トスカーナ州と言えば、ワイン、・・・キャンティ(Chianti)地区の名産品です。
伝統的な地域で生産されるキャンティ・クラシコもありますが、イタリア産では北部のピエモント州のワインも人気です。
廉価なワインは関税が有利なチリ産が販売を伸ばしましたが・・・今春からEUのワインも関税ゼロに、チリ産程廉価なタイプは少ないでしょうが、
・・・イタリアのワインは、生産量は世界一、イタリアでは、ワインは水より安いと言われます。
食事にワイン、ワインの席ではカンツォーネ、
突然歌手が登場し・・・こんな光景後、テーブルを回ってチップを頂く、長い伝統文化のようです。
さて、フィレンツエは、ミラノ、ヴェネツィアと争いながら、海路を支配したい、金融の街シエナも吸収したいと近隣ともゴタゴタが続いたルネッサンス時代でした。
グーグルの画像を拝借し、ピサとシエナの位置関係を確認し、・・・昔のピサとシエナの画像を探して・・・
フィレンツェからアルノ川に沿って下流、西の海に向かいます。
モノレールでは無く、ローマ帝国時代の水道橋が朝日に浮かび上がってきました。
わずかな傾斜を作り高低差を利用する、測量技術と土木工事の優秀さが有名ですが、
水源を探し、都市の人口を推定し、公共事業として長期計画を立てる・・・2000年も昔、このような壮大な発想に感心します。
車窓からアペニン山脈が見えてきました。雪が残っています。
情報では・・・標高1388mのアベトーネ(abetone)にスキー場があるようです。
フィレンツェから90km弱、中部イタリアの人々はバスが運行されるので冬はスキー、夏は避暑地で賑わうようです。
麓のルッカの街は標高19m、フィレンツェでも50m、これから行くピサは5m。
山があると季節が感じられていいですね。
・・・出発から1時間くらいでしょうか・・・高速道路を降りて海側から回り込んで、公共の駐車場へ。
そこから歩き、・・・オッ 売店が続いていた
このピサの隣の隣町 山麓にピノッキオの作者の縁でピノッキオ公園があるようです。
童話:嘘をつくと鼻が伸びる人形・・・その人形が、このピサでも多くの売店に置いてあります。
左の城壁の中が目的地
ゲートから内部に入ると・・・芝生が目に飛び込んできた。
ここは公園か?・・・綺麗な芝生に、整然と建物が配置された・・・ドゥオーモ広場のようです。
手前の洗礼堂、そして、ドゥオーモのファサードが見えて、・・・斜塔を探す・・・正面の奥に写真で見た建物が・・・あった。
鐘楼が、顔を出している。
こちら側が西側、太陽が東南から降り注いでいる。
一番奥の鐘楼は、建設途中で南に傾き、傾いたままその上部に石材を積み上げたら更に少し傾いた・・・そんな感じが出ています。
良く見ると、2階を積み上げる際に少し傾きが始まったようにも見えます。
斜塔の地面は、全てコンクリートで固められ、灰色の世界かと思っていたが、綺麗な広場だった。
さて敷地の東側に進み、振り返って鐘楼を・・・押し戻さなければ
支えるだけ?・・・そんな行為が流行りました。
右側の芝生の先の建物で斜塔の入場チケット購入、時間制限あり、・・・荷物を預ける所があり、そこに預けて鐘楼に登ります。
登り始めると・・・オット、南側(外側)に身体が持っていかれるので・・・階段の端を登ろう
半分周ると
