気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

モンサン・ミッシェル修道院

2013-03-28 | 旅行記

天候は曇り、時々青空が雲の間から顔を出す、雲の流れが早い。

・・・階段左側を登って行くと、途中で建物に突き当たる。

右に曲がると数メートル先が別の建物の壁(修道院)、その一角に入場券売り場。

かつて英仏100年戦争が続き、この島もイギリス軍に長い間攻撃され、この建物は要塞化された。

ここは修道院の入り口、「哨戒の間」と呼ばれた。(パンフレットより)

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左側が入場券売り場、日本語のパンフレットを頂き、左に曲がりさらに階段を登って行く。(上の写真の中央白いパネルの左側)、(団体7?(ユーロ)、個人は9?)

写真の右側が、修道院の奥から出口へ出てくる人々。ここまでが階段中央を手すりで分離されて各々一方通行となっている。

入場し階段を少し登ると、空が開け、両側に建物が並んでいるのに気がつく。

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左が修道僧の2階建ての居住棟。14世紀から16世紀に建てられ、歴代の修道院長の住まいとして使用されていた。

居住棟から隣の建物に渡り廊下が架かり、ここを渡ると最短で教会に行ける。右側は3階建ての修道院、この3階部分(最上階にある教会)とつながっている。

居住棟は南斜面の岩山傾斜地に建てられていて1階部分が、右側の修道院の2階部分と同じ高さになる。

階段途中、右側の壁に大きな蛇口がある。

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この壁の内側は、雨水を蓄えるタンクで、7か所あるそうです。

この階段を登りきると、標高80mの山頂、左側に小さなテラスがある。右側の修道院付属教会に入り、側廊を左側(西の方向・出入り口)に進む。

山頂にしては広いテラスに出てきた。・・・予想以上の眺望に驚くが、景観としてはあまり特徴のない入り江が広がっている。

南の端に進むと、シャトルバスに乗ってきた陸地側が眺められる。Dsc_0297

写真の上部、右上から流れ込んでくる河川がある。クエノン川と言うそうで、川の右側(西)がブルターニュー、川の左がノルマンデイ地方。

中央やや左上から右下に橋の工事中・・・、完成すると海に囲まれた島!・・・という感じになるでしょう。

テラスで振り返ると、標高80mの岩山に建てられた修道院の教会ファサード(正面)が現れます。

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パンフレットによると、このテラスは当初の教会の前庭と、18世紀の火災で焼失した身廊(ミロウ)前部3列で構成されていますと書かれている。

前部3列?、その後ろの席は?・・・ 多分、後部から3列の誤字じゃないかナー。それとも祭壇が西にあった?

・・・プラットフォームのようにコの字型で高くなっている両サイドが、旧教会側廊(ソクロウ)の床・土台の跡?、後部から3列部分と推測しますが・・・。

いずれにしてもテラスが広くなり、多くの参拝客がこの広場で順番を待ったのでしょう。

教会ファサード(太陽光が最も強くなる西日に面した正面)は、1780年に再建されているので建物の中では比較的新しい。

そして、ファサードの少し左横から、尖塔部分を見上げる

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本堂の奥、内陣と呼ばれるところの上に1897年とさらに後年に建てられた鐘楼があり、

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その上の像は、剣を持っています。この教会の最高地点、尖塔部のミッシェル像(仏語)、天使だそうです、女性でしょうか?

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これは、南の道路から見上げた正面から見た姿、聖ミカエル像は銅製金メッキとパンフにあります。

このような広大な湾の一角で周囲を海に囲まれた小高い岩山、聖地とは皆このような近寄りがたい場所が多いですネ。

平らな海面から飛び出した山の上に教会を建て、たかく高く神の国、天にも届けとさらに尖塔で飾る・・・当然、雷は落ち易いです、その結果、火災にもなります。

度重なる落雷に、悪魔、ドラゴン・・・、何故このような苦難に・・・と、祈ったでしょうが通じません。ヤハウェ、イエス・天使からのアドバイスがなかったのでしょうか。

・・・金メッキの聖ミカエル・尖塔部分は、ヘリコプターで据付けられたそうですから、戦後の取付けですネ。この時に、当然避雷針も取り付けられていることでしょう。

教会に入ろう、身廊を進み奥の内陣に進むと、天井がひときわ高い。

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ロマネスク様式(ゴシック建築と呼ばれる前の10~12世紀頃の建築様式・・ローマ風のという意)内陣は、1421年に落雷や戦争で半壊してしまう。

