気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

台風から逃れて、岩手・三陸へ

2023-09-30 | 旅行記

東京では30度以上の真夏日が90日を記録したとか、・・・肌を刺す日差しが痛い、そんな日々が続いている。

9月上旬の週間予報で、真夏日が避けられそうな地域が東北北部と北海道だけだった。

そこで青森と岩手のドライブを計画したのだったが、台風が追いかけてくる結果となりそうで、

青森の宿泊はキャンセルして、岩手、岩泉の龍泉洞を目指し出発した。

そして、昼過ぎ・・・曇天の気仙沼に到着。

・・・昼食後、悪夢の津波大災害地に・・・高田松原津波復興記念公園

公園のパンフレットです。

大駐車場に車を止め、広大なエリアです。

令和3年に国営追悼・記念施設、道の駅 高田松原、東日本大震災津波伝承館などが全面供用となっています。

道の駅は正面の建屋の中、・・・この扉から入り、右側になります。

奥で営業している道の駅も、明るく洒落た店舗です。

やはりこの地は、のぼりや屋台など賑やかな雰囲気は相応しくなく、屋外に出ると厳粛な気分になります。

奇跡の一本松には、歩いて行けますが、・・・近くまで車で行きます。

グーグルの画像を拝借、(南が上です)

赤線の所で、一本松方向には進入禁止の規制がありました。

この石碑は

御承知の通り、このいっぽんの松も残念ながら間もなく枯れてしまい、人工の修復がなされています。

幹の外側はそのまま利用し、芯を補強しているそうです。

枝に何羽か鳥も見えます。

伝承することは大事なことですが、この付近にも賑やかさが戻って来て欲しい。

堤防に守られた通岡道路を北上し、通岡ICから三陸沿岸道路に入ります。

・・・釜石で降りてガソリンの補給、釜石湾に面して大観音(石應禅寺釜石大観音)高さ48.5mが見えます。

近くに釜石市立鉄の歴史館もありますが、通り過ぎて大槌ICから高速に入ります。

曇天が続いている・・・陸前高田から宮古までは、約100kmくらいです。

・・・本州最東端の宮古市に到着、浄土ヶ浜に立ち寄ります。

浄土ヶ浜 第二駐車場に駐車して、北側の木立の間に遊歩道があります。

しかし、かなり急坂、丸太で段差を補強しているので滑らないですが、一段一段 下ります。

間もなくなだらかになり、木立を抜けると周回道路に合流します・・・目前は太平洋です。

天候が悪いので、観光客は少ない雰囲気です。

海岸線に沿って右側に遊歩道があります。

岩肌が白い、上部に強風にも負けない赤松林でしょうか

パノラマの風景です。

この景観が・・・浄土ヶ浜・・・松の緑・海の青さのコントラストをモチーフにした

「浄土ヶ浜エターナルグリーン」が地域色となっているとあります。

この日は残念ながら曇天で、露光量が少なくスカッとした色彩が見られません。

では道路の方へ戻りましょう。

ここから道路に沿って海岸線を左に進みます。

さらに左に進むと

浄土ヶ浜海浜、・・・かもめは猛暑の影響はあるんでしょうか

ここが撮影ポイントでしょうか。

・・・極楽浄土のごとし・・・

宮古市のHPでは、・・・鋭くとがった白い流紋岩が林立し、一つ一つ違った表情を見せて海岸を彩ります。

松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。

浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681〜1683)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、

「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。

更に進むと、レストハウスのある広場に、道路から振り返るとこのような景観

・・・近くに案内板があります。

南から進んできて、中央上部に駐車して上部の道路に面した海岸線が現在地。

拡大しても解りにくいので、宮古市のHPから地図を拝借

通行止め期間は、4/1~10/31までとのことです。

「宮古うみねこ丸」でうみねこの餌やりを楽しみながら、このような風景を遊覧船で楽します。

さて、宿泊先まで45kmくらいあるので先を急ぎましょう。

予定時刻のPM6:00、宿泊先に到着

龍泉洞がある岩泉町です。

こちらのホテルからすぐ近くが鍾乳洞です。

日本三大鍾乳洞、ドラゴンブルーの奇跡の地底湖の宣伝文句ですが、雨続きで年中無休が・・・8月休業中。

最近やっと営業開始されたが、増水で濁りドラゴンブルーは、しばらく無理とか。

温泉に入って疲れを取り、痛風+高血圧対策で減量中に向く食事は、少量多品目でしょうか。

年に数回の天ぷらも、たまには頂きましょう。

ここは、朝食もこんな感じでした、龍泉洞に行かれる際のご参考まで。

 

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上諏訪、霧ヶ峰散歩

2023-09-21 | 旅行記

諏訪湖の東、湖のすぐ近くに上諏訪駅、ここは温泉地です。

早朝、東斜面を散策しましょう。

手長神社の裏斜面の高台に茶臼山と高島古城跡が・・・案内板がありました。

この高台の結構広い平地には、2階建ての市営住宅でしょうか、数棟 並んでいますが、空き家のようです。

高台の端の方には、地区の公民館があり、その一角に

金毘羅神社がありました。

鳥居の先に、御柱に囲まれて、御神体が・・・。

鳥居の先は、諏訪湖が見えます。

上諏訪町立石地区でしょうか、斜面を散策していると所々で出会います。

こちらの御神体も、4本の御柱に囲まれ、更に大木も御神体なのでしょうか。

このような状態は、

お引越し、御神体がどこかに遷座されたのでしょうか

早朝の諏訪湖、モノラルでのパノラマです。

ホテルで朝食後、立石公園から霧ヶ峰へドライブです。

眺望は、ここも諏訪湖です。

この先、12~3km、20分くらいでしょうか。

霧ヶ峰ビーナスライン 駐車場

真夏は、霧ヶ峰高原 最高。

最初に来たのが10代、1週間で・・・焼けたねーと言われ、

真夏の海は、肌を露出するので 全身やけど状態、こちらの高原は、腕と顔が真っ黒。

いつ頃からか、グライダーが有名になり

今回は、朝ドラ「らんまん」に便乗して、植物写真の一部を紹介します。

この駐車場の目の前に

では、東京の小学生に混じって、

ニッコウキスゲなどは花が終わっています

このような散策路が設けてあります

ロープで区画割がされていました。

鳥や虫の観察に来られた方々も、

車山高原やその先の白樺湖、あるいはビーナスラインの先、美ヶ原と・・・懐かしい高原が広がります。

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諏訪大社 前宮を歩いて

2023-09-15 | 旅行記

古事記の「国譲り神話」の登場人物が、建御雷(タケミカヅチ)神に勝負を挑んで・・・完敗、敗走して科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃げてきた。

「この諏訪の地から二度と出ないから、殺さないでくれ」・・・何とか許された。

・・・前宮前、・・・神宮 前ではなく、前宮(マエミヤ)の前の信号です。

上社 前宮 ここは長野県茅野市宮川2030

右手前の駐車場に車を入れ、諏訪大社 上社 前宮に  ・・・参拝です。

目の前の階段を上りますが、鳥居の左側の坂道を車で上り、右側の社務所に進むこともできます。

この上、右側に社務所があります。

境内はどこまでなのか、のどかな雰囲気に順路が心配になります。

階段を上がると広場、この左先にありました大きな案内板を見てみましょう。

歴史が古いだけあって、色んな史跡が表示されています。

信濃一之宮 諏訪大社 前宮 が正式名称のようです。 

この掲示は、安国寺区 史友会の提供、安国寺は・・・左下に安國禅寺があります。

この一帯は、神殿(ゴウドノ)と呼んで、建御名方(タケミナカタ)神の子孫であり、現人神(アラヒトガミ)でもある方の居館がありました。

この諏訪では、現人神が明治に廃止されるまで、大祝(オオホウリ)の役職が存在していたことを知り・・・何それ、・・・?

諏訪市のHPでは、大祝をこのように説明しています。

・大祝(おおほうり)とは、諏訪明神の依り代(よりしろ-神霊が宿る対象物)・現人神(あらひとがみ-生き神様)として、諏訪社(上社・下社)の頂点に位置した神職です。

・上社大祝は、古代から近世末に至るまで世襲され、「諏方(すわ)氏」を名乗りました。

・中世までは、諏訪の領主として政治権力も握っていましたが、江戸時代に入り、「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」ができ、完全に政教分離がなされました。

・明治維新で神官の世襲制度が廃止されたため、大祝職も廃止されました。

・生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は、全国的にも珍しいといわれています。

漢字源で「祝」を調べてみると:意読;いわ・・・う / はふり / ほぐ / いわい / のりと

はふり;神官やみこなど、神に仕えてのりとをあげる人。

のりと;神に申し上げることば。長く声を引いてのべるのりと。転じてめでたいと、ことほぐことば。

この案内板の、中央右下に縦書きで、「神殿跡」とありますが、シンデンではありますが、ゴウドノ跡の位置です。

この件も、諏訪市のHPで、その後の案内があります。見学もできます。

・大祝の居館は「神殿(ごうどの)」と呼ばれ、神聖な場所とされていました。

・中世までは前宮の麓にありましたが、遅くとも安土・桃山時代には現在地に居館を構えました。

・これに伴い、周辺に宮田渡(みやたど)と呼ばれる集落が形成されました。

・居館は江戸時代後期に焼失し、天保年間(1830~44年)に再建されました。

・再建当時は約3,000坪の敷地に、約320坪の主屋などが建てられていました。

・その後、明治・大正を経て昭和初期には、敷地とともに主屋も約80坪に縮小され、現在の主屋は約43坪となっています。

中央の少し下・・・社務所前に、若御子社(ワカミコシャ)があります。

ここは、建御名方(タケミナカタ)命の子供たちを合祀しているとのこと。

鎌倉時代以降、武士は戦いで死ぬことが現実となり、神様、軍神を求め始めたのでしょう。

ところで・・・古事記の「科野国」とは?

・・・飛鳥時代から奈良時代に移った713年に、科野国は信濃国と改められた。(小学館:日本歴史地名大系より)

古事記では、この諏訪の主人公:建御名方(タケミナカタ)神が、兄の事代主(コトシロヌシ)神に続き勝負に負けたことで、父の大国主神も国譲りを承諾した。

天照大御神の使者と交渉の地:島根県出雲市稲佐の浜

大国主神は、大きな御殿を要求し・・・「自分が鎮まるために建ててもらえるならば、出雲の国に鎮まるだろう」

・・・出雲大社が歴史に登場します。

驚くことに、巨大な柱が発掘されています。

日本史は知識が乏しく、調べてみると・・・飛鳥時代の壬申(ジンシン)の乱に勝利し、天皇中心の統治に必要な大宝律令を完成させたのが701年

天皇の系譜、歴史をまとめるよう・・・壬申の乱から40年、712年にまとめられた古事記は計3巻、上巻には神話の世界から天皇誕生までの記述が。

中巻は、初代天皇:神武から応神天皇まで。

下巻は、仁徳から推古女帝(天皇)まで、

710年に都を、藤原京(奈良県橿原市)から平城京(奈良市)に移しました。

そして奈良時代・・・720年に完成したのが全30巻の日本書紀、この最初の1、2巻に神話的性格の「神代記」があります。

日本書紀の「神代記」には、古事記の国譲りなどは登場しません。

古事記の編纂の目的は、神話を織り込み、天皇が統治していること、皇位継承の正当性を物語として広く告知したかった。

日本書紀は、対外的に日本国の正式な歴史を紹介することを目的としている。このような解釈が一般的のようです。

諏訪明神に「神体」無く「大祝」をもって神体となす・・・大祝は人間で現人神であり・・・皆の衆、神体であらせられるぞ・・ハハー!

秘密結社ではないでしょう?・・・多くの資料があります、系図などはデータベースに、国会図書館や明治初期に調査された資料など・・・

室町時代に編纂された、「諏訪大明神画詞(諏訪大明神絵詞(スワダイミョウジンエコトバ)」や諏訪市史、重要な資料です。

この鳥居手前の右側に、社務所があります。

そして階段を上がった右側に、内御玉殿(ウチミタマデン)が見えます。

左側は、十間廊のようです。

多分、拾い読みして印象に残ったのがWikipediaの諏訪氏史だったか・・・納得できる仮説、そこに多少プラスして推測してみました。

(茅野市の、地域誌研究と年表作成の諸問題・・・藤森 明 氏の年表試案 抜粋を・・・考古学のプロの資料として拝借)

672年、壬申(ジンシン)の乱のころ、奈良の都で舎人(トネリ)(天皇の護衛、雑務など)の職にあった金刺舎人氏が諏訪を支配するようになった。

それ以降、守谷氏と共同で諏訪地区の祭祀を行っていた。

当時も今も役人は権威が好き、人臣にも神(神道の神)にもランク付け、神は 神階(シンカイ)(正六位から正一位まで)があります。

そこで、諏訪大社の権威を上げるには、・・・神秘性のある物語、

・・・天界の天皇に負けた地上の神、悲劇の主役は出雲、脇役に信濃とメリハリを付ければ、信ぴょう性が高まるのでは?

知人の古事記 編纂者に、神話に「建御名方神」を創作として掲載するよう金刺舎人氏が働きかけたとすれば・・・知恵者です、納得。

下社の大祝が金刺舎人氏系統ですが、上社と下社では上社の方が上位の位置関係のようです。

「建御名方神」を祀るのが上社。901年 神階・・・正一位となる。

下社は、「建御名方神」の妻とされる「八坂刀売神」(ヤサカトメノカミ)、神階:従一位 です。

イベントは地域の活性化に必要で、大祝・現人神がこの地を平定し 浸透すれば・・・

儀式が格式をあげ、いつしか「建御名方神」が伝説となります・・・継続は力です。

そして、年表では 806年、諏訪大社 式年造営 が始まると伝えられる。

・・・この前宮では、ご本殿があります。

内御玉殿から坂道を200mほど進むと到着しますが、少し登った右側に、広い交流広場があります。

案内板があります。

鎌倉道(カマクラミチ)遊歩道のタイトルが目立ちます。

昔の人は、健脚が当たり前、鎌倉ですと180~200㎞くらいでしょうか。

この諏訪の地は、奈良時代には馬の産地として有名だったようで、天竜川や千曲川もあり交流も盛んな様子が残っています。

大祝を調べていると、上社下社での争い、山の裏側・高遠や隣の甲府 武田軍との争いなど・・・神様も大変だったようです。

・・・古くは神殿に付属したお社と、当前宮のHPに記載されていますが・・・坂道を登って到着。

歴史を感じる 諏訪大社 上社 前宮御本殿です。

両側の柵が、内部への侵入は禁止と、意思表示しています。

右側に平地があり、開けているので回ってみます。

御柱、一之御柱が手前にあり、奥に四之御柱が見えています。

神主様が御勤め終了でしょうか、

清々しい雰囲気です。

二之御柱は、本殿に向かって左側に

この道の左側に、守屋山の水眼(スイガ)を水源とする渓流?が流れています。

本殿のみを囲んで、御柱4本が建てられています。

「高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。

現在の社殿は昭和七年伊勢の神宮の御用材を以て建られたものです」とHPにありました。

諏訪大社、多少調べた程度では・・・奥が深くて、住んでみないと解らない。

地元にしっかり根付いた伝統が守られている信濃の国でした。

 
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夏の暑さに負けて、雨にも負けず北上を

2023-09-11 | 旅行記

日差しが痛い、異常気象の日本、台風が次々に・・・旅行はどうする?

台風13号が外れそうだったが、木曜日 午後8時のニュースでは関東に上陸しそう、

困るのが、台風よりもはるか北東に線状降水帯を発生させる雨雲が強力で残っている。

今回、週末に予約している青森、弘前のホテルには無事到着できそうか?

大雨が続き、途中での道路事情のリスクを考慮して・・・キャンセルのメールを入れる。

手前の岩手県 岩泉の龍泉洞は・・・涼を求めて北上する計画の主たる目的地だった。

ここまでキャンセルすると、旅行が白紙になってしまう。

前日キャンセルも、お騒がせになるので結局、そのままで成り行きまかせ!

写真・動画の整理は終わっていないが・・・岩泉までの概略が・・・

・・・金曜朝 5:00、東京は早朝から雨模様となったが・・・6:30になった、

雨には多分強い オールシーズンタイヤだ、 出かけよう。

東北自動車道、比較的すいていた・・・宇都宮、100km まだ強い雨が続いている。

・・・200km 郡山、前方が明るくなってきた・・・雨雲が切れそうだ。

宮城県に入り、白石・・・300km、もうすぐ仙台南JCから、太平洋岸の東に向かう・・・

松島から石巻・・・ 400km、無料の三陸道を走って

12時を過ぎた、昼食は宮城県の最北、気仙沼でマグロを!

食後、気仙沼が一望に見渡せる安波山 の麓まで車を走らせたが、霧雨と曇天で展望台行きは中止。

隣の岩手県、陸前高田へ

入り組んだ湾に、悪夢が襲った、そして、奇跡の一本松が有名になったが枯れてしまった。

・・・塩害だったのだろうか

宮古の人気の景観にも接し・・・

岩泉の龍泉洞ホテルに PM6:00 到着 東京を抜けてから600kmは過ぎていたようだった。

翌朝は、霧雨模様、800m先の龍泉洞内は気温10℃、カメラのトラブルに注意!(別途)

青森行きを中止したので、三陸海岸をドライブ

仙台市内に戻り、ホテルにPM6時チェックイン

そして、日曜の朝快晴、閖上(ユリアゲ)名物の朝市で・・・直射日光を首筋に当てながらセリに参加し

予想外の名産品を成り行きで・・・ゲット!(別途)

仙台市内の神社を散策・・・(別途)

東北自動車道、日曜日午後3時過ぎの情報、国見で事故通行止め、

通行止めは困る・・・他に東京方面で・・・栃木県内だったか、違う地点でも事故xの表示。

・・・常磐道は1車線で所どころ対面通行、遅い車を追い越し車線で追い越し続け・・・、

夜間は対向車のライトや、中央線を視界に入れ続けるので、目が疲れるがやむを得ない、

仙台から・・・常磐道を選択し・・・ひたすら走って・・・守谷で夕食、無事帰宅へ。

我が家のベランダ農園が心配で・・・葉が水分不足だが朝日を浴びて、元気な状況を確認。

無花果が二つ、熟していました。葉影に、もう1つ、これもすぐ熟しそう。

これでプランター栽培で、計5個、残るは2個、予想外の収穫となりそうです。

・・・諏訪大社の前宮の整理が残っていました。

旅行記ブログ、大半が途中で・・・終了。

レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・完成形が見えてくると・・・好奇心、探求心が薄れるのか、

依頼主の作品を完成させることよりも、他のことを探し始めているようです。

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上社 本宮 その2

2023-09-02 | 旅行記

上社 本宮は、少し解りにくい順路となっています。

一部修復中で通行禁止だったりすることもありますが、本来は東の鳥居から境内に入る造りだったようです。

下図はグーグルのマップを使用していますが、方位は上が北です。

この地図で、右下に神宮寺下り仁王門跡とあります。

この前を走っている道路は、東からの一方通行です。

この道路をさらに右下(東)方向へ約100m進んだ所に、三之鳥居があります。(下の地図の枠外)

かつては、神宮寺方向から神社に向かうこの道路が東参道でした。

三之鳥居から進んできて、240mくらいで右カーブとなります。

そして坂道を下って200m弱、国道16号の手前に四之鳥居が立っています。

このカーブの地点に、このような案内板がありました。(現在地から左側が東参道)

