気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

榛名神社 & サグラダ・ファミリア

2018-11-14 | 旅行記

伊香保温泉から山を上り、・・・榛名湖に向かって県道を下っていると、メロディラインの立て看板。

定速走行・・・50kmで窓を開けて走ると、・・・静かな湖畔のメロディ が演奏できました。

・・・間もなく右に榛名湖が見え、道なりに周回しているとレストハウス、その先

左にカーブした所で道路が分岐して、左斜め登り坂方面に榛名神社の案内板が立っていた、

・・・榛名湖のスケージュールは、同行者任せ・・・

榛名神社!・・左へ行って!・・・で、行くことになり、・・・湖畔にある神社だろうと思っていたが、

いきなり見えた案内板に小さく4㎞とあったような、・・・高度計の表示は榛名湖で1100m位だったでしょうか

・・・分岐した登り坂は500~600m?予想外に短い登りだった、到着するかと思えば小さな案内板が3.3㎞の表示

やはりそうか、結構あるなぁ、間もなく急な下り坂、・・・下って、下って、緩やかな斜面になりやっと建物が見えてきた。

ここは標高840m位だから・・・登ってから標高差300mも降りてきたようです。

集落になり・・・、T字路で案内板に、右が高崎、左が榛名神社、

・・・左、参道の坂道を登ります・・・結構ありそうです、一番奥、売店の無料駐車場に・・・坂道は200mくらい

参道の両側のお店は、皆さん良心的に無料で駐車場を提供されていました。

神社の案内図です。上方の榛名湖から左側の山道を下って来て、今は左下。

右側の渓流か沢か渓谷か・・・それらの左岸を上流に登るようです。

こちらの案内板は、見所でしょうか

渓流沿いに、550mのようです。

では、隋神門から境内に

これは、1847年の建立ですから・・・お寺の仁王門として建てられ

明治以降は隋神門と呼ばれることに・・・銅板葺きの屋根です。

入ってすぐに、榛名神社の由緒がありました。

社殿は、170余年前の改築、御祭神は後ろに立っている御姿岩の洞窟中に祀られている。

・・・後ろに立っている岩の中?

榛名神社のHPによれば、927年(平安時代)の記録に、ここの地には神社があったと記されている。

鎌倉時代の頃は発展していたようですが、戦国時代には座主職も置かれず衰退。

復興は、有名な天海僧正「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降寛永寺の支配を受けたとあります。

寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当、に任命され、後に両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺と呼ばれた時代も

(神社が機能停止したわけではなく、寺の管理下で神社の祭祀を仏式で神前読経などが行われていた。)

神仏分離令が1868年(慶応4年)3月に出され、神社か寺か、この寺でも話し合いが続きます。

(神仏分離令の通達と言っても維新政府は混乱続きで、出家した者が復飾できて神主になれることや

神社に権現、菩薩などの仏語は禁止とか、仏像・仏具などの除去、神社で仏式を行わないなど・・・

10数件もの法令を出している。)

そして、9月4日光明寺立ち合いのもと什物(物品)などの受け渡しが行われ・・・榛名神社になります。

(これら一連の法令が神仏分離令と総称されるが、一時、廃仏毀釈が激しくなり、神仏分離は廃仏毀釈ではないと仏教側に説明しています。

仏教が強大になったのは・・・国を治めるのに仏教を利用しようと・・・聖徳太子によって国教と認められて以来盛んになります、

さらに江戸時代は幕府より戸籍管理を任され、檀家制度が整備されることになります。

一方、神道以外に大陸から儒教、道教、占い、呪も伝わっていたので、悟りを求めて民間の山岳信仰は人気があったようです。

各地の霊峰に山伏姿で修行する・・・修行により悟り以上に霊感、超能力の獲得を目指す人々もあったでしょう。

仏教に押され、神社の管理は寺となると神主は祝詞をあげるだけで経済的にも成り立たない、神道が政治力を拡大し巻き返します。)

神仏分離令に続き・・・1872年(明治5年)に修験宗廃止例により、呪術、祈祷が禁止されます。(陰陽道も迷信として廃止させた)

