気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

太宰府 うそ!

2023-02-24 | 旅行記

うそ?、嘘じゃないそうです。

見たことありますか?  そんな鳥が・・・知りません?

鳥?・・・飛べ無さそう

その前に、最近(2017年)世界文化遺産に登録された神話・古事記に記述のある場所に寄ります。

遣隋使や遣唐使も大陸に向かう際に玄界灘のこれらの島々を目印に航海されたといいます。

福岡県宗像市(ムナカタ)田島2332 宗像大社(ムナカタタイシャ)

第一駐車場から、参道を進むと二ノ鳥居の先に太鼓橋が見えます。

参道の左側、心字池越しの太鼓橋です。

参道に戻って、左右に手水舎がありました。

左右同形で、端正な造りです。

続いてすぐ先に神門と呼ばれる門があり、

ここを抜けると

正面に、拝殿と奥に本殿があります。

左右を少し見上げると、歴史を感じられる奉納額が多数あります。

日本史も文学も不得手なので、多分和歌なのでしょう。

調べてみましょう。

宗像大社の資料では、名称は、「三十六歌仙図扁額 福岡藩第三代藩主 黒田光之奉納」

1680年(江戸時代初期・延宝8年)宗像大社辺津宮へ奉納した扁額一組(36面)

一枚板に黒漆塗の木枠、上部に色紙形に和歌、下方に金地背景に歌仙が描かれています。

この奉納額の書は、藤原基時、絵は狩野宗家の安信(永徳の孫)、良く残っていました。・・・57.7×36.9㎝

現在の社殿は、1557年に焼失したのち、本殿が1578年、拝殿が1590年に再建されています、国の重要文化財です。

さて、宗像大社がチョット複雑なのは、宗像三女神が降臨したのが 辺津宮・宗像田島に「市杵島姫神(イチキシマシメ)」で、こちらになります。

本宮の参道右側から

そして、日本から朝鮮半島や隋・唐の大陸に渡る航海の安全の神様として、玄界灘の先11kmの中津宮・筑前大島に「湍津姫神(タギツ)」が祀られてます。

さらに海上を進み、大島から49km先の沖津宮・沖ノ島に「田心姫神(タゴリ)」が祀られています。

天皇の祖先神・天照大神(アマテラスオオミカミ)の命令により三女神は御子神(ミコカミ)であり、玄界灘に降臨して歴代天皇を助け奉りなさい・・・。

世界文化遺産では、三宮の祭祀が注目になり、特に沖ノ島は神秘の神宿る島として保存されています。

伊勢神宮の雰囲気が感じられる裏側に回ってみましょう。

この建築様式、神明造、基礎柱と屋根が特徴的です。

広角で二つの宮を取り込んでいます。右側の案内板を見てみましょう。

右側が、第二宮(テイニグウ)とあります。

ここは沖津宮の御分霊をお祀りしていますので、本土から60kmの沖ノ島を忍んで参拝です。

第二宮

鳥居があり、拝殿と本殿の構成です。

そして左隣が、第三宮、こちらは中津宮、本土から11kmの大島の分霊が祀られているとのこと。

宗像大社の位置関係、案内図があります。

案内図は、上がほぼ北、上の駐車場から南に進んできました。

第一駐車場から二ノ鳥居を抜けて、本殿から西側を回り、現在地です。

案内図の左下、高宮祭場は、古代の祭祀の姿が伝わる所で・・・社殿の無い祭場として神聖な場所とあります。

では、戻りましょう・・・駐車場の横に見える、こちらが一ノ鳥居になります。

鳥居の右横を県道69号、宗像玄海線が走っています。

北に3.5kmくらい進むと玄界灘、港があり大島は目の前、フェリーが出ています。

宗像大社から移動します。

九州自動車道、太宰府ICから約6km

ここから参道入り口近くの大駐車場までが・・・多少渋滞しました。

右上の駐車場から東に参道を直進、間もなく右手に駅が・・・合成したパノラマで

片側1車線の道路が交差しているので、十字路に信号があり、駅は、信号を渡った右側

西鉄の太宰府駅です。駐車場からは200mくらいでしょう。

参道を進みます・・・右側に青緑色の文字で梅園の店が見えてきました。

店員さんの説明を聞いて、・・・帰りに購入しますと・・・まずは天神様へ