江戸時代に航空写真はなく、これは諏訪市博物館展示の諏訪大社と神宮寺模型からと記載されています。

神宮寺と法華寺の勢力が大きかったようですが、神仏分離令で主に寺院が棄却取壊しとなっています。

では、元に戻って、・・・上記の案内図で右端の一之御柱から、順を追ってこの場所に進んで来ましょう。

この一之御柱は、境内の4本の内でもちろん一番立派です。

この右側に通路があり、通路の右先に社務所があります。御朱印帳はこちらで依頼します。

では右の通路から、正面の階段を登ると正面の門(塀重門)は閉っています。

順路は、右に折れて塀に沿って進むと、少し先の左側に入口門があります。

中に入って、右側の建物は授与所、正面に見えるのは宝物殿のようです。

ここで左に90度、東向きに向きを変えると、前方に参拝客が見えました。

左手に・・・小さい龍が

東に向かった正面に・・・これは簡素な造りの?・・・拝殿ではないようで、参拝所とあります。

両側が柵でその先には入れないようです、左に回り込んで

檜皮葺の苔むした屋根が見えます。

下社で拝見したような拝殿・裏が幣殿、左右に片拝殿が連なり、・・・尚且つ脇片拝殿もあります。

この石畳の部分は斎庭と呼ばれ、社務所で祈祷を願い出た人が神主と共に入り弊拝殿で願い事をします。

弊拝殿の奥は、・・・上社も本殿は無いようです。

裏山(南西側にあたる標高1650mの守屋山)が「神体山」とあります。

重要文化財の説明があります。

前方の建物以外に四脚門までが、昭和58年指定、遅れて布橋などが近年指定されています。

では、戻って塀に沿って東に進み「四脚門」から下に続く階段を降りると、・・・正面に神楽殿があります。

左横の案内板を見てみましょう。

元旦の朝に打たれる大太鼓も、1827年に奉納されたとあります。

東側に回っても確かに四方に壁や戸が無く、吹き抜けですから傷みも激しいでしょう。

しかし、この太鼓は新しい雰囲気です。よく見ると

諏訪家太鼓店が奉納されています。ということは、近年でしょうか。

・・・暗くて判り難いですが、右奥にもう一つ埃だらけの太鼓があるようです。

何故、・・・埃だらけの太鼓の案内が立てられたままで、新しい太鼓は?

・・・調べてみますと、2010/4/25、奉納されたようです。3時間かけて神楽殿に据え付けられたと。

欅の大木から輪切りで胴をくり抜く・・・そのような丸太の入手は困難だったのでしょう。

胴の製作は薄い欅の板を6枚張り合わせた合板を、樽を作る要領で組み上げて接着されたようです。

龍の姿が描かれていますが・・・。反対側は未確認です。

その東隣に屋根が無く、雨ざらしとなっている土俵がありました。

年一回の奉納相撲の前に、造り直されるから管理はこれでいいのでしょう。

この場所へは、大鳥居から入り、右側の雷電為右衛門像の横を通れれば、神楽殿に進むことができ、その先に土俵があります。

そのまましばらく進むと・・・左に神馬舎、その先右側に、二之御柱があります。

・・・昔の参拝(神宮寺方向からの東参道)の(案内板のある)場所に出ました。

山側に、臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 法華禅寺が奥に見えます。

そして右側の小さな神社が、・・・旧字が読めない。

「社神玉蠶」旧字の蠶・(蚕)です。杉の丸太でしょうか、この鳥居が神社と妙に良い感じです。

この神社も御柱が立っていて、柱の太さが不揃いな点も、気にすることは無いと言っているようでした。

・・・では、ここから右(北西側)を見てみましょう。

諏訪大社 上社本宮、ここに表示されていました。

山からの小川に架かる橋もあります。

青銅の立派な大鳥居が参道に立っています。

そして、入口御門の右側に、御柱が見えます。

こちらが、二之御柱です。(三之御柱は、山側になります)

入口御門は、布橋と呼ばれる渡り廊下のような建造物が、ここから神楽殿の横まで続いています。

斜面に沿って建っているので、右側は石垣などで土盛りされ、神楽殿に降りるには階段が設けてあります。

そして右側に、こちらも重要文化財、四脚門

この門の先は斎庭で、奥に硯石があるそうです。

左に見えるのは、弊拝殿です。

天正10年(1582年)焼失とあります。この時期といえば、信長の甲州征伐の際起った事でしょう。

「信長公記」では若い織田信忠が大将で3月2日、籠城している武田軍の高遠城に総攻撃、

・・・陥落させると、翌日本陣を諏訪に進めています。

その際、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払ったようです。

・・・同年、天下統一寸前で、6月2日本能寺の変が起こりますが(新暦7月1日)。

その後、慶長13年(1608年)徳川家康が建立させたとあります。

この時期、彦根城の天守閣も完成、豊臣大名に負担を掛けさせ、名古屋城も1609年築城開始、1615年完成させています。

さて、諏訪大社の最後は、前宮、こちらも・・・神社の起源を考えることになります。

 

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