気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ダムヌン・サドゥアク水上マーケット

2018-06-29 | 旅行記

タイのニュースクリップによると、バンコクの高架鉄道BTSは、6月27日午前8時半公式ツイッターを通じ、

信号システムの不具合でスクムビット線、シーロム線の双方で運行が遅れていると発表した。

故障でBTSの運行が遅れるのは6月に入って度々発生していたが、22日からは6日連続。

「朝も夜も故障とはどういうことだ」「奴隷扱い、イヌのようなサービス、詐欺のような運賃」といった苦情、批判で、

「日本の鉄道を見習え」「日本なら発車が25秒早すぎただけで経営陣が謝罪するぞ」など日本と比較するコメントもみられたと報道していた。

・・・BTSのチットロム駅高架下を、オプショナルツアー参加者を乗せた観光バスが走っている。

アソーク通り(スクムウィット・ソイ21)、この先交差点

右側に見える大通りの先左側に、バンコク伊勢丹がある。

・・・3年前の2015年8月17日夜、日本でTVニュースが流れた。バンコク、伊勢丹近くの繁華街で、・・・

今走っているこの道路の左横・・・ラチャプラソン交差点の後斜めに、人気のパワースポット、エラワン廟(ビョウ)がある。

その外側ベンチ下で爆弾が爆発・・・百数十人の負傷者、亡くなった方も20人位と爆弾テロは・・・軍事政権下の治安状態に不安を覚えた。

今・・・その場所を通過した。

次のサイアム駅近くには、女性に人気のZARAやHMなどが見える

話は戻って、上の高架を走るBTS(スカイトレイン)がトラブル続きで、高架下のこの道路に車が連なる画像が流れていました。

この先、ホテルでツアー参加者を拾い、やがてファランボーン駅近く・・・

車窓から古い4階建ての集合住宅が・・・結構エアコンも設置されています。

高速道路を南下して行くと左側に大きな交差点

 

スラサック駅が見えるかな?、これも最近トラブルが発生している高架鉄道BTSのシーロム線です。

実は昨日、バンコクのホテル到着1時間後、このBTSに乗りスラサック駅の次の駅で降りた、・・・その路線です。

行き先は、チャオプラヤ川のフェリー乗り場に向かったのでした。

・・・さらに南に下り、西側に進むと・・・昨日のフェリー乗り場から更に下流に・・・橋を渡ります。

まだ海は見えないようです。橋の名はラーマ9世橋、河口方面の眺望です。

・・・海までは直線で20㎞、ボートで進むとこの先突き当りを大きく左に蛇行して中州を一周するので、倍の40㎞くらいでしょうか。

そして、ウトウトしていると、左側に塩田がありますと、・・・

別段、特徴のある風景ではないのだが、ガイドは定番のお勧めポイントととして案内されるようです。

幹線道路から分岐して河川に沿って北上します。

賑やかな人々の暮らしが伝わる交差点です。7-11は繁盛しているようです。

バンコク市内もこの地でも気になっているのが、道路横に見かけるこの光景

ケーブルです。すごい状況になっています。対策が急がれているとは思いますが・・・。

バンコク市内から約1時間半、90kmくらいでしょうか、トイレ休憩も含めココナッツファーム到着。

観光バスの定番コースです。こちらは駐車場の裏側、

トタン屋根の下では、オオギヤシの一部を釜で煮ているのか・・・砂糖を作っていました。

ラーチャブリー県はココナッツの産地として有名ですから・・・ココナッツの削り方実演もしています。

削った白いココナッツを絞るとココナッツミルクの出来上がりです。

椰子の実の民芸品や工芸品も販売していましたが、・・・関心があったのは

カトレア・・・そう南国なのです。

やはり派手な花です。

緑の生い茂る環境で、人目を引く容姿と色彩で誘惑する・・・多様な植物に感心していると・・・出発です。

やがて到着した先は、大きな体育館のような建屋に案内され

ここから高速ボートに乗り、水上マーケット(市場)に向かいます。6~8人乗りでしょうか。

スピードがそこそこのタイプもあるようで、どんなボートでしょうか。

このタイプと同系で結構スピードがでそうです。あとは操船者次第でしょう。

河川船着場から上流へ

道路の下を抜けて更に郊外へ

河川が分岐しています、前のボートは右側へ、こちらの組は左側へ

 

結構水量が多いような気がする、多分雨天が続いたのかな

川幅の広い河川に出てきました。ここまで数分かな、10分弱でしょう。

この画面だけ見ると、台風の過ぎ去った後、河川が氾濫して道路に濁流が流れてきた・・・そんな感じです。

そのような河川の正面に横断橋のような構造物が、

川を渡るのに?なぜか近代建築のような違和感があるが、・・・ここは電信柱が並ぶ大型河川のようです。

右前方のボートに、・・・猛スピードで近づいていました。

 

水しぶきを上げながら並走し、・・・追い抜く・・・もう少し離れないと、

・・・茶色の水しぶきは、隣の人々には歓迎されてないでしょう。

うねりは・・・大型船ではないので大きくないが、波が結構立ちます。

のんびり観光とはいかず、・・・申し訳ありません。

スピードの違いを見せつけていると、・・・前方から細身の高速船が、こちらも猛スピードで左側面を通り過ぎて行った。

のんびり走れば、川辺にはこんな風景もあったのですが

そして、川幅が狭くなり、水路の雰囲気となった。

そして、ボートが行きかう渋滞地域に入ってきました。

・・・手漕ぎ小舟と長いシャフトの先にスクリューのエンジンボートが入り乱れ、

エンジンボートは危ないんだよ!と、どなっているのか?

