ローマ教皇とは・・・政府や外務省はローマ法王と呼んでいたので、日本のマスコミも法王でこれまで統一されていた。
・・・2013年、ヴァチカン市国(ローマ)のシステーナ礼拝堂でコンクラーベが行われ、
カトリック教の第266代教皇に、ヨーロッパ出身ではなく、南米のブエノスアイレス大司教が選ばれた。
その方は、フランシスコと改名され、先日(11月23日から3日間)来日され、多くのニュースで取り上げられていました。
今回の訪日に合わせ政府、外務省は法王から教皇に名称変更をしましたが、理由はカトリック関係者は教皇と呼ぶのが一般的なのでとのこと。
82歳の教皇は、キリスト教の教えは弱者に寄りそう・・・そこに原点があると訴えていたように思いましたが・・・。
・・・日が暮れるのが早い。もう師走になりました。
ここ数年、この時期はイルミネーションに注目が集まりLEDの電球数が競われていました。
今年の相模湖は、関東最大600万球とか・・・大騒ぎ・・・今年は多少落ち着いてきたでしょうか。
上の画像は、最近見つけた過去のデータから・・・箱根・ガラスの森美術館内、クリスタルのツリーです。
・・・PCの外部記憶装置のトラブル以降、記憶装置の整理をし始めたが、・・・終わりが見えない。
中身を確認もしていない動画も数多くあり、・・・多分撮影が目的で、編集は時間があるとき・・・、優先順位が低かったようです。
未確認の画像が多く、気になる動画を一か月近く編集してみたが、・・・DVDに焼いたのは数枚程度・・・。
動画編集は時間が掛かる、なかなか進まない状況は結構ストレスとなってきた。
・・・さて、イタリア旅行のローマ編、これも中断のまま、・・・奥が深くて、なかなか進まない。
帰ってきた当時は、ほかの都市、・・・エルサレム、ギリシャ、エジプト・・・に関心が移ったが、・・・
画像の整理をし始めると・・・やはりローマは別格、街中が美術館・そして劇場なのです。
・・・東京23区内に住んでいて、都心部と下町を何十年も走っていたが、
他人にどの位観光ガイドができるのかと考えてみると、自分の知識の少なさに驚きます。
・・・この江戸東京よりはるかに狭いローマの街、・・・ローマ帝国時代の遺産が残り、世界最大の宗教国家があり、
16世紀にルターの宗教戦争で・・・教皇がこのローマを芸術の都に造り上げた。
中身が濃すぎるこのローマは、簡単には説明が出来そうもない。
・・・永遠の都・・・今日でも魅力の街、ローマ劇場を完成させた人物が、12月7日が誕生日のこの人です。
ナポリ生まれ、数多くのエピソードが残る天才 Gian Lorenzo Bernini ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、1598年12月7日生まれ
・・・青年時代の肖像画の方が良く知られているでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチが、名カメラマンとして、背景にも意味を持たせ、平面に三次元の空間を描写した達人ならば、
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、ローマの街中を歩き回れる舞台として、感動の一瞬を静止させたリアルな3D彫刻を建造物に配置した都市空間芸術の達人です。
・・・ローマの復興に貢献した最初の人が、Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni(略、ミケランジェロ・ブオナローティ) 1475年3月6日生まれ
時を同じくして、Raffaello Sanzio ラファエロ・サンティ 1483年4月6日生まれ、も教皇に呼ばれ才能を発揮します。
彼らがルネッサンスと後に呼ばれる時代、ローマ教皇に呼ばれてこの地にやってきた当時、この街はどんな様子だったでしょう。
上図は、(画家名忘れてしまったが)想像で描いた鳥観図、1450年頃と思われる。この絵は相当以前のことで、調査中。
ピンクに彩色した部分が聖ペトロ聖堂、東が正面、西に向かって長い聖堂は、コンスタンティヌス帝が建てた大聖堂。
西側の奥は、コンスタンティヌス帝以前の墓地、(参考にしているのが、ヴァチカン・ガイド 美術館と市国)
左にオベリスクが見えるが、ここはカリグラとネロ(共に有名な皇帝)の競技場があった所です。
ヴァチカンは異教徒に襲撃されたりしたので9世紀に城壁で囲まれました。
この聖堂を取り壊し、1506年から聖堂の建て替えが始まり(教皇はブラマンテに指示し2000人体制で開始されたが)
この時期、武闘派教皇は教皇領の奪還に度々戦争に出かけ、人手は必要だったのでしょうが、ヴァチカンを豪華にする必要もあり
・・・何度も中断しながら120年後、1626年に完成したとされています。
但し、現在のような広場や列柱は無く、その後・・・1667年ベルニーニが見事な広場を持つ聖堂として完成させました。
現在目にするのはベルニーニのプランとは若干異なりますが・・・広場の入口を開放しその先を大通りに改造したのは、独裁者と呼ばれたムッソリーニ。
・・・振り返ると、・・・ローマの都市は、繁栄と衰退の繰り返し、少し整理してみると
紀元前1500年頃には、七つの丘付近では農民や羊飼いの人々の生活があったと言われています。
紀元前753年、パラティーノの丘にローマ国を建設、
紀元前509年、王政から共和制に・・・主権者は、S・P・Q・R(元老院とローマ市民)、この体制が500年続く。
(ローマ文明博物館より)
紀元前27年、暗殺されたカエサルを継いだ養子のオクタヴィアヌスが「私はローマをレンガの町として引継ぎ、大理石の都として残すのだ」と自慢したという。
オクタヴィアヌスは、アウグストゥス「神聖にして冒しがたき人」の称号を受けて、ローマ初代皇帝となります。
(ローマ文明博物館より)
コロッセオや競技場が続々と造られます。まさにローマ帝国時代、領土は拡大を続け、戦利品や食料が流れ込んできます。
この皇帝の時代に、ナザレでイエスが生まれますが、生誕年は諸説あるようです。
・・・起源410年8月24日、西ゴート族によるローマ略奪を受ける。
水道橋も破壊され、475年西ローマ帝国は消滅、・・・その後ローマの人口は、5万人程度までしか回復しなかったと言われています。
(ローマ文明博物館より)
中世の6~7世紀頃は、ローマ教皇が修道士を各地に派遣し、「三位一体論」「神の国」の理論武装で布教に邁進します。
この頃、中央アジアでイスラム教が成立し、武闘派が勢力拡大し、地中海沿岸から8世紀にはスペイン半島が支配下になります。
教皇が800年にカール大帝に皇帝の冠を与え、・・・以後落ち着いたローマでは、水道橋の補修や教会建築が続きます。
846年イスラム軍の略奪を受けます。
教皇はこの後、聖ペトロ聖堂の周りに城壁を造り、これが今日残っています。
教皇と皇帝の争いもありました。
1077年、カノッサの屈辱で・・・破門を解いてもらった屈辱のハインリッヒ4世は、反撃に出てローマを襲う。
1084年ローマを占拠し、対立する教皇を選出させ、この教皇によって神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行した。
本来の教皇はサンタンジェロ城にこもり、シチリア王に援軍を要請。
ところが、教皇救援としてローマ入りしたノルマン・イスラム混成部隊は、市内で略奪に走り、あげく街に火をかけた。
ローマは度々略奪されるが、略奪の対象は高層アパートに住む一般市民や商店ではなく、各国の枢機卿が住む豪華な宮殿を狙ったのでしょうか。
1300年、聖年祭とやらにダンテがローマを訪れ、聖職者が任を忘れて金もうけに走っているのは許せぬ!・・・そして「神曲」を著している。
聖年祭とは、時の教皇が考え出した安息年とやら、ローマを訪れる巡礼者は、神の特別の赦しが与えられると宣伝したので、お布施を持った巡礼者が続々と・・・。
更に、この教皇は聖界・俗界、両界の最高権力者と豪語し、・・・各国が怒り、中でフランス王が刺客を差し向けて・・・教皇、難は逃れたが やがて病死する。
この後、1309年からフランス人教皇クレメンス5世が教皇庁を南フランス(アヴィニョン)に移し・・・ローマは教皇不在に。
ローマは盗賊が増え、治安は乱れ、・・・人口は3万人以下になる。
・・・70年も経過して、ローマに教皇が帰還するよう・・・説得に派遣されたのが、教皇に帰還をと文通していたカテリーナ(修道女)でした。
シエナ生まれの彼女が眠る、シエナのサン・ドメニコ教会です。
アヴィニョンで、教皇は心を動かされ、ローマの元教皇庁も気になり、1377年ローマへ戻ります。
しかし、教皇は間もなく亡くなり、カテリーナはローマに呼ばれ、後継教皇で枢機卿たちの調停に失敗、3年後ローマで急死。
カテリーナの遺体はシエナに運びたいが検問があり、全ては難しく頭部だけ戻ってきた伝説が残り、・・・展示されています。
サン・ドメニコ協会、カテリーナの展示室
さてコンクラーベで後継の教皇は決まらず、分裂、以後40年間、1417年まで3人の教皇時代などで混乱しています。
1417年にローマ人の教皇に統一され、新教皇は1420年ローマに戻った。
この当時、ナポリ国は最大の都であり、ローマの人口は、フィレンツエより1万人も少なかった。
1450年、待望の聖年祭を催した結果・・・北ヨーロッパから10万人もの巡礼者が押し寄せてきて、・・・経済効果は莫大で潤った。
当時教皇は、ラテラーノ家からローマ市内のラテラーノ宮殿を教会に寄進されていて、教皇の邸宅として使用していた。
コロッセオから東に1㎞くらいでしょうか。
(グーグルの画像を借用)ラテラーノ広場とオベリスク、奥にラテラーノ大聖堂があります。
・・・テヴェレ川を渡った人里離れた市街にあるヴァチカンは、埋葬に使われる聖堂だった。
ヴァチカンで儀式に出席する際、一時的な宿泊施設がありましたが、徐々にヴァチカン内に立派な宮殿が建立されます。
1452年4月15日 トスカーナ州ヴィンチ村でレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれます。
1453年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルがトルコによって陥落。
・・・礼拝堂(後にシステーナ礼拝堂と呼ばれる)が建設されました。
教皇はペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、シニョレッリ、ピントゥリッキオらを呼び、
礼拝堂の壁にモーゼとキリストの物語を描かせた。
1489年・・・フィレンツェでは、ミケランジェロが前年弟子入りした工房の推薦で、フィレンツェのメディチ家主催の「プラトンアカデミー」に参加しています。
14歳で、アカデミー参加者の彫刻家ジョパンニから古代ローマ時代の彫刻情報や、技術も学んだことでしょう。
少年時代にこのような環境で生活し自信過剰になったのか、15歳で年上の彫刻家に鼻を折られ、曲がってしまった。
1492年アレクサンデル6世(チェーザレ・ボルジアの父)が教皇となった。フランスがイタリア進出の動き
1494年メディチ家はフィレンツェを追放され、ドメニコ派のサン・マルコ修道院院長、サボナローラが花の大聖堂で説教をしていた。
1495年、20歳のミケランジェロ、仕事がなくなり、キューピットの彫刻を彫り古代風に処理し友人がローマの枢機卿に高値で売りつけたが、偽物とばれた。
1496年 ローマの枢機卿から彫刻の技術を買われ、ミケランジェロがローマに招かれ、「バッカス」の制作を依頼された。
完成したバッカス(豊穣とブドウ酒の神)は裸だったので? 引き取りを断られ、今日、フィレンツェの美術館にあります。
1497年、教皇庁のフランス人枢機卿から自分の墓のために「ピエタ」の制作依頼を受けます。
完成に2年、高さ1.75m 完成したピエタは、間もなく亡くなった枢機卿の墓に置かれていた(聖・ペトロの近くにある礼拝堂内)
このピエタが、サン・ピエトロ大聖堂に移り、今日 防弾ガラスで保護されています。
1498年、フィレンツェで、サボナローラがシニョーリア広場で火あぶりの刑になる。
1500年の聖年祭の前年、ブラマンテがローマを訪れ、古代遺跡の調査をしています。
今日では発掘が進んでいますが、16世紀初めこれらが土で埋められ・・・表層はブドウ畑、そこからラオコーン像が発見された。
(バチカン美術館)
1505年 ミケランジェロは、フィレンツェに戻ってダビデの像を完成させ・・・また教皇に呼ばれ、ローマに戻って来ました。
ラオコーン像が破損した状態で発見された・・・衝撃的な出会いだったと思います。
その2年後、ラファイロは、ローマ帝国時代の黄金の館が土の中から発見され、屋根に穴をあけてロープで内部に入り
見事な壁画類に接しています。
・・・ローマ帝国時代・・・1500年前の天井画作品です。感動したでしょう。
(グーグルより)
(グーグルより)
教皇はカトリック教が危機にあった時代、このローマにヨーロッパ各地から巡礼者を呼び寄せるには何が必要か、よくご存じでした。