 民間で人気の山岳信仰、・・・修行僧や山伏の怪しい力を排除することが目的のようです。

渓流があります、・・・みそぎ橋を渡り左岸へと移ります。

なだらかな道を歩いて行くと、こんな風景が

アーチ型の岩が、沢向こうの右岸に見えてきました。

昔は洞窟状だったのが奥が崩れ落ち、手前だけ残った・・・綺麗なアーチですごいですね。

奇岩「鞍掛岩」と呼ばれています。

休憩所を通りやがて崖の下で手水舎があり、急な階段を上ります。

登り終えて、・・・上からはこんな感じです。

立派な杉の木が、矢立杉、樹高55m、周囲9.4m、武田信玄が戦勝祈願として、矢を射たてる神事を行った杉とのこと。

この上り切った所に神門があります。

ここは狭く左は崖、この門に拝観時間が、AM7時~PM5時とありました。

内部には平らな境内があるようです。

榛名神社の建造物の説明がありました。

国指定の重要文化財の指定は平成17年の年末と・・・、最近のようです。

左の神門から入ると、お疲れさまと休憩にどうぞと、長椅子が置かれていました。

この崖の上が本殿のようです。左側の岩山もすごいですね。

最後の階段でしょうか、

門の名前は、双竜門:1855年の建立

門の先は、右に直角に曲がり、・・・さらに階段が続いています。

ここから参拝客の行列が出来ています。

階段の先、右側が・・・ここが崖の上で、開けた場所で

・・・正面に拝殿が見えました。

拝殿の裏側、切り立った崖がすごい

この崖の上部が、御姿岩?・・・この岩の洞窟内に御神体を祀っているそうですが・・・。

拝殿の右側まで移動して、振り返ると参拝客の列の向こうは、神楽殿

そして改修工事中の場所には、額殿、国祖社(国指定重要文化財)の写真が貼られています

ここから御姿岩を見上げてみます。

達磨のような、頭が乗ったような巨岩です、くびれの所に白い紙垂(カミシデ)のような物が見えます。

御神体の祀られるている洞窟の場所でしょう。

更に拝殿を回り込むと、・・・この様に建物が

岩山に接していました。

右側の岩に接しているのが本社とあります。

本社や拝殿は、1806年の再建です。

江戸時代、山岳信仰は人気がありました。

修行僧や修験者・山伏にはこの様な景観は一級品ですが、現代では建築基準法違反?

台風や地震の度に、事故にならないか、冷や冷やして・・・入場禁止の規制とはならない・・・のでしょうね、

隣の小山にも、

こんな厳しい環境で強風にも耐えてきた大木が、語りかけてきたような気がしました。

「盆栽の懸崖は、チヤホヤされるが不格好だ。この様に根が僅かでも、気力でシャキッと直立しなさい!」

さて、民間で人気のあった山伏・修験者は絶滅したのでしょうか。

・・・戦後、GHQの通称「神道指令」で国家神道は廃止され、宗教法人法が公布され

これらが新憲法で、信教の自由、政教分離、特定宗教に国有財産を使用させることの禁止などが規定された。

修験道は禁止され、多くの宗派は仏教教団(天台宗や真言宗)に属していたが、戦後宗教法人として独立します。

修験行事を復活するには、国有財産の山や森を境内の神聖な場所(霊場)として必要とした。

宗教界は国有地の譲渡を陳情し、1947年「社寺境内処分法」によって宗教活動に必要な土地を無償または時価の半額で譲渡されることになったようです。

神社には、神宿る全山を崇める、山頂や噴火口を崇める、山麓、山腹、平地の鎮守の森タイプがあります。

さて神社は、その地域社会の全ての住民が氏子で、行政が支えた時代は終わってしまいました。

営利事業をしなければ、霊山の山開き、神事の復活、慰霊祭、観光、文化活動、修験道も復活しました。

現在では、霊場は修験道者以外にも登山者や観光客にも身近になってきました。

熊野、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)、恐山などは有名です。

信仰は?、八ツ橋もこの地から生まれた聖護院や、醍醐寺、金峯寺などで行われているようです。

・・・高尾山、吉野の金峯山寺など修験道・山伏修行の体験ができるので良くTVに登場しています。

山を荒れさせない管理も大変でしょう、神社を維持することは、少子化を見通すと難しい時代になってきます。

・・・

違う宗教が、地球の反対側で観光客に大人気 年間約450万人 入場料は15€~29€ 

上は、サグラダ・ファミリアの西側身廊です。

こちらが東の身廊、体育館のようです。

中央で若者が関心を寄せているのは・・・何でしょう。

こんな物でした。

銅製の千手観音?・・・違うようです、頭の部分が祭壇、周囲が後陣・・・手前は栄光のファサードでこの教会の平面図です。

振り返ると、

これは何?