ボートの縁には、アルミ板?が貼られている。

絶対に手を舟から出さないで、乗る前に何回となく注意されたガイドの言葉がようやく分かった。

船頭は後ろに一人、よそ見をしているのか時々軽めの舟がこちらの舟の上に乗り上げる。

・・・舟の前方に進み、相手の舟を横に押しやる。しょうがない・・・交通整理をしながら渋滞から抜け出す。

このように舟で仕入れた物を運んで来て、行商していた方が昔は多かったのでしょう。販売している人々は繁盛しますように。

・・・やがて水路に沿って物々交換の店が立ち並び、・・・時が流れて、休憩所、食事処、裏側に駐車場を設けた観光施設が建てられ

観光マーケットに発展してきたのでしょう。

オオ!・・・小舟の中で揚げ物づくり?・・・これが商売ですね。

水上マーケット中心部、この階段を上がった先は、大きな建屋にお土産品や衣類などの店舗がありました。

ガイドさんによれば、反対側の店舗と犬猿の仲だとか、オーナーが最近亡くなって遺産相続で揉めているような話でした。

この後休憩し、手漕ぎボートに乗り換えて、水路を観光することになります。

まずはガイドさんが、食べたい方はこの階段下で行商の舟がお勧めとのこと

これは、卵焼き?ではなく、150バーツの棘のある果物王様ドリアンです。

裏側は、

結構大きいサイズをカットしているようです。

本来の旬は、4月から7月の今が旬の食べ物と言われますが、

箸で、内側が柔らかいドリアンを初、食レポです。

・・・クリーミー!・・・よく耳にするセリフが飛び出してしまった。甘い、柔らかい、トロトロと最高に熟していて旨い!

エー ・・・気にしていたのだが、チョット息を止めたが匂いも、香りも、臭みも、気にならなかった。

では、臭いに鈍感だったのでしょうか。

周囲のお客から・・・視線を浴びることも無く。横を通る人に、・・・不自然な動きも無く、関心も持たれなかったのです。

ドリアンにも種類があるようで臭いの少ない種類なのか、息を吸い込んでも異臭は感じられなかった。

臭豆腐は、周囲に臭いが充満していて、本体にすら近づけなかったが、・・・ドリアンはラッキーなことに臭いは飛んでいたのでしょうか。

大丈夫! ・・・旨いから・・・おすそ分け・・・旨いだろう、

ライチと比べるとこんな感じ、アボガドよりも大きな種が入っていた。

周囲の白い部分と分離して、種の周りに柔らかい果肉が袋状にあるようで、この熟した柔らかい部分のみ食するようです。

後日、スーパーや商店街でドリアンを売っていて、買いたいのだが屋外で食べるしかなく、観光バスも、ホテルも厳禁されています。

 

とにかく臭いが強烈で、気が付けばいろんな所に、各種のドリアン禁止マークが貼られていました。

では、順番に手漕ぎボートに乗りましょう。

周囲の舟に気をつけながら

・・水上マーケットに限らず、観光化が進むと・・・現地の人々は昔の生活様式が観光客を呼ぶことを知らされ、

本来の物販よりも、売店の売り子として座っていれば水上マーケットの雰囲気は維持される。

登場人物として景観を創ることに参加すれば、多分観光協会方面から出演料は入る仕組みになっているでしょう。

最近も、12chでしたか、秘境の原住民がスマホの充電器を欲しがっていて、自宅についていくと、

放牧していた牛を売って4輪駆動の車を購入し、スマホも利用する都会人で、アルバイトとして原住民の生活を再現し観光立国の仕事をこなしているのでした。

飾られている商品を見てみましょう。

雑貨店

生活用品や

衣類

バッグ類、

ボートからそこの品、・・・いやその左、手に取って見て即決するような衝動買いの品物は・・・そんなにないでしょう。

ほとんどの観光客は雰囲気を味わうだけ・・・、販売員もボートの観光客には期待していないようでした。

AM9:00過ぎに水上マーケットに到着、そろそろ1時間半手漕ぎボートから降りて

ココナッツジュース、値段忘れてしまったが安い、冷やしてあるので、それなりに旨い。

店舗の中を散策し

こんな光景も

どちらの国籍の方でしょう、陽気なラテン系でしょうか。

・・・帰りは、このすぐ裏の駐車場にバスが待っているので、バンコク市内に帰って昼食です。

・・・バンコク市内、伊勢丹の反対側に大きなスーパーマーケットができていて、その先、橋を渡って右側

時刻は、1時半過ぎです。

ピンクの看板、ユニフォーム・・・カオマンガイが人気の店です。

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アユタヤ 象パーク

2018-06-18 | 旅行記

象が戦争に?・・・紀元前の昔から戦闘に参加されられているようです。

象の上に乗ると、・・・高いですね!視界が良くなるので見張りには役に立ちそうです。しかし、相手からも見えますが・・・

インドや中国では、4000年もの昔から象を飼いならす象使いがいたそうで驚きます。

しかし、アフリカ象は飼いならせないそうで・・・

・・・ところが有名な話が伝わっています。

紀元前218年5月、29歳の若きハンニバル将軍、征服していた現在のスペイン中南部?(アルハンブラの東約300㎞付近)から北上し、ピレネー山脈を目指していた。

アフリカ象37頭、歩兵9万人、騎兵1万2千人の大軍である。他に21頭の象と1万5千人は、現在地の防衛のために残していた。

(塩野七生 ハンニバル戦記より)

 なぜこんな2200年以上も前の戦記が、具体的に・・・?

ハンニバル軍にはギリシャ人の記録者が同行し、一方この戦いを挑まれた・・・ローマ帝国にも記録者がいたのだった。

ピレネー山脈越えると別世界・・・ここで、このままでは遠くにつれていかれる、・・・と動揺してきたスペイン兵(傭兵)は、役に立たないと・・・ハンニバル将軍が全て帰宅させた。

ピレネー山脈を何とか越えると、そこはガリア(現フランス)、選抜軍は、象37頭、歩兵5万、騎兵9千、・・・何と4万3千人も脱落したが想定内だったようです。

・・・ガリアは今日のように平原ではなく、森や沼地が多かったようです。

ここは他国であり、通過するにも抵抗があれば戦うか、金で懐柔するか、・・・やがて川幅が広く流量も多いローヌ河を5万人以上の大軍が渡る・・・ここでも1万3千の兵士を失う。

( NATIOAL GEOGRAPHIC より)

イタリア北部に攻め込むには、最大の難所となるのが標高2~3000mクラスのアルプス峠越え、どこを通ったのか? 