徐々に・・・内側の壁に身体が寄って行く・・・結構身体が振られて、垂直に立てないので
気持ちが悪くなってくる記憶がよみがえってきた。
そして狭くなる階段を登って行くと展望台に出ます。
ここで眺望を楽しんでいると、更に上段に早く上がるように、女性係員にせかされ、事情が分からず・・・とにかく上に。
そして、最上階に上ると、リング状の展望通路が待っていました。
時間枠で入場者を入れ替えるので、一旦全員を最上部に挙げて、狭い階段を下り専用にして、順番に下ろす。
そんな交通整理をしている女性係員だったようです。
さて、展望台を一周したが、海が見えない。
かつては海洋王国だったはず、ジェノヴァ、アマルフィ、ヴェネツィア、そしてピサ、
海岸線は、西側・・・この方向・・・しかし直ぐ先から緑の森林地帯・・・湿地帯の先には・・・砂浜のようです。
その先が・・・海、・・・海岸線から相当離れているようです。
もう少し左側に向きましょう。
・・・左側をアルノ川が流れていて、下流が海・・・左前方が河口のようです。
ピサは、アルノ川の河口から少し上流に上った所に、街が発展していたのでした。
・・・以前の画像あれこれ・・・ピサの斜塔がこちら
さて、中世の時代に繁栄を迎えたピサには、ローマ建国のモニュメントがありました。
ドゥオーモ広場の芝生の上で、このように台座の上で目立っていました。
ロムルスとレムスの神話・・・「オオカミと双子」川に流され(捨てられ)た乳飲み子が、オオカミに育てられ・・・ローマを建国した双子です。
神話は別の機会として、このピサのドゥオーモ、そして斜塔にも、地元の名士 ガリレオ・ガリレイの有名な話が残っています。
落体の法則
身廊に並ばれた汗だくの信者達・・・遠路ご苦労様と頭上を振り子のように芳香剤の香炉が行き来する光景がありました。
振り子の等時性
1564年 ガリレオ・ガリレイが、ここ ピサ で生を受けています。
ガリレオは母校ピサ大学で3年間数学を教え、その後ヴェツィア領のパドヴァ大学(1222創立 ボローニャ大学に次いでイタリアで古い)で
数学教授の職を、ジョルダーノ・ブルーノという元ドミニコ会の優秀な修道士と争います。
1592年、28歳のガリレオが教授の職に就き、28歳でナポリを捨て各地を放浪していたジョルダーノが敗れた、44歳になっていた。
この年、コロンブス新大陸発見・・・そして8年後の1600年、日本では関ケ原の戦い、
・・・残念なことにローマでは、ドミニコ会の修道士が異端の罪で火刑にされています。
あのジョルダーノはガリレオに教授職で敗北し、間もなくヴェネツィアで官憲に訴えられ逮捕されてしまいます。
28歳で故郷のナポリを離れた理由が、・・・優秀な頭脳が貪欲に知識を吸収し・・・宇宙は無限と考え地動説を支持したから・・・異端の疑いを掛けられたのでした。
そして、・・・1593年、ローマの異端審問所に送られます。
地動説の本家コペルニクスも異端を指摘されたのでしょうか、そして異端審問で火刑にされたのでしょうか?
・・・1543年70歳で亡くなっているが異端審問どころか地動説をローマ教皇に説明したり、トラブルはなかったようで、逆にルターが反対したとか。
異端審問?とは、・・・聖書で何と書かれているのか、忖度しているのか?、教会の権威に何が傷付くのか?