各国の文字がデザインされて、縦に中央で分離されています。

日本語もあります。われらの父 や 門 今 天 ・・・

少し離れて見ましょう・・・正面が栄光のファザード側です。

ブルーの明るいガラスで覆われていますが、一番下、1階部分に衝立が(ツイタテ)が張り出しているような感じ

この部分が、先程の青銅製で左右に開く入口の扉だったようです。

3階部分は聖楽隊が並ぶのでしょう。

では生誕のファサードから一旦外部に出て、地下の博物館に入ります。

いろんな展示品が並んでいます、内戦でガウディの資料は多くが消失しましたが復元された物もあります。

こちらの室内では、手前の机の上は側廊がどのように天井を支えるか、構造模型のようです。

左の棚の上、手前に鐘楼の先端部分があります。

ガウディは、鐘楼の先端は単なる避雷針や金属製の物になるのを好まなかったとガイドブックにはあります。

「建物の頂上部分が十字架や風見鶏と言った小さな金属製の物でできているということは、

頭の中央に毛が一本しか生えていない禿げ頭のような物だ」と語っていたそうです。

とすると棚の上の尖塔部の形は・・・丸型で輪郭があり・・・ひまわり、太陽?

・・・これらは、12使徒の後継者ともいえる司教達を表現しており、

塔の頂点に位置し指輪や杖、冠、十字架などの象徴が飾られているとのことです。

奇妙なものが見えてきました。

これは、コウモリ、蛾の幼虫、ミノムシ・・・実はこれが重要な荷重計算なのだそうです。

コンピュータが無い時代です。

巨大な石を積み上げて、柱を建てて、組んで、壁、梁で上部の荷重を受けて、更に上部に重量物を積み上げる。

地盤沈下は置いといて、構造物の実験を何と、天地を逆にして・・・積み上げる荷重を吊り下げて実験していたのです。

現在は違いますよ、設計も建築工法も・・・

最近、この建物は100年以上違法建築ですよ、市政府から・・・工事の許可を取って下さいと指導され・・・。

・・・ガウディは当初地元の町に建築申請し、建築許可をとっていました。

その後町がバルセロナ市に合併吸収され、更新が必要だったが・・・更新無きまま今日に至っているという。

教会側は、市に一切税金を払ってこなかった。

・・・2015年から協議の結果、3600万€(約47億円)を今後10年間で市に支払い、合法的に建築許可を得ることで合意したようです。

これらの金は、インフラ整備にあてられるとのこと。

一説では栄光のファサードには鉄筋も入るようですし・・・

とにかく曲面が好きなガウディの意思が尊重され、今日では3Dプリンターでドンドン模型が出来ていました。

ガウディ作品の定番コース・・・グエル公園に向かうのでサグラダ・ファミリアを後にしましょう。

西側の公園の端からの全景です。

鐘楼の先端は目立ちますね、手前の受難のファサードも迫力があります。

これが夜になると・・・生誕のファサード側からのライトアップです

左側が正面入り口となる栄光のファサードです、夜間の内部照明はどんな感じになるのでしょう。

そして、例の一等地からの光景が・・・この様に・・・漆黒の夜空に浮かびあがります。

画像を貼り間違えた?・・・イヤ、夜空では無いようです・・・下向きですから、虚像でしょう。

風が無く・・・鏡面のような池に出会えたら・・・ラッキーです。

このような画像です・・・サグラダ・ファミリアは・・・また別の機会がありましたら・・・。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紅葉狩り、サグラダ・ファミリア(聖堂内は

2018-11-03 | 旅行記

紅葉前線が・・・関東平野に降りてきました。

しかし、高尾山はまだ早い、そこで近くまで出かけて行きましょう。

11月4日、ここは伊香保・・・と言えば温泉地、階段の街。

・・・温泉旅館を中心とした街区が造られたのは400年以上も昔と言われます。

ゴミひとつないきれいな、・・・階段が追加され新しくなった街、紅葉が見頃でした。

この階段の上、左に案内板がありました。

左下の・・・ひな壇に並ぶ大勢の人々・・・昭和初期

群馬社の慰安会・・・当時、前橋の製紙工場で働く女工さんの慰労会で・・・記念撮影・・・これがポスターになったそうです。

・・・石段の街・・・小山の上の神社に向かいましょう。

少し登ると右側にハワイ公使別邸、振り返ってみるとこんな光景が

階段に戻ります

前方、徐々に幅が狭くなっていきます

甘味屋、お土産屋、射的・・・両側に並ぶ店や宿屋を眺めながら・・・階段を上がります

鳥居の手前、階段の右側に・・・

365段/365 の表示がありました。

 