英仏100年戦争に勝利した後、16世紀現在のように再建された、以前17mだった天井は25mまで高くなる。

長い戦争の時代が続いたが500年の時間の経過は、建築技術も進歩した。尖頭アーチ構造でもっと高く、そしてもっと光を・・・ステンドグラスから柔らかい光が内陣に差し込んでくるようになった。

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内陣にある祭壇の左手前の床に、丸いガラスがはめ込まれている。(中央左・緑色の部分)

この下、2階の太柱の部屋の天井で(順路は一方通行なので忘れたころ)見上げると、この丸ガラスが見つけられる。

この修道院・教会は、フランス革命で室内の高価なものは略奪されてしまっている。長きにわたって建て増しが続いた建物が主体の見学となる。

・・・多少当時の偶像も残っている。左の台座の上に中世の聖ミカエル像が、

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ドラゴンを足で踏みつけ、左手に天秤ばかりを持っている。

・・・他の宗教を認めず(一神教)、カトリック教を広め、信者を増やし、教会を維持するためには、偶像崇拝も解禁し、イエスやキリスト教を発展させた弟子以外に、天使の像まで登場してきた。

天使にも階級がつけられ、ミカエルは天使の軍団長であり、最後の審判では審判するキリストの補佐役として、心臓の重さをはかっている。

軍団長、武力に優れた・・・男性のようです。

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素朴な聖母子像、時代が感じられます。そして壁に磔刑像も

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キリスト教も、仏教も当初は固く偶像崇拝を禁止しています。

布教には、イエスの起こした数々の奇跡や、癒し、そして昇天や復活を説いていたそうですが、集団になり教会ができると・・・、教会の維持・発展が目的になるでしょう。

信者を増やすには話して聞かせるより、視覚に訴えるのが洗脳させやすい。人間を超越した神、・・・偶像崇拝。

しかし磔刑像はタブーでしたが、693年教会から教令が出されたそうです。十字架と子羊の宣伝OK。

このような拷問の絵画もありました。

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正面入り口方向を振り返ってみよう。この本堂の天井も高い。

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始めてみる質感の天井だ。高さは当初の内陣と同じ17m。出来るだけ軽量に仕上げるため天井部は薄い板張りで見事にアーチを掛けている。

そういえば、この島の民家の屋根も板張りが多かった。

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ノルマンディ地方の祖先は、海で暴れた北方のバイキング、板張りの造船技術が発揮されています。

この山は、聖堂・教会・修道院・修道僧の住居棟と改築、増築を繰り返してきました。

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「内部の展示模型より」

岩山にアヴランシュのオベール司教が円形の聖堂を建てたのが、708年。

オベール司教に選ばれた12人の修道士でスタートとなったようです。

模型にある966年は、この地を支配するノルマンディ公がベネディクト会の立派な修道院として建替えた。長さ30m、幅12m。

祖父はこの地方を荒らしたバイキングのドン。後に何とノルマンディ公となる・・・そんな訳で縁あるこの聖地、前任者を追い出しベネディクト派の修道僧30人をスカウトしてきた。

996年に火事があり教会は大きな被害を受ける。

古い教会の上に1023~1060年頃にかけて、教会は高さ17mとさらに大きく建立された。しかし支えている下の柱の強度不足で崩壊したり、火災にあったりしている。

東面の修復、地面から3階まで建物を建て、各階を岩山に固定して3階部分が、教会の最深部・内陣となるように改築される。

1階は、厚い壁で、その上の2階は太い丸柱を密集して強度を持たせ、更にその上3階部分にアーチで重量を分散する内陣を載せました。

その後13世紀、フランス王の寄進で修復された時、左側(北)の斜面に3階建ての建物が2棟改築された。上層部を軽く、下層部は太い柱でしっかり支える。これが、ラ・メルヴェイユ(奇跡)と呼ばれ有名になった建物。

、更に後年右側に修道僧の居住棟が建ち、これら周りの建物が寄り添う形で教会を支える・・・ほぼ現在の形が出来上がりました。

この頃十字軍の遠征が続き、ヨーロッパ全土でキリスト教巡礼者も熱くなっていました。当時世の中は聖職者・戦士・農民と三つの階級があり、それら人々も貴族・金持ち・貧乏人と階級ができていた。