十字路を渡ると一つ目の鳥居があり、ここを抜けて、参道がさらに込み合ってきました。

太宰府名物 梅ヶ枝餅を売る店から声がかかります。

100mくらい進むとニノ鳥居、さらに100mくらい先の右側に太宰府天満宮案内所があります。

鳥居の手前右側、ここで天満宮と門前町の案内図を頂きましょう。

三ノ鳥居を抜けて、右角に鎮座していました、何カ所かに置かれているとのことです。

天神様といえば牛

多くは、撫で牛として、巣鴨地蔵のように悪い所を撫でていかれる方が多くみられます。

菅原道真公は、903年2月25日(梅の香る時期)丑の日に太宰府の南館で亡くなられた。

「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、御遺骸を牛車にひかせていましたが途中でストップ。

間もなく牛車を引いていた牛が伏して、動かなくなった。

この地を聖地とし、御遺骸を葬った、(神話の話ではなく実在の方でしたから、道真公は無実で左遷させられ・・・昌泰(ショウタイ)の変)

2年後墓所と神殿を創建、さらに919年に御社殿を建立された。

 この後、道真公を太宰府に追いやった人々に不幸が次々と、さらに長雨、洪水、干ばつ、伝染病・・・これらの元凶は

魑魅魍魎・陰陽師が貴族社会では全盛の時代です、禍は道真公の怨霊と恐れられます。

・・・942年、平安京内の右近馬場の地に天満宮を創建することになります。

(北野天満宮)

学問の家柄である菅原一族が、北野天満宮を管理することになり、やがて学問の神様、菅原道真公を庶民は信仰へ

(北野天満宮、石の臥牛)

天神様信仰の聖地、太宰府天満宮は年間○○人の参拝者、さて天満宮様の案内には何名とあるでしょう。

年間650万余の参拝者とあります。

では参道を90度左に曲がって、境内を進みましょう。

境内にある最初の鳥居です。

その向こうに太鼓橋が見えます。

太鼓橋、平らな橋、さらに太鼓橋と続きますが、ここを渡る際にボーッとしてないで次のことを守りましょう。

最初の太鼓橋は、過ぎ去った過去のこと:振り返らないで進みましょう!

平らな橋は現在です:立ち止まらないで進むのです!

その先の太鼓橋は未来です:つまづかないで、進みましょう!

できたかな・・・一寸 休憩です

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関門海峡

2023-02-12 | 旅行記

小春日和・・・?イエ、曇天の1月、平和な日本で・・・街中の通りすがりの後景です。

近くの港から・・・牽引されていきます、地対空ミサイル(誘導弾)でしょうか。

武器の輸出は禁止ですので、ウクライナには行かないでしょうが。

ここは、門司港 門司港出征の碑の近く、海事広報展示館2階に各種資料が展示してあります。

関門航路および関門港 撮影日は2010年11月24日 主要な船舶に国際信号旗が掲示されています。

左上、青枠内に赤の四角は、医療の援助が欲しいの意志表示(W旗)、白と青のKは(A旗)潜水夫を降ろし、微速。

右端の上が赤、下が青の二色旗(E旗)は進路を右に変えている。

文字旗がA~Zの26種類で、他に数字が10種類など。

全体が俯瞰できるように目の前の高層マンション・タワーに向かいます。

門司港レトロ展望室、入場料¥300-

1階の展望エレベータに向かう途中、右側の壁に接して・・・只今放送中の表示が

ローカル番組、TVカメラが・・・三脚の上にあるのは、マイクは4本、落ち着いた会話が続いていました。

黒川紀章氏の設計、最上階31階です。地上103m。

関門橋が見えます。こちらは北側

関門海峡の一番狭い部分、下関の壇ノ浦とこちらの門司を結ぶ橋で、1,973年開通、橋長1,068m。

大型船も橋の下を通るので桁下から海面まで、61m。2011年から大規模補修が完了しています。

説明が描かれています。

関門トンネル・人道・・・1958年完成した約780mの人と自転車(押して通行)のトンネル。

人は無料、自転車・原付20円(但し、通行可能な時間があります。6:00~22:00の間です)