ルートは諸説あり決定的な物証がありませんでした。

ところが2016年4月 CNNが北アイルランドの調査チームが、海抜3000m近くのトラベルセッテ峠付近で、

堆積物から馬の糞らしき塊が発見され、年代測定の結果、紀元前2世紀頃のものと断定したと報じた。

峠は、赤マークの付近でしょうか。この東側にポー川の源流があります(青のラインの左端)

このアルプス山脈東側から流れ出すポー川が他の河川と合流しながら北に流れ、上図の中央上部(枠外)でポー平原を東に向かって・・・

イタリア北部を横切る長さ650kmの最大河川となりアドリア海に達します。

 NATIOAL GEOGRAPHIC より拝借した地図のルートでは、アルプス越えはもう少し北側コースと予想していますが、

ポー川を渡るのは大変なので川の上流まで迂回し、浅瀬を渡り、北イタリアに侵入しています。

・・・さて、アルプス越えでも、敵対する部族の集落も通ります。

象部隊を先頭に進むと・・・見たことも無い光景に出くわし、圧倒されたのか争いは少なかったようです。

・・・崖の横に作られた狭い道を登ります・・・気が付けば 5月に出立したのに、・・・もう9月、標高の高い山では、小雪もちらほら・・・

( NATIOAL GEOGRAPHIC より)