伊香保神社:明治11年(1877年)春、伊香保大火により、本殿焼失してしまいます。

その後、仮宮として建立、・・・現在に至る、とあります。

焼失から・・・140年以上の時が流れています・・・

ここが、仮宮です。

右側の階段の下では、かつて騒々しいほど賑やかな時が流れ続けました・・・

ここ仮宮は、・・・忘れられたように静かに、仮のままの姿が続いていたようです。

山側に雨風が吹き込む姿で、このような形で鎮座していました。

伊香保神社のご案内です・・・

途中にこんな・・・明治44年発行の 上州伊香保温泉場全景 が掲示されてました。

昔の景観、・・・見難いので樹木を緑、階段を明るい緑、神社の鳥居を朱で着色してみました。

明治の終わりころ、伊香保神社は仮宮でしたが、温泉街には3~4階建ての旅館があちこちに見られ発展している様子です。

このような写真もありました。群馬社のその後?・・・ではないようです。

・・・時は流れ・・・製糸工場から・・・戦中・戦後・・・復興・・・高度経済成長時代、バブル・・・

いつ頃の写真でしょうか、綺麗所かと思ったが、・・・

社旗のような所属団体を識別できる物があります・・・伊香保温泉観光協会のポスターでしょうか

手前の約300人に続き、中段までは顔が分かるようですが、その奥上段にも多くの方が並んでいます。

並び順はどのように決まったのでしょう・・・。

私が前と前に出てくる人や、肖像権があるのでアップにしないで下さい・・・と言う人も。

しかし、平成の時代にも 浴衣姿で1000人階段 ・・・当旅館の女将さんたちの企画で・・・

宿泊客を募集し、1000名弱の参加で・・・観光ポスターになったと思いましたが?

・・・神社の裏から西側に坂道を下り、街道を上流に進みましょう。

500m位進むと・・・前方が朱色・・・高揚してきました。

そうです、楓、その中でモミジと呼ばれ、イロハモミジが特に人気、

アントシアニンは・・・紅葉を赤くする

・・・ここが目的地

人気の河鹿橋(カジカバシ)、京都にも負けず劣らず・・・でしょう。

ここの案内図がこちらです。

京都北西、高雄山、山が燃える・・・400段の石段の先・・・神護寺、素敵な所です、あちらも今が見頃でしょう

・・・身近な温泉地、ここ、河鹿橋でもこのように素晴らしい紅葉が見られました。

・・・では、駐車場に戻って、榛名湖へ

途中、榛名山の展望台から・・・赤城山が右手奥の山並み、手前に伊香保の街並みが見えます

午後は、榛名神社へ向かいます。

 ---・・・・

落慶法要・・・これは仏教でしたか、・・・カトリック教の場合は、献堂式と言うらしい。

確か少し昔、法皇がミサを行ったニュース映像が世界に流れました。

サグラダ・ファミリア地下の展示資料から画像を

・・・サグラダ・ファミリアの献堂式、バチカン放送局の資料から

2010/11/7、教皇ベネディクト16世のミサには、スペイン国王夫妻、ファン・カルロス1世国王隣席のもと、聖堂内外およそ30万人の市民が参加した。

教皇はこのミサで、祭壇の聖別をはじめとする教会献堂の荘厳な儀式をとり行われ、

サグラダ・ファミリア教会を「バシリカ」(重要な教会への称号)として宣言された。

サグラダ・ファミリア=聖家族に捧げられたこの教会の献堂にあたり、

教皇は誕生からその自然な死に至るまでの人間の生活の基礎にある「家庭」の大切さと、愛と祈りの学び舎であるその役割を強調。

今日の社会において家庭を支え、保護する必要を訴えられた。

さすがに世界12億人のリーダーです。

カトリック教信者ファースト、などと決して言われないでしょう。

世界平和に貢献される姿はカトリック教の人気を上げ、トランプ大統領が悪役に成り下がっているので、

ユダヤ教・プロテスタントには辛い日々でしょう。

-教皇の画像は展示物から借用して背景を加工してます-

では受難のファサードから内部に入ります。

多くの観光客がスマホを掲げ・・・こちらもカメラで同類でした。

入って中央から左側・・・こちらが後陣になり、手前に主祭壇、天蓋でしょう目立ちます。

そして振り返って全体を見渡すと・・・右側、オレンジの光り輝く側廊が気になります。

ステンドガラス越しの・・・赤く輝く空間は、一瞬血が騒ぎ高揚してくる。

そして、眩しい光から視線をずらし・・・

ステンドガラスの絵柄と周囲の構造物にピントがあって来る。

一瞬、ここはどこ? ・・・ そうだった、ここは教会内部、見上げれば

それらしい、何やら象徴的な多くのシンボルが存在を主張し、

・・・天上界からも何かが降り注いでいるようです・・・とにかく、・・・天井が高い

ステンドガラスには聖書の物語が描かれるのが普通ですが、ここでは見かけられない。

・・・色彩と透過光のイメージ優先でしょうか、明るい現代的な建築インテリアです。

ごった返している中央身廊を通り抜け、反対側の生誕のファサード近くで、立ち止り一息入れる。

この聖堂の平面図を見て頂きましょう。

右下から黄色のラインのように

 