多くの巡礼者がモン・サン・ミッシェルを目指した。

14世紀は英仏100年戦争、修道院は閉鎖、城塞となります。

戦争を乗り切ると大天使ミカエルへの崇拝は高まり、教会も修復され、巡礼者が押し寄せます。

そして世はルネサンスへ、そして宗教戦争へ(カトリックの教会はプロテスタントから攻撃を何度も受ける)

フランス革命後、囚人を送り込まれる監獄として使用された。

1874年から修復が開始され、1979年ユネスコの世界遺産に登録される。

・・・・・

教会から北側に連なる建物に移動しよう。

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中世に広まった修道僧、瞑想のための回廊・・・ここからラ・メルヴェイユ(奇跡)に足を踏み入れる。

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モンサン・ミッシェル観光

2013-03-23 | 旅行記

景観と参道のお店が人気のフランス西部の観光地、モンサン・ミッシェル。

パリから西へ350㎞、(東京-名古屋間位)高速道路を4時間も走るこの観光地は、遠いのであまり乗り気ではなかった。

家族の計画で強く望まれ、天使の山も一度は良いかと参加した。

2月上旬朝早くパリを出発

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この時期パリの日の出は遅い、左はセーヌ川、エッフェル塔を左に見て西へ向かう。

反対車線は、市内に向かう通勤の車で渋滞している。天候は変わりやすく曇り時々小雨。

そして走ること3時間強・・・ノルマンディー半島の西側サン・マロ湾に近づくと、高速道路の左側の高台に・・・・・高い城壁に囲まれている古い街並みが現われた。

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ここが、アヴランシュの街・・・これから行くモンサン・ミッシェル誕生に貢献された人が住んでいたという街

間もなく、高速を降りる。曲がりくねった道、のどかな農村地帯、羊が群れる牧草地を横に見て進む・・・前方に見えてきました。

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モンサン・ミッシェルは河口の先に突き出た小島で、この一帯はヨーロッパで最も潮の干満の差が大きく最大では15m以上にもなり、大潮では沖合18kmまで潮が引くそうです。

巡礼者は引き潮の時に島と行き来していたが、満ち潮になると潮の押し寄せるのが速く、溺れる事故も多かったそうです。

そこで1877年、島との間に巡礼者や観光客の利便性のために道路が造られた。

・・・すると海流の流れが変わり、その結果最近では2m以上も砂が堆積し、海に浮かぶ要塞とも言われたかつての小島の景観を見ることが少なくなってしまった。

この島は、フランス有数の観光資産です。今ある道路を撤去し、橋を架ける工事が進んでいます。

山頂の修道院テラスからの写真を後ほど。

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そこで車は以前のように島まで進めず、手前の地区で駐車。

ここからシャトルバスで(徒歩も可能)の島見学となる。

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1979年にユネスコの世界遺産に登録され、年間300万人以上の観光客が訪れる。
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島の西端、このように堆積物が増えている。

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人の住まない小島に、天使ミカエル(仏語:ミッシェル)を祀る小さな聖堂が建てられる。

その後バイキングにたびたび襲われるが守り抜き、やがて大きな修道院に改築され、英仏100年戦争もあり、このような城壁で囲まれた。

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さてシャトルバスを降り、少し歩くと島の南西に城壁の入口があり、この門(前哨門)から中へと入ります。

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入って右に折れ、城壁に沿って英仏戦争時代の大砲を横目に進むと二つ目の門(大通り門)があります。

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この門の先、左にマスコミが盛んに宣伝する店が見えてきた。

その先には、比較的大きな三つ目の門が見えている。

名物オムレツの店、メール・プラール(プラールおばさんの店)が参道脇で大きなスペースを占めていた。

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メニューは、・・・高い、 ・・・観光地ですから、一元客相手に稼がなくちゃ?。

先程、シャトルバス発着所近くのホテル・レストラン街で、ふわふわオムレツを味わってきた。

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十分に泡立てた卵の外側をしっかり焼いて、色も見た目のボリュームも満点だが、中はあっさり泡・空気・泡・・・特徴があり話題になる料理ですが、・・・想像がつきますネ、

今ではどこの店でも提供している。

さて城壁と反対側、ホテル横の狭い階段を登る。

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斜面に小さなホテルや住居が点在し間を縫うように階段が続く。