峠の頂に達するまでに要した日数は、・・・9日間、疲労が蓄積し・・・頂上近くの平地で全軍を二日間休ませたが、マズイ、季節は冬に入っていた。

下りが想像以上に過酷だった。寒い、足元は薄い氷が張り・・・滑る、溶ければぬかるみ、馬や象は足を取られうずくまる。

雪崩も多発する地域です、声を潜めて通行は、・・・できなかった。多くの物が谷底に消えていく・・・・、4日後になんとか麓に降り立った。

峠を越えるのに15日間を要しています。・・・軍勢は、2万の歩兵と6千の騎兵となっていた。

・・・・・アルプス超えで、2万人の兵を失った。象は・・・?、わずか数頭となっていた。

この後、ハンニバルは甚大な損害にもめげず、ガリア人の傭兵も募り、ポー平原で勝利し、さらにローマ軍を名采配で撃破していきます。

・・・しかし、

何故か・・・山田長政とダブって見えます。

優れた武力と知力で、他国を支配する寸前まで駆け上りますが、住民を継続的に支配するのは、・・・敵国で外様状態では難しい、

敗戦した敵国を属国にして、戦利品を自国に持ち帰れば戦勝、凱旋と・・・完結するのでしょうが。

第二次 ポエニ戦争・・・ハンニバルの本国カルタゴは、・・・敗北した。

・・・

・・・アユタヤでした。バスで移動すると・・・近くに、アユタヤ エレファントパレスがありました。

象に餌を上げたり、一緒に写真を撮ったり、もちろん乗れます、各種のコースがあります。

乗ります? 比較的おとなしいと言われるアジアゾウです。・・・自分は遠慮しました。

このパークには、日本の皇族も来られ、写真も飾られてありました。

象の宿舎はどこだろうと探していたら、・・・このような光景に出会いました。

慣れたもので、あっと言う間に乗り込んで・・・どこかへと、走り去っていきました。

紀元前の昔から戦闘には、象使いが登場しているようで、このパークでも象を上手にコントロールしていました。

・・・さて、またバス移動です。

駐車場からチョット歩くと・・・木立ちの先に見えてきました。

この涅槃像 ワット・ロカヤ・スタ(Wat Lokaya Suttha)全長28m、高さ5m(ガイドブックによる)という大きな仏像だけがありました。

入場料は無し。1767年頃の建立とありますが、建物の雰囲気は残っていません。

ここもビルマ軍に破壊され、1956年に復元されました、レンガで原型を作り漆喰で化粧されているようで、白い涅槃像です。

この仏像も・・・穏やかな表情です。

北枕で横たわる。仏陀80歳、入滅時の姿、右わきを下側に・・・・穏やかな表情、今日でも最上の寝方とされる所も多いようです。

この寺院と涅槃像は山田長政が活躍した時代から百数十年後に建立されています。

・・・アユタヤの日本人町はどうなったのでしょう。・・・

その前に1630年、暗殺された長官:山田長政の後継者は・・・、長政の息子:オクンが周囲から進められて新長官に就任します。

牢獄の前長官は暗殺の疑いで収監していました。その弟により長政は毒殺されています。

前長官を処刑しようとすると、巧みな話術で、この地を治めるに必要な知識、経験があり、毒殺には関わっていない、新長官の就任式を盛大にと・・・。

前長官の弟は処刑されたが、前長官は牢獄から解放されると・・・、密かに城内、城下の人々に、外様の日本人に反旗を翻す工作をします。

新長官の盛大な就任式に・・・待てども、日本人以外は誰も出席せず、・・・異変を察知した日本人軍は、・・・反乱を武力で鎮圧した結果、大きな争いになり城下は荒廃した。

オクンを筆頭に日本人部隊は、この町を捨ててカンボジア国の日本人町に向かった。

一方、アユタヤでは、日本人の台頭が脅威となり貿易は王室が独占 する許可制とした。

長政暗殺後日本人町は「謀反の動きあり」との情報が流されて不穏な空気に、

日本人の成功が面白くないアラブ人や華僑の人々らも加わり、日本人町は焼き討ちに遭い、住民は虐殺された。

・・・アユタヤと友好関係にあった江戸幕府にも、この報はすぐ届いたでしょう。

しかし、その後1632年には、海外に逃れた日本人400人程度がアユタヤに戻り、日本人街が復興され、仲買商などに従事します。

・・・ところが、1635年、江戸幕府は長崎奉行に下知状(鎖国令)を発布し、日本人の東南アジアなどへの渡航禁止、この地域に永住する日本人の帰国を禁じてしまった。

この結果、この地で新たに活躍する日本人は、登場しなかった。

18世紀初頭まで日本人町は存続したようですが、男性日本人は現地妻と・・・、2世、3世世代が進み、タイ族との同化が進んで

・・・アユタヤに溶け込んでいきます。・・・やがてアユタヤも悲しいかな、隣国ビルマによって焼き払われ・・・消滅してしまいました。

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梅雨の合間に出かけよう&山田長政の活躍

2018-06-14 | 旅行記

週末、日曜日は天候が崩れるとの予報だったが、金曜夜9時過ぎから・・・翌日宿泊可能な宿探しが何故か始まった。

バラとアジサイ?、近くにいくらでも・・・アジサイが特別?・・・しょうがない・・・宿が取れて出かけることになった。

初夏の神社に出向き、・・・箱根は外国人の観光客が多い

隣は九頭龍神社

そして駐車場横の大木は、「幸せの 大きな かしわの木」です。

湖畔まで階段で下りれます・・・境内の地図を。

そして夕刻、本命ではないのだが・・・宿泊先の近くで,、アジサイの写真を撮りに出かけたら

踏切が上がって・・・電車を追うと、線路の左右から何かが飛び出してきた

・・・モゴモゴ動くのでビックリしたが、撮り鉄さん達だった。

無人駅のホームには、多分大昔・・・乗ったことのある箱根登山電車が入っていた。


右側の1番ホームから、下り電車が箱根湯本に向かって下りていくところでした。

左側の2番ホームは、これから上り、・・・スイッチバックをしながら・・・次は宮ノ下に進む電車です。

・・・さて翌日は朝から若干小雨模様、目的地はこちらでした。

駐車場との間にも、ライトアップされると・・・キラキラと光り輝く樹木がありました。。

 

開館はAM10:00、駐車場には20台以上車が入ってきました。もうすぐ開館です。

庭園内は、バラとアジサイが来館者を持っているはずです。

ベネチア、「風にそよぐグラス」1895年 ジュゼッペ・バロビエール作

15世紀に初めて透明ガラスを開発したアンジェロから、芸術の域に高めたエルコレまで

約80点のコレクションが展示されています 11月25日迄 公開中。

一時間毎に行われる今回のミュージアムコンサートは、ヴァイオリン奏者 Alberto De Meis

11:30から、イタリー人のメイスさん でした

さて、庭園の風景をと・・・2階の展望室から、誰もいなくなるのを待って、この景観です。

人の手が入っているのに気づかない・・足立美術館の日本庭園に対して、

人工の構築物も配置して・・・自然を支配したい、西洋庭園

バラは単独でも存在感があります

アジサイ、紫陽花、あじさい、・・・実にさまざまの品種がつくられています。

この新種は、ここだけのようです。葉の色が元気がない?  もうすぐ、夕刻から輝きだします。

ここは、ガラスの森でした。

こんな人工樹木が得意な館です。もちろん、この様な製品も販売しています。

耳を澄ますと ・・・光を下さい、想像以上にキラキラと輝いてみせます・・・と、聞こえたような・・・ 

・・・日常生活にメリハリを、自分でチョット光を当てるだけで、想像以上に見た目も、意識も変わるのです。


(史実 山田長政 江碕 惇)によれば、

長政は日本人町の頭領になり、ソンタム王から「クン・チヤヤ・スン」の官爵名をもらった。

軍人の位でいえば上から4番目、大尉級となる。

・・・1621年ソンタム王は、また使者を日本に送った。

この時の模様が江戸幕府初期の外交文書控帳「異国日記」上下2冊(京都南禅寺金地院が所蔵)に残っている。

王の宮廷使者以外に、長政は家来の伊藤久太夫を乗船させ、老中の土井、本田に手紙を送り、将軍秀忠には鮫2本、塩硝200斤を献上している。

他に通訳官、木屋弥佐三右衛門、一行の護衛として日本町から60数名が従った。

・・・シャム側から到着後のスケジュールを調べてみましょう。

8/11 長崎奉行所へ到着の届けを提出、江戸の将軍に謁見を願い出る。

8/26 一行が江戸に到着、誓願時が客館に当てられ、牧野豊前守信成が接待役になる。

8/27 老中の邸に通訳が呼ばれ、シャムの使者が趣意を尋問される。

8/28 通訳官などが江戸城に上がり、本田、土井に贈る書簡、木綿織(当時は貴重)10条ずつを贈呈する。

シャム国王からは将軍に、長剣、短剣、各1把、鳥銃1双、全磐一具、木綿織10条、硯一具、象牙1000斤などを贈る。

8/29 客館に江戸城側から3名来られ、シャムの使者に国土風俗などを聞いて帰る。

 この際に土井、本田両名の名で長政に返書と、晒20匹(さらした布?40反)を贈っている。

9/1 シャムの使節が江戸城に上がれる。将軍がシャム国の使節を引見(インケン)の日、貢物が将軍の前に並べられていた。

酒井、土井、本田らの前で将軍に謁見した。

9/3 シャムの使節は江戸城へ上がって お別れの言葉を言上する。

将軍からシャム国王への答礼として、金屏風3双、鎧3領、太刀2振、馬3頭、

使者二人には銀200枚、小袖10枚ずつ、通訳には銀50枚、小袖20枚ずつが贈られた。

・・・かくして長政が「日本人長政ここにあり」と、その名を日本の将軍、幕府に知らしめた儀式は終わった。

( 日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 )