 主祭壇や後陣の薄紫色は当方で着色しました、ロープが張られ立入禁止となっています。

下側が受難のファサード、⑧は洗礼堂、上が生誕のファサード、⑨は悔悛の礼拝堂

受難のファサードから内部に入り、右側の①が工事中の栄光のファサード(現在は出入りできません)

・・・この祭壇正面になる栄光のファサードから入場すると全体像が分かりやすい・・・5つの門が見えます、中央身廊と側廊です。

完成しても多分通常は中央の扉は閉じられ、両端の扉からの入場になるでしょう

室内から生誕のファサードを通り外には出られますが、柵で仕切られ教会の外部には出入りできません。

地下に礼拝堂や博物館があります。

では中央身廊に進んで、改めて主祭壇側を見てみます

とにかく天井が高い、ここに見える柱は色が違うようです・・・ガイドブックによると4種類

手前の赤く見えるのが赤斑岩、高さ22.2m(8階建て位の高さです)、直径2.1m、断面は12角形、

裏に見える褐色の柱は、玄武岩、高さが18.5m、直径1.75m、10角形・・・少し強度が下がります

奥の明るい柱が、花崗岩、高さ14.8m、直径1.4m、8角形のようです。

・・・石積み建築です、危なさそう、鉄筋入ってなく大丈夫、地震で横滑りは、モルタルで固定は?

確かなことは、上に乗る重量により素材、サイズを変えていることは解りました。

聖歌隊の席が、多分栄光のファサード側の上部になると思われるがその部分の柱が、モンジュイックの岩で高さ11.1m

直径が1.05m、6角形の断面となり強度は最も弱いとあります。

これが天蓋、聖家族・・・イエスの磔刑のデザインとしては・・・

動的ポーズに思えてしまう、この明るさも、・・・従来の慣習にとらわれない未来のカトリック教でしょう

内部からは感じられないが、この柱の上部の屋根の上・・・その上部には円筒の塔が工事中です。

この天井を支える最も高い赤い柱4本に、各々イラストが浮かんでいます。

これらは福音書を書いたマルコ(赤・獅子)左下、ルカ(緑・牛)右下、ヨハネ(青・鷲)右上、マタイ(黄・天使)左上、たちです。

そして、間もなく外部では・・・驚く光景が見られるはずです。

18本の塔が建ちますが、生誕のファサードは既に4本完成(外側2本が高さ94m、中央が107m)受難の4本も1977年に完成(高さは、生誕同様)、

栄光のファサードはもう少し高くなる、・・・これらは12使徒と言われています。

この場所の上部にイエス・キリストの塔:172.5m(日本の高層ビル、新宿西口の原点:京王プラザホテルと同じくらい)が積み上がってきます。

イエス・キリストを囲むように、四方にマルコ、ルカ、ヨハネ、マタイの4本の塔が建ち(約130m)

一番後陣に、聖母マリアの塔(約140m)が建つことになります。

模型がこちら

西日が当たる屋外に展示してあったので、ケースに映り込みが多く見難いですが、両サイドの色の濃い部分が完成済です。

手前が、正面になる栄光のファサードで、中央の一番高い塔がイエス・キリスト、聖母マリアは裏で見えません。

イエスの塔の両サイドが、マルコ・ルカたちの塔です。

・・・これらの塔の役割は鐘楼ですから、3種類の音、ミ・ソ・ドに調音されている鐘が基本となるようです。

日常は静かな澄んだ音が流れるのでしょう。

異色な発想がありまして、ガウディがパイプオルガンのように、パイプ状の金属の筒を各種用意し、

鍵盤を弾くと電気信号でソレノイド(電磁石)を動作させパイプの端を叩く、この様な楽器の実験を繰り返し行っていました。

塔に組み込むこの構想は、鐘の音が塔に開けられた無数の窓のひさしが斜め下に向けられ、音響をバルセロナの街全体に響かせたいとの願いのようです。

鍵盤楽器の構想はもちろん最重要課題で、後継者に受け継がれて繰り返し実験が続くようです。

この塔に組み込むのが、これからの工事の最大の事業となるでしょう。

完成後に、実験や調音を長い期間はできないでしょうから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする