました。

・・・形代はお祓いをし、焼納の後に7月2日東京湾にお流ししますとのこと。

その後、送られてきたのが夏越大祓御神札、

そして、

神代の昔、須佐之男命(スサノオノミコト)は、蘇民将来(ソミンショウライ)に一夜の宿を借り、厚いもてなしを受けたお礼に、

茅(カヤ)で作った「輪」をお授けになりました。

「茅の輪」には疫病を祓い除ける力があり、そのお陰で蘇民将来の家族は末永く栄えることができました。

以来、疫病が流行ると、人々は「蘇民将来の子孫なり」と口々に唱え、「茅の輪」を身につけるようになった、と言われます。

疫病の流行しやすい夏を前にした6月(夏越)の大祓には、心身の罪穢れを祓い清め、病魔に負けないお力を頂けるよう

「茅の輪」をくぐる神事が広く行われるようになりました。

・・・とありました。

茅の輪と共に・・・平安の時代の人形流し、が今日に伝わっているのでした。

さて、その夜、6月30日夜10時(日本時間)、オーストリア南部のレッドブルリンクでF1、第9戦オーストリアGPの決勝がスタート。

・・・かつてはフジTVで放映され、HONDA連戦連勝の時代があったのは、・・・バブルの時代。

あまり期待はできないが・・・PCの電源を入れ、YouTubeのLIVE放送を選局する。

ここまで8戦全てメルセデス勢の連勝、フェラーリが今回は勝てるかと言われながらも・・・失速、レッドブル・HONDAは3番手だった。

ご承知の方も多いかと思いますが、HONDAのエンジン・・・馬力がもう少し欲しい。(複雑になり過ぎて、パワーユニットと呼ばれる)

タイヤの劣化対策がメルセデス以外は苦労の連続で、レッドブルは車体の空力コントロールにも苦しみ、三位が最高だった。

今回はレッドブルの地元で開催、リスクを取ろう、パワーユニットの耐久性が落ちても勝負しよう・・・信頼性よりパワーに重点を置いた調整をするようでした。

決勝のグリッド(スタート位置)は今季ベストの2位、ドライバーのテクニックでひょっとしたら・・・と淡い期待が

フェラーリのルクレールがスタートグリッド、外側一番前の1番、

レッドブル・ホンダのMax.Vorstappen、マックス・フェルスタッペンが右側(内側)の少し下がったNo.2グリッド

いずれにしても最前列スタート、(画像は、参考まで 鈴鹿サーキット)

スタート・・・PCのライブはサーキットのコース上をリアルタイムで車体の識別マークが動くだけ・・・。

実写画像は中継されていないので、音声だけ・・・イマジネーションが要求される。

スタート・・・数秒後、レッドブル・ホンダ・・・フェルスタッペンまさかのスタート失敗、後続に両サイドから抜かれ

第一コーナー先では、7位、隣りは同僚のレッドブル・ホンダのフランス人ドライバー、ガスリー・・・。

しょうがない10分後、確認するとリタイアせず頑張っていた。

じゃあ、応援するか・・・、ライバルのメルセデスが21周でタイヤ交換、1位のフェラーリも続いてタイヤ交換、

フェルスタッペンは、31周まで最初のタイヤを使い続け、ここでハードタイプに交換、

後半の追い上げを期待していたら、オイオイ・・・調子が良さそう、前に追いつくとアット言う間に追い抜いているようで、

最近こんなレースはなかった。

予選の順位のまま、接触をしないように行儀よく全車ゴールイン、コースが狭く抜きにくいとはいえ、モナコも全て面白くなかった。

56周目にボッタス(メルセデス)を抜いて、2位に上がってからは、HONDAエンジン・イレブン、ポジション5と音声が流れ、

これはハイパワーモードで最後まで行ける、攻めろと・・・怒涛の追い上げ。

信じられない光景があった、1周ごとにトップのフェラーリにみるみる迫り・・・大興奮・・・69周目コーナで内側から並びそのまま並走、

フェラーリも抜かせるわけにはいかない、ここまで2時間トップだった、ドライバーのルクレールも勝てば初優勝。

抜かせるかとコーナーの外に押し出されそう・・・ここで接触しコース外に飛び出し・・・元に戻るが、抜かれてしまった。

接触が、審議対象のランプが点滅・・・良くある5秒ペナルティ加算されれば、優勝は無い・・・進行役、大丈夫でしょう。

・・・レッドブル・HONDA マックス・フェルスタッペン 21歳 カート時代からのライバルで同じ21歳のルクレールに負けるわけにはいかなかった。

残りの周回で、2位ルクレールに2分75秒もの差をつけて、1位でチェッカーフラッグを受けた。

地元ファンやフェルスタッペンのオランダ応援団は大興奮、気になるのが審議結果

この前のフランスGP,とカナダGPは共にペナルティで、チェッカーフラッグ後、順位が変更になってしまった。

レース中にペナルティが実施されれば、チェッカーフラッグの重みが増すのだが・・・

長い審議の結果・・・約3時間後に、今回はレーシングアクシデントとして、ペナルティは無かった。

決定に不満はあるが、2位のフェラーリも審議結果を受け入れた。

・・・その後、動画を何度も見たが、結果が分かって安心して見れるのは、心地良いものです。

7/6土曜、HONDAの車で、青山へ

国道246、青山通り、交差点の角にHONDA本社のビル

赤坂から神宮外苑に向かう途中、青山1丁目の交差点の先、左側

駐車場は・・・大丈夫かな・・・入れて頂く、裏側から地下へ

そして、1階の Hondaウエルカムプラザ青山に

エレベータ横、裏側の入口には、HondaJet Ellte でしょう、

このクラスで世界一の販売数の航空機です。

そして右側に

家族連れが多く見られた。

左側の壁際に

大きな文字が・・・そうだったでしょう。

・・・F-1、ヨーロッパの長い伝統があり、彼らの土俵で戦うのですから、

良くは解らないですが、レースビジネスに世界の大富豪が乗りだし、新規開催国が次々に名乗りを上げる。

・・・来年は、車の国内生産を始めたヴェトナムでも開催される。

この車体は、昨年のレッドブルのマシン『RB14』に今季のカラーリングを施した・・・とあったように思います。

とすると、今回優勝した車体は、この前方Red Bull とあるフロントウイングの翼端板や角度が微妙に変わっていると思います。

エンジンは、RA619H

このピレリタイヤは、・・・苦労が尽きないようです。

壁際の台上には、突然優勝の表彰台に上げられたHONDAテクニカルディレクター田辺さんの祝杯シャンペンのようです。

祝 HONDA の皆様 これで気楽にパワーアップして、常勝HONDAを再現して頂きたいものです

隣では、バイクやスーパーカーが展示され

壇上では、有名なASIMO(アシモ)が

ここは、HONDAの本社であり1階はショールーム、

屋外にも展示車があり、先般は大型ボートが展示されたりしますが、・・・

このスペース、もう少し祭事が目立つように演出されては、いかがでしょうか

アーケード状、あるいはカラフルなパラソルは、・・・美観、環境に配慮?

正面入り口の先に、ありました

地球環境にやさしく・・・、製品に含有する化学物質を調査し、生態系や地球温暖化に悪影響のある物質を規制するのが流れです。

独創的な製品を常に目指す HONDA、高齢化社会が、話題の各種製品の早急な市場投下を待っています。

・・・F1 勝利・・・長かったですね・・・。

 祝 HONDA !

 

 

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