さて、前景の江戸城、天守閣がそびえています。

大江戸博物館(墨田区・両国)のジオラマにも天守閣がありましたが、見慣れていないので違和感がありました。

・・・山田長政の活躍した時代、シャム国の使者は天守閣を見ているはずです。

1657年、「明暦の大火」があり、町は三日間燃え続け、外堀の内側をすべて焼き尽くし、江戸城も被災、天守は焼け落ち、・・・この時4代将軍・家綱はまだ若かった。

権現様が建てた地上58mという巨大な天守閣は、何故か・・・再建されなかった。

家綱の後見人、3代将軍家光の異母兄弟、会津藩主・保科正之が再建をさせなかった。「天守は戦国時代のもの、多額の資金は町の復興に回すべし」

以後、大金を天守閣に注ぎ込むことはできなかったようです。

・・・隣国カンボニアとの話

翌1622年、シャム国王は、隣国カンボニア王が貢物を持ってこないので怒った。

表面上は対等だがシャムの国力が上なのでカンボジアは毎年貢物を献じていた。

従属関係を明確にするため大軍を出す・・・この情報がカンボニアに伝わり、・・・長政に密使が来た。

・・・カンボジアの首都プノンペンの日本人町には・・・小西行長、加藤清正の遺臣が千人ばかりいた。

密使は、「我ら日本人部隊はカンボジア王の厚い庇護のもとにあり、絶えず王の親衛隊として戦っている。今度もシャム軍と戦う決意である。

同胞相殺し合う流血の惨だけは避けたい、何とか・・・善処して頂きたい・・・必ず貴君らに報いんことを誓う」

・・・長政は「日本人同士で争ってはならない」・・・と密使に伝えた。

ソンタム王の出陣の要請を、日本人同士の争いは避けたいと長政は辞退申し上げ、・・・王はやむなく了承した。

・・・結果、シャム軍は惨敗、大将戦死、数千人と250頭の象部隊も捕虜となり、ソンタム王は命からがら退却した。

勝者 カンボジア王は、プノンペンのポルトガル人町、オランダ人町の監督権まで、総出動して先陣をかけ勇猛果敢な戦いの日本人(軍)町に与えた。

一方敗者のソンタム王は、日本人町の日本人部隊をさらに信頼し重用することになります。

・・・1624年念願の 軍船 が完成した・・・

東南アジアに基地を設けたオランダが、ポルトガルのマカオの基地を奪取しようと艦隊を派遣した。

しかし、ポルトガルスペイン連合艦隊に敗北する。

・・・スペイン艦隊チャオプラヤ川へ侵入し暴れまくり、シャム王室の貿易船も拿捕され、王は早速 長政に援助 を依頼した。

日本水軍の演習の結果を試す時が来た。

・・・夜襲は古来日本の得意な戦法、軍船と小舟・・・夜陰に縄梯子をスペイン艦に掛け艦内に忍び込み、敵の火薬庫に放火。

・・・着火後、河中に飛び込み軍船に戻るか両岸へ泳ぎ着く、勝手知った土地だった。

5隻ばかりのスペイン艦隊は、河を深紅に染めていた。・・・軍船から実践の訓練である大砲を発射、日本水軍とどめの一斉射撃となった。

生き残ったわずかの敵将校は、ポルトガル人町に収容された。

・・・一夜にして猛威を振るったスペイン艦隊を全滅させ、日本の水軍はほとんど無傷、ソンタム王は驚喜した。

長政は三階級特進「オーク・プラ・セナー・ピムック」上から2番目の位を授かった。

1626年の正月は、毎日王宮に参内しタイ宮廷語を操り、ソンタム王や側近の高官と日本の軍法や、中国の「四書五経」など話す。

そして王位継承は、弟に譲る慣習を世襲にすべきと説き、・・・王は王子に譲る決意をした。・・・王位継承争いに巻き込まれる・・・。

 ・・・長政は年中戦争状態だったわけではなく、数隻の船を持ち貿易で活躍している。

1624年にオランダ商館が長崎にできて、これ以後の記録が残っている。

長政の持船が持ってきた鮫革は品質が最優秀、大鹿皮、香木などもあり、自国の荷よりはるかに高値で売れた。

その後自国の船に長政が運賃を払って長崎まで荷を載せることも、特例(シャム王の有力者であり)として認めざるを得なかった。

艦首に巨砲が2門、舷側にも各8門の大砲、計18門を備えた軍艦が日本人町の造船所で完成している。

(戦艦図)浅間神社

甲板上中央に銃を横たえた武士が見え、その奥に扇を持ち立っている人物が長政でしょう。

1626年、浅間神社にこの軍船を描いた戦艦図が絹地に描かれ奉納されている。

これは1788年に焼失したが、8代将軍吉宗が見たいとのことで江戸城に運んで吉宗に見せた。

その際模写されたものが1923年(大正12年)発見され現在公開されている。

この頃が長政の絶頂期、日本側や長政の船が、オランダ、スペイン、ポルトガルより10倍の物資をシャムから買っていた。

オランダ商館は競争に負け事務員1人を残し引き上げた。

・・・

1628年12月12日ソンタム王38歳で亡くなる。

宮内長官オーヤー・シ-・ウオラ・ウオン(長政より10歳年下、父は侍従、叔母がソンタム王の母后、粗暴で残虐、親王の殺害未遂で入牢も・・・戦功を上げ・・・言葉巧みに、近年宮内庁官になった)による毒殺だった。

宮内庁官は15歳の王子を王座に就かせ、謀反の罪で政敵の陸軍大臣、騎兵隊長らを処刑、

・・・王から 陸軍大臣を受けてもよろしいです と進言し、自ら陸軍大臣(オーヤ・カラホム)となり、以後陰謀で15歳の王子を始め王の系譜を抹殺します。

陰謀にあとから気付いた長政は、日本人町の維持も重要で、王宮には病気を理由に参内しなくなった。

・・・

バンコクから南に1100㎞、マレー半島のシャム湾の南に位置し、大寺院があり、良港もあるが、隣国はマレー語の回教徒・・・当時リゴールと呼ばれ、現在はナコン・シー・タマラー。