プラールおばさんの墓もあり、その階段の先には、かつて村の小学校だった建物などもある。

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この付近は山麓の中段、斜面のすぐ上に修道院の建物が築かれている。

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上の写真で、中央やや右に階段があり建物内部に続いています。階段中程で右側の修道院の一角で入場券を購入し先に進むことになる。

城壁の右側は修道院です。

中央階段の左横、建物との間の通路を奥の方から進んできました。通路下の壁面に・・・、坂道を少し下ってみよう。

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大きな磔刑像

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ここは広場になっている。その横は坂道で、参道になっている。

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少し下ると土産物屋・宿家が立ち並んでいる。

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そして平地まで下ってきた。

南斜面に建つ民家の間の階段を、修道院入口まで登り、周回して参道の坂道を下りてきた。

正面が渡り廊下を持つ三つ目の門(王の門)。

左右は、日本人観光客がたくさん購入する有名なクッキーの店

もう少し戻ると、ふわふわオムレツ発祥の店

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さて、これから修道院の内部見学に再度参道を登ろう。

参道途中にある教会? サン・ピエール教会、気がつかなかった。

参道中程の左横、斜め横の高台に、小さな教会がありました。

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入り口横の銅像は?剣を持った大天使ミッシェルでもなく・・・、壁の左端の像は教会と違和感が無いが・・・

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優しい聖母子像

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剣と鎧に身を包んだ乙女、ジャンヌ・ダルク・・・なぜここにあるのでしょう。

この教会は、11世紀頃から岩山を掘り下げ、洞窟を利用し・・・完成したのは17世紀。

この銅像の乙女は、暗黒の時代とも言われる中世に生を受けた。当然のように熱心なカトリック教信者になる。

13歳のある日、光の中から神の声を聞く、・・・時は後に英仏100年戦争と言われた時代。

何度となく、神の声を聞いた。大天使ミカエルの声も聞いた。

17歳ジャンヌは、天の光の中から啓示の声を聞いた。「・・・シャルル王子を戴冠させ、フランス王にせよ」と。

神の声に洗脳されたジャンヌは旅立つ、そして、途中サンカトリーヌ・ドゥ・フィエルボワの教会で、初代フランス王が使ったとされる幻の剣を神の声で発見する。

残るは身を守る鎧が必要だった。職人の街トゥールで鎧を特注させ身に着けた。

歴史に残る最初の記録があるという。

「オルレアンの囲みを解いて王太子をランスで戴冠させるために王太子のもとに行く、と語る乙女がシアンの町を通過した・・・」

この噂は町々に広まった。仏軍の士気が上がり・・・ご承知の通り、英仏100年戦争にフランスが勝利し、ジャンヌ・ダルクはヒロインに・・・

そんなフランスの守り神、ジャンヌ・ダルクにこの山の守護を願うのか。

それとも英国軍に売り渡され魔女と判決され、火炙りの刑にされた・・・炎の中で「イエズス様」と叫んだ19歳の無念の霊を祀るのか。

磔刑よりも残酷な火炙り、公衆の面前で生きた生身の人間を火炙りにする、カトリックの信者としては辛い、焼かれて灰になることは最後の審判で復活できる身体が無くなってしまうこと。

魔女を多く輩出したイギリス・・・、イギリス軍の連中は、公衆の面前でジャンヌが確かに灰になるのを見届け、その灰をセーヌ川に流したという。・・・復活・生存説を恐れ完全に抹消した。

大天使ミカエル(仏語:サン・ミッシェル)の銅像も教会内にある。

ミカエル繋がりで、ジャンヌ・ダルク像が建てられたとしましょう。

あまり興味のない空想の大天使よりは、実在したジャンヌの像を見ると、考えてしまう。

…処刑を想像してみるが・・・平和ボケした頭では、残酷さに怒りが沸く。・・・しかし当時の尺度で推測する・・・、無実の魔女の火炙りや18世紀のマリーアントワネットのギロチン刑など残酷なことはショーとしてよくあったのでしょう。

為政者が民衆に対する見せしめに効果のある演出を考える、為政者に対して不満が多い民衆にとっては、罪人の悪行と処刑の日時・場所を公開すれば、赤の他人の処刑はストレス発散・祭事となったのでしょう。

パリ市内にジャンヌ像は数か所、

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これはルーブル美術館横のピラミッド広場、黄金のジャンヌ・ダルク像