少し西に移動します。

対岸の下関側に、タワーが見えます。

海峡ゆめタワーです。

窓下では、はね橋が人気のようです。

その先、もう少し左を見ると

線路が沢山、ターミナル、JRの門司港駅です。

JRの現役の駅:門司港駅です。

パンフレットから確認してみましょう。

1914年、開業当時は門司駅として、1942年に門司港駅と改称されます。

1988年には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定されます。

2019年、6年間の復元工事が終了して、大正時代の姿に復元されました。

石積みかと思ったら、木造2階建て、・・・内部は確かに木造です。

このレジスターのような機械は?・・・券売機でしょう、路線図に運賃表や時刻表、博物館と勘違いしました。

九州鉄道の起点「0哩(ゼロマイル)標」があります。

満州からの引揚者が佐世保港、舞鶴港、門司港に・・・復員兵がやっとホットされた門司港は、約100m先

駅から桟橋まで「関門連絡船通路跡」が残されています。

近くには、他にも洋館が・・・目立つ塔が乗っているレトロな館は「旧大阪商船・門司支店」1917年竣工

重厚ながら温かみのある建築です。無機質なガラスと違い、暖色のある壁面は良いですね。

さて、31階の展望室には有名な島の案内がありました。

1612年決闘当時は、白い砂浜が続く舟島と呼ばれた小島だったと書かれています。

現在は埋め立てが続き、当時の10倍の面積(10万㎡)島の周囲1.6km、人工海浜があるようです。

近くの桟橋から5分の距離、ゴールデンウェークにはイベントがあるようです。

さて展望室を降り、目の前の洋館

旧門司税関に入ってみましょう。

明治45年、レンガ造りの瓦葺平屋構造・・・エッ? 昭和2年まで税関庁舎として使用されていた。

2階建てと違うの?

天井が高い、屋根は平では無く、瓦が乗る勾配があるようです。

昭和20年の門司大空襲で屋根が焼け落ちています。

平成5~6年復元改修工事で当時の姿に・・・明治のレンガは現在よりも一回り大きく、特注で対応。

独立した木造2階建てを建設し、レンガの壁から6㎝離して据え付けられています。

不思議な感覚になりますが、地震の揺れが直接レンガ壁に伝わらないよう工夫されていました。

1階で休憩できます。密輸の手口を掲示してあるコーナや古文書なども公開されていました。

夕暮れ・・・関門橋で山口県下関市に渡ります。

狭いようで・・・海峡は思ったより広かった。

下関といえば、福、フク

握り寿司・・・イヤ、色々と 

ふく刺し、ふくちり、唐揚げ、などなど、おまけはフク煎餅

門司に帰って、駅前に散歩に行けば、新幹線とモノレールが上空を走るので、大都会にビックリ。

賑やかな、駅周辺でした。

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新鮮・身が厚いアオリイカ

2023-02-02 | 旅行記

海に面した小山の上に、灯台のように周囲から見上げられる天守閣、

この城が唐津城、AM9:00から入場できます。

階段を登る以外に奥に進んでエレベータで庭園まで行けるようですが、もちろん階段コースを進みます。

石垣はそれなりに、立派な石垣ですが

これは、この先の半島・鎮西(チンゼイ)地区に築城され、9年後廃城となった所から運んで再利用した物が多いとか

城郭に特有の角を曲がって、また角、周囲を少し回りながら登ると、藤棚が見えてきました。

立派な藤棚の下を抜けると、広場に出ました。

天守閣が見えます。

ここから右の石段を登り

城内に入り、門の先に最後の石段です

石段の正面に庭園(一部工事中)があります。

先ほどの藤棚を過ぎるとここは桜の木々もあり、春の桜、初夏の藤と見ごろになります。

この石段を左に曲がり、到着した所が広い庭園となっていました。

天守閣から見える、ここの庭園は結構広い

エレベータの人が、多分この庭園の先、左の小屋あたりから歩いてこられたので結構離れています。

そして、今まで登ってきたコースの風景が

この先城内に入り、階段を上がった1階でチケットを購入のようで、ここまでは無料公開の公園です。

では、入りましょう。

入ってすぐ右側に5階建てで各フロアーの間取りが表示されています。

一応ここはB1でしょうか

入って右側にある階段を上がると

1階、券売機が見えます。その先が入口です。入口の先、左側に売店などもあります。

館内は、唐津城の歴史、城主の遍歴などをVTRで紹介するコーナーなどもあります。

豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が関ヶ原の戦いで東軍方に付き勝利・・・12万3千石の外様大名としてこの地へ。