下図の赤枠の部分が、ナコン・シー・タマラー

陸軍大臣(オーヤ・カラホム)の最後の仕上げは、紛争状態のこの地の長官を処罰し、

新長官に長政を送り出しアユタヤに戻れなくする、戦争による戦死、あるいは刺客による暗殺も狙っていたでしょう。

陸軍大臣の依頼を断る長政に、王からもたっての依頼を受け、・・・沈静化したらアユタヤに戻る約束で承諾した。

・・・「六昆(リゴール)王 山田長政」と書かれた書物は、著者「江碕惇」氏によれば正しいとのことです。

「シャム国の王となり、王女と結婚した」・・・シャム国の王は間違い、

宮中で幼王の手で金字塔型の冠を長政に冠した・・・この異例中の異例で、冠を頂いたものはいなかった。

初めて長官兼リゴール王として王冠を戴かせた

嬉しそうでない長政に王からの贈り物、黄金の鉢、剣、国王の用いる調度品の数々を贈呈した。

・・・山田長政は、マレーシア国境のパッタニ日本人町と連絡を取り、現地に向かった。

長政が不在になると、幼王は法門で勉学が必要と宮廷から出され、陸軍大臣が二人の支配者はいらない・・・在位38日で幼王処刑

1629年3代将軍家光の時代に 陸軍大臣が、プラサート・トーン王と称した。

・・・一方、長政はやがて時が来て、バタニー軍 7万が 異教徒撲滅と攻め込んできた。

リゴール軍 4万、アユタヤからのシャム軍 6千日本人部隊 4千(パッタニ日本人軍1000人含む)

異国の地で4000人の日本人部隊が、4万人の外人部隊を指揮する・・・長政の指揮統率の能力がいかに卓越していたか、日本人がいかに勇猛果敢であったかがわかる。

日本人町所有の軍艦中心の日本水軍は、バタニー水軍を全滅させた。

七日七晩死闘の結果、バタニー軍は再起不能、リゴール軍の大勝利に終った。

しかし、長政も足に敵の矢傷を受けた。

・・・アユタヤ経由で大御所秀忠・三代将軍家光あてに出した国書と貢物への返事を持って、腹心の明智五右衛門が日本から帰って来て、アユタヤ経由六昆城へ到着した。

将軍よりの親書は王朝の大臣に届けました、日本人町の話ではカラコム(陸軍大臣)が幼少の王を殺して王位についているそうです

・・・長政は幼王宛て報告書を、「バタニ―軍を破った今、一日も早くアユタヤへ帰り・・・」

カラホムのチラーヤ王は報告書を読み驚愕した。

リゴールへ追い払えば長政は戦死か暗殺されるだろうと確信していた。・・・このままでは大軍を率いてアユタヤへ攻めてくるであろうと戦慄した。

アユタヤの王宮の人々は、この報に沸き立った。

・・・チラーヤ王は、心とは裏腹に貴族と重臣会議を招集し、新六昆総督王の武勲に最高の恩賞贈与を決議した。

新六昆総督王には、王の妹と称し別の女性を仕立て美女達と商品の行列が六昆城に向かった。

・・・リゴール前長官に城に出入りすることを許し、別名で密書を贈り「長政の暗殺を指示した」

王の妹と鍬する女性は長政を信頼しており、密書の情報を長政へ伝え、自分も毒殺を指示されてますと伝えた。

長政は前長官を牢獄に投じた・・・長官の弟は医薬の心得があり足に負傷後は城内に留め治療にあたらせていた

祝宴の翌日八月の末、長官の弟がの治療の時間ですと膏薬塗布して下がった。

長政は全身に痙攣(ケイレン)を感じた。

足はマヒして動かない。「やったな!」声だけは出た。大声で側近を呼んだ。

まず六昆を治めよ。守りきれなかったらカンボジア王と日本人町を頼れ。

しかる後、必ずアユタヤへ攻め入ってカラホムを倒せ。アユタヤの日本人町は何としても護り抜け・・・1630年8月末没40歳の生涯だった。

・・・18歳になったオクン、一人息子がいた。

ほくそ笑んだ王は・・・長政はバタニ―軍との戦闘で戦死したとし、大聖骨寺院に葬った

ファン・フリートの「革命史話」には、「長官は最大なる歓喜と光栄を感じ、その幸福が絶頂に達した時、不幸をまた最も近づき、

諸人歓喜に満ち少しも不幸の接近に気付かなかった時、オプラ・マリットは彼の脚に毒の膏薬を貼って毒殺した。これによって彼は数時間後に死亡した」と書かれている。


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今から400年前

2018-06-03 | 旅行記

後に山田長政と名乗る人物は、1590年尾張で生まれた。

母は夫と死別後、実家の駿府へ戻り、紺屋を営む山田家の跡取りに入った養子と1593年再婚しています。

従って長政は3歳から駿府育ち、10歳で地元徳川家康軍が大軍で豊臣軍を討ち破った話を聞くことになったでしょう。

近くの臨済寺で学問を学び、家業の紺屋に関心は無かったようで、ひそかに町道場に通う少年時代、体格も良く、雄弁で、織田信長の血筋と周囲にほらを吹いていた。

・・・倭寇(ワコウ)という言葉があります。

倭は日本・日本人、寇は賊、外敵の意味、・・・13~16世紀、朝鮮、中国の沿岸を日本の海賊が荒らしたことに対する朝鮮、中国側の呼称。

さて、当時の日本国の国情は、ヨーロッパ人がこの国の文化に感銘を受け国体から食事の作法まで多くの情報を本国に送っています。

ライフ 人間世界史No.20 EARLY JAPAN から引用しましょう。

瀬戸内海や北九州の海賊が朝鮮・中国の沿岸部を荒らしまわり、何も対応できない朝鮮や中国にあいそをつかした沿岸部の一部の人々は日本船の乗組員として働き、・・・密貿易が繁栄します。

結果、西日本の大名にも富が流れ込んできます。

倭寇は、フィリッピン諸島、シャム、スマトラ、マラッカ海峡まで進出し、各地に日本の植民地が建設されていました。

これらの地で平和的に貿易が行われたが、現地の政治闘争にも、攻撃的で武力に勝る日本人が影響力を行使しています。

・・・ところが世は大航海時代に突入、1513年ポルトガルの船が中国に初めて到着します。

小型帆船に手漕ぎの倭寇船団が往来する中に、大砲を積んだポルトガル船が現れ・・・勢力図が変わってきます

中国人の密貿易者も多くなった時期に・・・中国の船が種子島に漂着し、中国人の中に三人のポルトガル人が乗船していました。

彼らは島民に鉄砲を撃ってきた。1543年のこと。

 島の領主、16歳の種子島時尭(トキタカ)がポルトガル人を手厚くもてなし・・・鉄砲2丁を銀2000両(数千万円~1億円)で買い取ります。

ポルトガル人は商人です、日本は金持ちと思ったのでしょう、後に大量の鉄砲を持ち込みますが・・・当てが外れて売れなかった・・・何故でしょう?