・・・ユダヤ教の聖書はここから「初めに、神は天地を創造された」・・・この偉大なる言葉が全てなのでしょう。
コペルニクスは異端とされていない、・・・ジョルダーノは、ローマ教皇に自説の一部を撤回すればOKと思っていたようですが、拒絶されたそうです。
異端審問が開かれ、繰り返し全面撤回せよとの要求を拒絶し、四大河の噴水があるナボーナ広場のすぐ南、今日でも人気の カンポ・デ・フィオーリ広場で処刑されてしまいました。
・・・1979年、カトリック教会は「処刑判断は不当であった」と判決を取り消しました。
現在では、広場中央に彼の銅像が立っています。
ガリレオ:数学が得意で、実験をしデータを取る、検証・証明、力学の法則の発見、望遠鏡で天体を観測、「星界の報告」の発表・・・科学者です。
ローマカトリック教の信者、ガリレオは有名になり、出る杭は打たれた・・・「信じる者は救われる」一辺倒の人々達からでしょうか?・・・異端と訴えられ
1616年 最初の宗教裁判 コペルニクスの「天球の回転について」などが暫定閲覧中止、ガリレオに罰は無かったようですが、注意を周囲から促される。
1632年、ガリレオ「天文対話」発表、細心の気配りで天動説と地動説の対話スタイルとしたが・・・、
1633年、第2回異端審問所審査(宗教裁判)で異端の有罪判決、「天文対話」禁書となる。
火刑ではなく・・・70歳近いガリレオは、終身禁固刑から、地元のトスカーナ公国のローマ大使館での軟禁刑に減刑される。
判決を聞いてつぶやいたとされた「それでも地球は動く」は・・・彼にふさわしい言葉として、周辺から生まれたのでしょう。
1638年「新科学対話」を自国では、発行できずオランダで発行する。
1642年 78歳、永眠する。(1737年 教皇の許可が出て、フィレンツェ サンタ・クローチェ教会にやっと埋葬された)
・・・羊飼いの力は・・・想像以上です・・・いつも驚くことになります。
1992年、ガリレオ裁判の誤りをローマ教皇表明する。
ピサのドゥオーモ、フィレンツェでも見られた様式です。
ロマネスク建築、修道院から始まった、・・・当初は大きな建物は壁を厚くするしかなかった。窓は少ない。
天井は橋のアーチの実績がありますから半円形で上部の重量を受ける、室内は暗いので高所に採光窓を、
偶像崇拝は、十字軍から帰って・・・現地にはイエス・キリストの墓があった。人間だった。
具体的に崇拝する対象が見つかり、・・・アットいうまに威厳のある偶像が出現、この教会はファサードの最上部センターの位置です。
12世紀にはこのようなピサ様式と呼ばれるデザインがトスカーナを中心に広まったといわれます。
ではトスカーナのもう一つの古都、シエナに向かいます。
・・・・・
今年のカレンダーに・・・シエナがありました。
フィレンツェのヴェッキオ宮(かつてはフィレンツェ共和国の政庁)と雰囲気が似ています。
こちらは、プッブリコ宮(市庁舎)です。
13世紀から14世紀前半の建物ですから、ピサのロマネスク建築から約1世紀、技術も進みゴシック様式と呼ばれます。
シエナも、以前作成したこのような画像がありました。
旧市街の北西の駐車場から城壁を回り込み、左手はスタジアム、右手は崖・・・そんなミッレ通りから右前方の眺めです。
手前はサン・ドメニコ教会、ずっと奥にもクーポラと鐘楼が見えます、シエナ大聖堂でしょう。
この旧市街は3つの丘に囲まれた地形を利用しているようです・・・高台にはランドマーク・・・教会ですね。
200mも進むと右手に先ほど見えた縦長の大きな窓の教会がありました、すっきりしたデザインです。
この教会は、デザインがシンプルだが・・・入り口ファサードは?・・・この横から入るようです。
ということは、サン・ドミニコ会の修道院として、主に修道士達が使われていたのでしょうか。
・・・聖 カテリーナの礼拝堂があり、聖遺物として聖女カテリーナの頭部が納められていました。
1380年に亡くなったカテリーナは、1939年からイタリア全土の守護聖人として崇拝されているようです。
内部は窓が大きいので結構明るく、過剰な装飾もなく、安らぎの感じられる教会でした
この教会の前広場がサン・ドメニコ広場、鉄道のシエナ駅は遠いので、バスでこの広場で降り、ここから観光をスタートする方が多いようです。
さて、左側に進み坂道のサピエンツァ通りを下っていくと、賑やかなバンキ・ディ・ソプラ通りに突き当たります。
通路の向こうの広場が・・・建築様式を説明するのに便利な建物に3方向を囲まれた、サリンベーニ広場です。
広場奥で日向ぼっこの若者が座っている、正面の建物がサリンベーニ宮(14世紀のゴシック建築)
左側の日が当たっているのがタントッチ宮(16世紀)、一方右がスパンノッキ宮(15世紀後半)この壁面上部に有名人の頭部が並んでいる。
中央の銅像は、会計学者サルスティオ、正面の建物内部も素晴らしいようですが、当時は未公開でした。
・・・この広場を裏側に回り、先に見えるの丘の上に、修道院でドメニコのライバル、サン・フランチェスコ教会があります。
さて、メインストリートのバンキ・ディ・ソプラ通りを・・・中心部の南に進むと100mほどで左に
ここにも教会が、ガイドブックでは、サン・クリストフォーロ教会、12世紀頃建てられたとあります。
ギリシャ彫刻の流れでしょうか、両サイドの壁がん(ニッチ)に素敵な彫刻がありました。
12~13世紀には、これほどの彫刻作品は無いでしょう。
この教会は、ロマネスク様式ですが・・・何度も改造され・・・最終的に完成したのが1711年、
しかし、1798年に大地震が襲いファサード崩壊しています。
再建は、時代が変わりバロック・ロココの次・・・新古典主義と呼ばれる様式が流行っていました。
・・古きギリシャなど古典を見直す動きです。
作者は、Giuseppe Silini 1802年のようですが、詳細は・・・残念ながら、不明です。
BEATA NERA TOLOMEI 彼女も聖人と思われます。
この教会は修道女たちの修道院でしょうか。
一方、どくろと本を持つ聖人は、法律を学んだ SAN BERNARDO TOLOMEI
シエナ生まれの聖人です 聖ベルナルド・トロメイ ペストで1348年亡。
街の中心部に急ぎます、
ビルの間から、・・・見えてきます。こんな光景が
緩やかな下り坂になっています。
ここが有名なカンポ広場、
プブリコ宮殿、マンジャの塔、ガイアの噴水・・・略
かつて、ガイドブックから、下記のような備忘録を作成していた。
続きが・・・チョッ見つからないが・・
さて、カンポ広場を左に見て、その先右手の丘の上に・・・回り込んで坂道を登ると・・・ドゥオモ広場に出てくる。
古代ローマ帝国の町があったカステルヴェッキオ山の頂上とのこと。
1260年。ライバル・敵国フィレンツェとのモンタペリティと言われる戦いに大勝利した頃に、このドゥオーモの建築は始まっていたようです。
当時の建築平均工期は、ロマネスク様式の時代は、凡そ着工から完成まで50年・・・携わったものが完成を見ることができるか微妙な工期です。
これがゴシック様式になると、既存の教会より威厳を求めさらに大きく高くステンドガラスに彫刻に、内装を華美に・・・
凡そ、着工から100年計画・・・国教である宗教団体ですから、誰の時代に着工したかが重要で・・・完成時期の責任も、保証もなし、目標は?
完成したら・・・新たに区割りを考え直そうということでしょうか。
この教会、1282年ファサードの建設が始まります・・・下側は13世紀末のデザイン、上部は14世紀後半のデザインといわれます
長期に渡るので、関わる人々も多くなり、デザインだけは、途中で調和を考え、上半分は最近のゴシック調で統一するぞ・・・などとなるのでしょう。
宗教は強い、・・・長年予算が無く建設が中座しても、後を引き継ぐ者がでてくる・・・地獄には落ちたくないでしょうから。
シエナは、ローマ帝国時代はローマの植民地であり、「オオカミと双子」は町のシンボルです。
このような彫刻以外にもいろんな所で、親しまれているようです。
ロムルスとレムス・・・ローマ建国の神話に登場しますが、神話ですから多少は無理があるでしょう、
双子の誕生までの前段がありますが割愛、テベレ川に流されオオカミの乳で大きくなり、羊飼いが登場・・・この後の進展も?
やがて兄弟の争い、弟レムスが殺され、一説ではそのレムスに二人の息子がいて・・・逃れた先で興した街がシエナ、
なるほど、・・・あちこちで良く見かけ、大事にされているわけです。
一方、テベレ川の川岸に近いパラティーノの丘にロムルスが建国し、都市として発展し、ローマと呼ばれるようになったといわれています。