この向いている方向は、ライン川の先南西約130㎞オルレアンと言われている。

1431年5月30日処刑、それから25年後母親の訴えで裁判はやり直され、ジャンヌの名誉は回復された。

1803年ナポレオンが忘れられていたジャンヌ・ダルクの英雄伝説を話題にし、・・・ジャンヌはフランスの英雄となった。

1919年ローマ教皇庁がジャンヌを「聖女」と認めた。

ジャンヌの像は、パリ市外にも数多くありベルサイユ宮殿にも置かれている。

ジャンヌ?、本人が裁判で名前はそう呼ばれていたと証言している。他には、ラ・ピュセル(乙女)、ジャネットとも呼ばれていた。

父親はジャック・ダルクだったので、死後「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになったそうです。

・・・

サァ、修道院の入口へと急ごう。

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桜咲く

2013-03-18 | 旅行記

3月になって真夏日があったりで、一気に桜の開花が進んでしまった。

ここはもう満開

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江戸城?

天守閣がある・・・

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もう少し高台から

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海と半島、春うらら、・・・全国どこにでもあるような風景です。

山国ですから、少し海岸から山を登ると

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湯煙

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ここは

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仮設店舗、・・・大型バスの駐車場などを拡張工事中

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そして、西方には

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よくわからない・・・気温が上がってしまった。

今年の1月中旬の様子です。

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富士山!

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ここは

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箱根、大涌谷、

昨秋、某ホテル従業員のお勧めの神社が

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九頭龍神社新宮、この左隣が

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箱根神社です。

(九頭竜神社本宮は、湖尻の遊覧船駐車場から、1㎞強、その近くに白龍神社もあります)

雪の季節はスキーも良いが、やはり春が過ごしやすいですね。

昨今の話題は、システーナ礼拝堂でのコンクラーベ、・・・イエズス会から初の法王誕生!

エッ 話題になってませんでした。

ところで、モンサンミッシェル!なぜ、日本の女性に人気があるのでしょう?

イエスも弟子も祀られていない・・・、ライトアップされた景観が有名な観光地、・・・家族の付き合いで山頂の修道院を見学してきました。

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別途

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ユングフラウ鉄道

2013-03-14 | 旅行記

赤い電車はユングフラウ鉄道、現在地は

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緑の線路をを登山電車で登ってきた。そして中央の駅がクライネ・シャイデック。

右側の青のラインも同じ鉄道会社で、どちらからのルートでも同じくらいの時間で登って来れる。

しかし、登って来た電車が峠の駅で停車し、その先反対側に降りていく事はできない。

山の勾配に合わせた登山電車はその向きが変わらないように登ってきた線路をそのまま降りていくそうです。

ユングフラウ鉄道全線開通100周年、・・・2012年のことでした。この記念にカラー30頁のパスポート小冊子日本語版を乗車時にいただいていました。Photo

この中の路線図が一番わかりやすいので、再確認しよう。

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Aの路線が、ユングフラウ鉄道(JB)で、クライネ・シャイデック⇔ユングフラウヨッホ間

Bの路線は、ヴェンゲルンアルプ鉄道(WAB)、緑と青の路線

C,D,E,F,Gの路線もユングフラウ鉄道グループの運営で各種割引キャンペーンがあるようです。

年間70万人もの観光客が、このスイス、標高3454mヨーロッパ最高地点の駅ユングフラウヨッホ目指して来られるわけですからサービスしなくちゃ。

さぁ、スキー場から戻り、線路を渡り駅の裏側(南側)に

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山腹を右から左に何やら動いている、徐々に大きくなると・・・赤い電車が下ってきた。

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大きくカーブして、小振りのかわいい電車が近づいてきた。

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ご覧のように、雪は舞い降りていないが空も山もスノーホワイト、アイガーもメンヒもユングフラウも雲の中・・・残念

AM9時半、ここから約50分でユングフラウヨッホに到着する。

・・・別途、100周年アトラクション 3Dシアターなど放映されていて、編集中・・・

PM1時過ぎこの地点に戻り、昼食・・・

すると視界が開けてきた。

目の前にアイガーが・・・こちら側があの北壁になる。

登頂ルートとして最難関のあの有名なアイガー北壁が見えてきた。

パノラマにて

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左端がアイガー、中央にメンヒ、右の雲の中にユングフラウが

この左側はこのような感じ、

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そして、1Fにレストランも入っている クライネ・シャイデックの駅舎の南側全景です。

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こちら側にもスキー場があり、赤い電車で1つ目の駅、アイガーの麓 アイガーグレチャー駅(標高2320m)からも滑れる。

そして、この駅の目の前、この人は何をしているのでしょうか?