1602年から築城、1608年完成、徳川の監視が強く増築は許可が必要、

1637年島原・天草の乱の責任を取らされて、天草領4万石を没収され、二代目 寺沢堅高はその後、1647年自殺。

嗣子が無く寺沢家は断絶。

唐津城、その後は譜代大名5家が入れ替わり・・・明治維新まで小笠原氏の居城。

天守からの眺望です。

西側の尾根に大きな風車が並び、風力発電しているようですが、台風が怖いですね。

この尾根の向こうの尾根・・・の岬にこの後向かいます。

天守の内側に東西南北、このような眺望ですと写真が掲示されています。

東が虹の松原、宿泊したホテル、橋を渡り(左が玄界灘)・・・この写真、桜がきれいです。

そして北側も、庭園の桜が見事満開の写真です。

これから行く西側の眺望は、半島が見えます。

風車は遠くで、よく見えないです。

最後に、唐津市街のある南側です

さて、この城は天守台まで建築されましたが、天守は1627年の幕府の記録には残されていないそうです。

廃藩置県後、1871年廃城となり建造物は解体され、この地は舞鶴公園となります。

1966年高度成長期、観光施設として5層5階の唐津城を建てようということになり、

当時はこんな天守が一般的として天守も築かれます。門や櫓も再建されました。

その後この地から発掘調査などにより、名護屋城の瓦が出土したり、他に復元もあり話題の城となってきました。

名護屋城とは、秀吉が朝鮮出兵のために佐賀県の北端に築城した出兵拠点の城です。

1591年着工、突貫工事で半年後1592年完成、7年間侵攻の拠点になり秀吉の死後・廃城となりました。

江戸時代に、名護屋城の建材は、この地の唐津城に多くが利用されました。

・・・唐津城を後にして、10数キロ北上します。

途中から屋形石方向に右折し、細い道を30分くらいで到着。

広い駐車所です。

地図で、玄海国立公園 七ツ釜 マァそれなりに岬の先端に行くには・・・歩くことになります。

沖の東を見ている女神像があります。

乙姫大明神とありました。

その先の黒瀬鼻岬の遊歩道を進むと、・・・左が入江です、波の音が聞こえ

もうすぐ見晴らしの良い所にでそうです。

この下が侵食された洞窟になっているのでしょうか。

七ツ釜の上方の遊歩道を通過して、海岸線に出てきました。このような風景です。

向こうのせり出した岩場、手前の像の足先のような平らな部分に柵が見えます。

向こうが七ツ釜の展望台でしょう。

こちら側は柵もなく、十分気を付けて乗り出しましょう。

では戻って、向こう側に進む遊歩道を進むと、展望台に降りてきました。

七ツ釜を周遊する観光コース船のようです。

先ほどの岩場は、向こうの断崖の上でしたか?