・・・種子島時尭は買い取った鉄砲の1丁は家宝に、もう1丁を分解し構造を学ばせます。

火薬、使い方・・・そしてネジの機構をポルトガル人に学びます。

・・・浜辺の砂鉄を利用して、刀鍛冶が苦労しながら、・・・翌年には国産第一号が完成。

種子島(鉄砲)は、堺(大坂)、国友(滋賀)、根来(和歌山)と生産地が広まり・・・独自の火縄銃が生産されていきます。

10年後には、需要があるので日本各地で製造され、・・・ヨーロッパの保有数を上回る30万丁とも言われます。

1575年の長篠の戦では、織田軍で1000丁以上(これまでは3000丁と言われていましたが)の鉄砲が使われたといわれます。

(火縄銃は1丁約数十万円と刀剣よりかなり安価で、鉄砲隊は短期間の訓練で実戦配備ができた)。

関ケ原の戦いの前には、世界の50%以上の保有数で性能もトップクラス・・・輸出もされています。

・・・関ケ原の戦いの前に、大分の臼杵湾に大きな帆船が漂着しました。

(堺市博物館 リーフデン号復元模型)

アフリカを回り遠洋航海、5艘の船団だったがやっとたどり着いた日本・・・生存者はわずか20数人、

日本に最初にやってきたオランダ船 (当時は神聖ローマ帝国です)「リーフデ号」300トンです。

イエズス会の人々は海賊だ処罰をと進言するが豊後の大名は、紅毛人(コウモウジン)と呼び彼らを歓待した

この船の水先案内人が、日本に来た最初のイギリス人、ウィリアム・アダムス、もう一人のオランダ人ヤン・ヨーステンの二人を徳川家康が招いた

彼らの情報は、ポルトガル宣教師らの内容と異なりカトリックプロテスタントの宗教戦争を知ることにもなったのでしょう。

やがてアダムスら二人は家康の外交顧問となり、その後多くのオランダ人がやって来て、九州・平戸を貿易港として使用することが許されます。

・・・さて徳川家康が関ケ原での大戦で大勝し、1603年朝廷より征夷大将軍の命を受け・・・武士のトップになり・・・終戦・平和な世となるのでしょうか?

いやいや、秀吉の息子と豊臣方の象徴大阪城の攻略が悲願であり、思案していました。

一方、石田三成、小西行長ら敗者の残党の中には、他国で一旗揚げようと南方に渡った者も多数いました。

家康は征夷大将軍になると同時に、対外貿易を始めます。

朝鮮との仲を回復し、安南(台南市)、ルソン(フィリピン)と交易を開始し、渡航は許可制として朱印状を授けます。

(史実 山田長政 江碕 惇)によれば、

1604年8月にシャム居住の与右衛門にシャム渡海の朱印状を授けた。

大阪城攻略には大砲が役に立つ、その砲弾には火薬・・・シャム産の火薬(焔硝エンショウ)は良質だった。

・・・長政の駿府にも海外渡船を許された商家が10件弱あった。

大名では、島津忠恒、有馬晴信、加藤清正、亀井玆知、細川忠興、長谷川藤正など。

商人では田辺屋又左衛門、今井宗忠などなど。

家康は長崎の豪商・木屋弥三右衛門に命じ毎年シャムに船を出し、シャムの宮廷にも出入りさせて、鉄砲、硝石(火薬の原料)、鉛などを買い入れさせた。

時の最先端の世界地図です。日本の国土にも、ヨーロッパから測量船が来てこれだけ調べたということでしょう。・・・伊能忠敬が活躍するのは、まだまだ先のことです。

山陰因幡の領主(亀井)が貿易で利益が上がることを知り、配下の者に長崎で300トンの帆船を建造させます。

懇意な老中より朱印状を手に入れ、京都、堺、大阪で物資を購入、領内の農民・漁夫をかりたてて水夫とし、シャム、カンボジアに乗り込み多大の利益を収めた。

その後数多くの貿易船を各地へ派遣しています、国内での造船が間に合わなくなり、現地での製造も依頼しています。

亀井家に現存している3通の文章のうちに、1606年家康が鉄砲20挺をシャム王に贈り、答礼としてシャム王が鉛千斤(約600kg)を贈った記載があります。

鉛は鉄砲や大筒の砲弾として貴重な輸入品でした。  家康が攻略目標の大阪城・・・大坂冬の陣まで8年でした。

以後1618年までに34艘の船に朱印状を与えている。

 ・・・さて、山田長政は、大阪に出向き北風が吹く時期に出帆する船をチェックし続けていました。

駿府の商人太田治郎右衛門、滝佐右衛門の仕立てた大宛(タイワン)行きの船、富士丸(400トン、長さ40m、幅12m内部に座敷が三つ、風呂の設備もあったそうです)

が晩秋になり大阪港で積荷が完了し、北風を待っている時・・・水夫姿の長政は出帆直前に潜り込みます。

・・・出帆後、大宛(タイワン)まで連れて行ってと名乗り出て・・・断られると・・・船主にも違法乗船の責任が及ぶと脅します。

しぶしぶ承諾させると・・・操船、水夫仕事も覚えようと積極的に仕事を手伝いながら長崎経由、大宛

そして大宛(タイワン)、ここでシャム行の船を待ちました。

・・・長崎から着いた豪商・木屋弥三右衛門の船に交渉し、アユタヤの日本人町に乗り込んでゆく。

長崎からシャムまでは船賃、銀50匁(約150g)・・・米2石(360リットル)≒米285kg、サァ 米換算で 10k≒1万円とすると・・・28万円位 

金と日本刀を持ち込んで密航したので、木屋さんには船賃を支払ったのでしょう。

 

当時(1610年頃)のシャム国は、もちろんアユタヤ王朝の時代です。

王は20歳で即位し現在25歳、オランダ、ポルトガル等との交易に重点を置いていました。

このアユタヤには、日本人町(居住地)が与えられていて、広さは東西250m、南北500m、約3万坪、ここに約2000人が居住していたと推定されるそうです。

・・・100人程度かと想像していたら2000人?

日本人の多くがシャム王の近衛兵をつとめ、戦時には外人部隊として活躍、平時は物資の買い付けや貿易に従事していました。

日本人町の北にオランダ人町、対岸にポルトガル人町、支那人町、マレー人町、コーチ人町があった。

(オランダ ヘーグ文書館 アユタヤ古図 を参考に 当時の様子を想像してみました、河川の幅は広かったようです)

日本人町の頭領はオープラ純広(スミヒロ)、オープラとは武官の位で少将、(上から3番目)、純弘は関ヶ原の戦い後単身因幡の亀井大名の指示で渡ってきていた。

(純弘は、1609年から1612年まで頭領)

アユタヤの都は、チャオプラヤ川に囲まれた(浮かんだような)東西4㎞、南西30㎞の町、デルタ上の土地にいくつか小島があり、河川が縦横に走っていた

(現在よりは湿地帯が多く、河川の護岸も洪水には弱かったでしょう)

長政は木屋の口添えもあり純弘に同居を許され、日本からの物資の積み替え、買い付けを手伝った。

日本からは、日本刀、金銀の細工物、京染の小袖、蒔絵の道具、絵屏風、銀など

持ち帰る物資は、紗(シャ)、ビロード、毛織物、豹(ヒョウ)、鹿、鮫の皮、鉛、火薬、サンゴ、メノウ、沈香(ジンコウ)、白檀(ビャクダン)、紫檀、黒檀など

しかし、木屋の船は南風が吹く翌年の春から初夏まで船出は出来ず、なお足りない物資の買い付けをしていた。

・・・25歳の王が精神に異常を起こし・・・王位継承問題が勃発・・・、策謀の疑惑で皇太子と貿易長官が処刑されてしまう。

王は間もなく亡くなり、末弟(ソンタム)が新王となった。

この貿易長官は日本人に好意を持ち、便宜をはかってくれていた・・・恩人が処刑され、仇を討てとオープラ(純弘)の号令一下、500人の日本人部隊が隆起した。

新王が寺院に参拝するとの情報で、寺院を包囲し王に三か条の要求を突き付けた。

1・日本人に敵対する高官二人の引き渡し、2.日本人に、居住、商業、貿易の権利を認めること(無許可っだったの?)、3.保証するなら数人の高僧を人質として出せ

分かり易いですネ・・・王は長政と同じく21歳、その場で3か条を承諾した(させられた)

・・・王宮に帰り、王はポルトガル兵に援助を依頼し、王の兵と連合部隊で日本人町を攻撃してきた。

長政はオープラに進言した。ポルトガル兵は大砲を持っています、城壁が無い日本人町は砲撃されたらひとたまりもない。

夜になったら脱出する、・・・1隻ある軍船に半数、残りの部隊は陸上に分かれ、約250km先の南シャムに向かった。

木屋の船でこの湾から川の上流に向かう際に見かけた要塞だった。

ここを本境地として長政は志願して軍船に乗り、水軍を指揮して神出鬼没の戦い振り、

やがて、もともと日本人に好意を持っていた王は、敵対関係を解消したく和解を申し入れた。

オープラは、和解の条件、1.チャオプラヤ河口の水上警備と、出入船の関所の管理権を日本人に委ねることを承知させた。

この河口には中洲があって船が自由に航行できなかったので、関所として関税を徴収するには最適地であった。

・・・ライバル国のポルトガルは約100年も前の1516年に通商許可を得ています。

遅れたオランダ(当時は神聖ローマ帝国)でさえ、1592年に通商許可を得てシャム産のコメを輸出していました。

日本人は・・・関ケ原の戦い後どっと増え、遅れてきた日本人が戦闘的だった面もあるようですが、

日本国の将軍にシャムの使節をたびたび派遣しているが、報告は日本人の教養・文化は他国を著しく抜きん出ているという。

貿易も信頼がおけ、信義に篤く、武勇も抜群と日本人は優遇されたようです。

・・・日本人町も再建され貿易も忙しいが、若い長政は・・・権力者は宮廷、宮廷の王に近づくには、正しくきれいな宮廷語、宮廷用語の研究に努めた。

武闘派の話題は、1212年、純広(頭領:オープラ)が日本に帰り、津田がオープラ(1612~1616年)を引き継ぐと間もなく、シャムとビルマで戦争が起こります。

長政は100人の隊長を任命され、鎧、兜、家宝の大刀を差し、背には旗指物、日の丸の下に「南無八幡大菩薩」・・・そして得意の弁舌をふるう。

日本人部隊は勇猛果敢な戦いでビルマ・ポルトガル連合軍に大勝します。

・・・ソンタム王は、自分の妹をオープラ津田の妻として与えた。(シャム王室の慣習の一つ)

王は津田に先陣の身体の大きい若い隊長は、名を何というか・・・彼に、一代限りの官爵名「オーク・バン」6階級の一番下の位を授けた。

宮中で、山田長政は王の前で任官式を行った。・・・今後姓名では呼ばず、官爵名で呼ばれることになった。

・・・アユタヤは水の都、陸路は無く、日本人町の間でも百位の船を所有していた。

オープラが津田から城井(1616~1620年)に変わるころ長政がかかわり大軍船を建造します。

長政30歳、駿府を出てから10年、1620年10月日本人町の頭領になります。

 

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