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写生中? 日光浴? 昼寝? 

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この合板製のソリは、売れ筋のようです。

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このデザインは、キックボードの様な・・・それにしても接地面が細長い、標高が高く、締まった雪質だから沈み込まないのだろう。

日本では降雪が少なくなった3月、氷点下に冷え込んだ午前中、野山の雪面が固く締まった同じような状態になる。

この乗り物は大きく体重移動ができ、急なコーナーも曲がれる・・・面白そうだ。

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先程の人は、これに座っていた、そしてクライネ・シャイデック駅前から、ラウターブルンネン駅方面に長距離を滑り降りていくのだろう。

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午後から絶好のスキー日和になってきた。

スキー最高!



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2,061m

2013-03-12 | 旅行記

2月中旬から咳と微熱が2週間、早寝で悪化はしないがスッキリせず、冬越し初挑戦の胡蝶蘭も3鉢元気がなくなり、・・・春が待ち遠しいこの頃です。

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トンネル内の写真?

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そうなんです、電車から降りて線路上を歩いています。

かなりの急こう配で線路の間に、ギザギザ歯車のラックレールが走っています。

電車は最後尾で、客車を押して走るスタイル。客車の横を歩いて先頭まで進む。

救援の電車らしき車両に乗り移り、少しはホッとする。

「小さい峠」という意味の独語 クライネ・シャイデック駅に向かっているところだった。

間もなく、暗いトンネル内を抜けるとそこは雪国だった。

・・・訂正、この登山電車に乗るときも雪国だった。

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インターラーケンのホテルを朝早くバスで出発し、山道をグリンデルワルトの街までやってきた。

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登山鉄道に乗るには、この駅(グリンデルワルト・グルント)が広く利用されている。

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左の三角屋根が駅舎、正面がKIOSK、右が改札、2Fがレストラン

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駅員の横に、胡蝶蘭が咲いていた。夜間の温度管理が大変難しいが・・・

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2Fレストラン横から、ホームの風景、電車が入ってきた・・・

余談(朝食は持込みで、サンドイッチとジュースとフルーツ、そして高山病対策に有効らしい甘いチョコレートバー)

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さあ、この電車に乗り込み席を探していると、後から中国人の団体が駆け込んできた。

マナーが悪いのは有名で、添乗員も同様のようだ、ハンドマイクで乗り遅れないように怒鳴っている。

後ろの座席が中国人で埋まった、大歓声、そして雑談・・・、1~2分後、注意しようと思っていたら、本来の指定された車両があることが解ったようでドッと移動していった。

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そして空いた座席、

右方向が列車後部、進行方向は左、・・・分かりにくいが、登山電車仕様で山の勾配に合わせ進行方向の座席が高い

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ヴァンゲルアルプ鉄道(WAB)で、標高2,061mのクライネ・シャイデック駅に向かったのでした。

通常乗車時間約33分、途中の2か所の駅を通過して最後のトンネルでトラブル・・・

何とかトンネルを抜けたら、スキー天国だった。

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車内検札をするので、到着駅の改札は無い。電車を降りたら、ホーム・・・即 自由!

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線路の上も滑って反対側に。

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クライネ・シャイデック駅、大きな駅舎だ、1Fにレストランも土産店も入っている。

そしてこの右側に続いて事務所があり、右別棟はトイレ。

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Jungfraujoch の案内板が見える。この駅舎の裏側が・・・

・・・裏側は後にして、まずは手前側のご案内

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朝の9時からスキー客、元気な連中が多い。

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スキー板用の台車をけん引している。

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この電車の最後尾、踏切がある、コカコーラの円錐テントの方に移動しよう

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板を担いでその先は、

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スキー場だ、この電車以外にもリフトで下から上がって来れる。この右側が

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レストラン、その右側をリフトが動いている。

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ウワァ、雪質は最高だ!

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滑りたい、滑れない、電車に乗らなければ・・・

駅事務所横の情報板の表示は

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氷点下11度

そして、駅舎の裏側にパンフで良く見る赤い登山電車が、・・・

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天候が悪く、グリンデルワルトでも見えなかったアイガーが、・・・すぐそこに見えるでしょうか?














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