ここから洞窟が5つ見えますが、観光船は洞窟の中までは入れないようです。

手前側に残り二つ洞窟があるのでしょうか。

穏やかな波、天候もマァマァ、観光には幸い恵まれました・・・遊歩道を戻りましょう。

この西隣に呼子(ヨブコ)町があります。佐賀県唐津市呼子町。

良港があり古くは捕鯨の基地、今日ではイカの活造りで有名です。

途中の名護屋大橋からの複雑な湾内が望める車窓です。

正面に見える尾根のあたりが、朝鮮出兵時の真田陣跡でしょうか。

まもなく、桃山天下市という道の駅に到着。

この裏側にある大きな駐車場へ、昼食タイム

いか という看板がありました。

イカ料理コース、今日のイカはアオリイカとのこと。

呼子町、・・・全国的に有名になったのが「イカの活造り」が誕生した町だそうです。

コウイカ、アオリイカ、ヤリイカ様々なイカが獲れるようです。

鮮度が良いので、身が厚いのに透き通っています。

皮膚の色が変わります。・・・Goproで撮影した動画の方が分りやすいですが、静止画で

旅行の動画編集は、個人情報が多く、公開には修正・編集が多々必要で、別の機会に

アオリイカは、コリコリの食感と甘みが口いっぱいに広がります。

こちらは、イカシュウマイ・・・これを2個頂くと、これだけでおなかが一杯、十分満腹。

活造りの刺身を頂いている感に、下側のイカを天ぷらにしますと引き取られて調理場へ・・・

下足を含むこのような感じに、・・・身が厚いので、熱々を頂くと・・・満腹

他にも色々・・・、呼子のイカ料理は人気があり、リピータが多いと言うことに納得。

食後、散策に

この交差点を左(北側)に、

この一帯は、名護屋城博物館の資料を使用させて頂きます。

右下から、歩道を歩いて、・・・目指すは名護屋城跡地です。

すぐにこのような標識が見えてきます。

右の土手上に駐車場がありました。

右側に城郭の一角が見えます。

420年以上経過していますから、木々も・・・鬱蒼としていない・・・手入れがされています。

大手口前井戸の案内板があり、その横に

井戸の後、案内図では、右下の駐車場の左上方です。

唐津城の築城時、この地は領内の廃城ですし、勝手知ったる城ですから、使えるものは搬出したのでした。

現在は、整地されてこのような状態です。

博物館の資料を拝借して、名護屋城のイメージと説明を

黒田長政、加藤清正、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員して、突貫工事で約半年で完成

ルイス・フロイスは「あらゆる人手を欠いた荒地」と記しているようですが、全国から大名が集結します。

周囲は118カ所の陣屋、最大30万人の軍勢が集結して、城下町も人口10万人に膨れ上がります。

現在は、118カ所の陣屋の内、65カ所の遺構が残され、23カ所は国の特別史跡となっています。

黒澤明 昭和60年の映画「乱」のロケ地ともなっていたそうです。

・・・太閤記、大河ドラマ・・・藤吉郎の出世物語は人気がありますが、日本全国を統一して、・・・

晩年の朝鮮出兵、隣国に何故侵攻したのか?・・・遅れてきた侍に、働き場を探していた?

イャ 多分、権力者に昇り詰めてから目標を失い、イエズス会の情報通によれば、最大の権力者はスペイン国王。

新大陸から銀を搾取して富が流れ込むスペインは、1580年にポルトガルを併合し、領土は「太陽の沈まぬ国」となっています。

秀吉は人たらしで情報通、・・・イエズス会の真の目的は、布教を足掛かりに、他国を植民地化する企てを・・・耳にしていました。

マニラのスペイン総督は、数百人の兵隊でこの国を制圧できるとは思っていないだろう。

気がかりは、数万人と思えるほど増えあがる信者、キリシタン大名と部下が集団で行動するのが目立ってきた。

秀吉は、一向宗に劣らず熱心な信者は、敵対されると日本国の危機と1587年「伴天連追放令」を発令。

スペインはアカプルコ(メキシコ)とマニラ間に大型帆船で航路を開拓して、アジアに触手を伸ばしてきます。

フィリピンを植民地化したスペインに、秀吉は最大の外敵はスペインと判断し、マニラから挨拶に来いと恫喝し降伏勧告状を送り、

降伏せねば必ず征伐する、後悔するなと脅しています。

二度.三度と使者をやり取りし、こうするぞと反対を押し切り朝鮮に侵攻しました。

富を求めて、武力で侵略する時代に、秀吉も参加しましたが、秀吉が無くなると、スペインとは友好的に貿易を。

マニラは3000人もの日本人町が、しかし家康が亡くなると鎖国に進んでいきます。

フロイスの資料が発見される度に、若きカトリックの信者が異国の布教に人生をかける純粋さ、

その陰で武力で他国の文明を破壊しながら富を求めて植民地の拡大に邁進した教団と国家がありました。

宗教の力、マインドコントロール下の信者は強大な力です。

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