気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ミケランジェロとユリウス2世

2019-12-27 | 旅行記

イタリア半島で1500年前後の時期は、調べれば調べるほど面白い、イヤ、興味が尽きない、・・・イベリア半島も若干興味があるが・・・。

日本の大河ドラマに次々と登場する戦国時代の主人公と同じく、この時代の登場人物は、自己主張が強かったのでしょうか。

教皇の領土内で、治世に反旗を翻した連中には武力で制圧する、その強力な教皇軍のトップとして活躍したチェーザレ・ボルジアや、・・・

アレクサンデル6世教皇の次(在位1か月弱)の次、1503年即位したユリウス2世も、白馬にまたがり出陣しています。

・・・ここは、ミケランジェロのローマでの話でした。

1506年1月14日、ローマ コロッセオの近くのブドウ畑で農作業の夫婦によって発見されたお宝は、教皇の耳にも届きました。

前年ローマにやってきたミケランジェロは、早速現場に向かい、発掘に立ち会っているようです。

ヴァチカンガイドによると、発掘現場は七つの部屋とありますが、・・・地下に埋もれていた宮殿の部屋でしょう)

発掘され修復された像がラオコーン像と判ったのは、ローマ帝国時代の「博物誌」の中でラオコーン像がティトゥス帝の宮殿にあったと記してあり、確認されました。

ローマでは多くの実力者が古代のお宝を手に入れようとするが、ユリウス2世は、1506年3月23日に勅令をもってこの像を購入し、バチカンに移させたとあります。

・・・原色世界の美術 第4巻 小学館発行、昭和44年7月30日初版、昭和49年11月30日初版第3刷発行の「ヴァチカン美術館」に掲載されていた画像です。

今日ではこのポーズですが、発掘された当時は、ラオコーンの右腕の先は見つからなかったようです。

左右の息子たちの腕や手も破損していて見つらなかったようです。

そこで、ラオコーンの物語は書物などで伝えられており(トロイの木馬に登場するトロイの神官が、海蛇に・・・)右腕を復元しようとなったようです。

そこで、教皇はラファエロやミケランジェロらを集め右腕がどのようだったか考察させ・・・結局、下図のように伸ばした状態で修復されました。

原色世界の美術 第11巻 小学館発行、昭和44年7月30日初版 (ギリシャ彫刻の流れ)に掲載されていた。

 

ところが・・・近年、1906年に大理石の右腕、破片がローマで発見された。

考古学者で美術商の発見者が、ラオコーンに似ているとヴァチカン美術館に持ち込むが・・・何故か、放置され続けた。

数十年後、展示しているラオコーン像と同一の物と鑑定され、1957~1960年にかけて修復されますが、

発見された右腕は・・・当時ミケランジェロが主張したような・・・曲がった状態だった。

こちらの方が苦悩の表情が強調されていませんか?

・・・ミケランジェロは、10代の時にプラトンアカデミーで多少学んでいたとはいえ、・・・

このような精緻で写実的な作品を彫る人物が・・・神話の時代ともいえるローマ帝国時代以前にギリシャに存在していた。

1000年以上も昔の人たちの技能が素晴らしく、ショックだったでしょう。

複雑にひねられた3体と海蛇の曲線、素人目にもダイナミックな表現です、苦悩、失神、恐怖の表情・・・超一流の芸術品です。

多分写実的に彫像を彫り上げる技能には限度があり、感動を与える芸術作品とは何か・・・悩んだでしょね。

・・・今日では多くの美術館で紀元前の作品に出合うことができます。

ミロのビーナスやニケ(NIKE)以外にもたくさん発見されています。

紀元前380~370年頃 大理石、高さ126cm 女主人と侍女

原色世界の美術 No.11 ギリシャ 小学館 昭和44年 

両者の視線、表情・・・構図も・・・2000年も昔の作品?

こちらは、紀元前100年頃、大理石、高さ132㎝

右側の者は?・・・獣神パン(PAN)、左が主人公APHRDITE(アフロディテ)

こちらは、有名なポーズです。円盤投げ

紀元前5世紀、大理石、高さ173cm 作者Myron ローマ帝国時代の模刻とされます。

この作者Myronも、発掘されたラオコーンを制作したと伝えられる3人も模刻製作の有名人でした。

芸術家は絵画も彫刻も模写、模刻から始まります。

ローマ帝国時代には、優秀な模刻は邸宅などに飾られていました。

このラオコーン像もオリジナルか、模刻か・・・結論は出ていないようです。

そんな状況の中、彫刻の仕事を中断し、天井画を描けと教皇から命令され・・・自分は彫刻家ですと辞退する。

天井画はラファエロに依頼して下さいと申し上げたが、許されなかった。

1508年から1512年まで、システーナ礼拝堂の天井に張り付くことになりました。

1510年9月、天井の半分が完成(入口から原罪の図まで)

1511年8月14日、作品を見たくてたまらなかったユリウス2世は足場を取り払わせた。

多くの枢機卿が裸体の天井画に驚き、・・・非難、罵声・・・しかし教皇はミケランジェロを擁護した。

1512年10月に出来上がり、11月1日にユリウス2世は荘厳ミサで完成を祝った。

元教皇の甥は、フランシスコ修道院で学び28歳で枢機卿、59歳で教皇になり、念願の天井が完成から数か月後・・・

1513年2月21日、ミケランジェロの霊廟が完成する前に69歳で病死、

多くのギリシャ、ローマ帝国時代の作品をヴァチカン美術館に残した芸術好きの教皇でした。 

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ルネッサンス時代のローマ

2019-12-21 | 旅行記

永遠の都 ローマ、

・・・1500年頃の人口は約5.5万人、フィレンツエが7万人、ミラノ、ヴェネツィア、パリが10万人、ナポリが15万人。

この当時ローマは、イヤ、ローマ教皇はユダヤ人も驚くビジネスを開拓していました。

西暦1300年、当時の教皇がこの年を最初の聖年と定めたそうです。

この先、聖年行事を100年ごとに行うことも決めました。

聖年とは、この期間にローマに巡礼すると、教皇から特別な赦しを与えられる特別な期間とされた。

その後、それぞれの教皇が間隔を、50年や33年などに変更し、現在は・・・25年間隔が多いようです。

この聖年を実施したことにより、教皇庁やローマはヨーロッパ各地から多くの巡礼者が訪れ財政的に潤いました。

次々に押し寄せる旅行者に、ローマの街はにわか食堂や民宿が乱立したことでしょう。

7泊8日の安全な旅行という時代でもなかったでしょうが、十字軍や巡礼が続いたことで徐々に旅行者が増え、

各地都市情報も飛びかうようになってきます。

・・・そこで教皇は、はるばるやってくる信者に、ローマの街と教会を魅力ある観光資産にしようと考えます。

聖書や預言者の神話を、絵画や彫刻で偶像化して、・・・教皇の霊廟も立派なものを造り・・・教会の改築に走り出します。

歴代の教皇や枢機卿は優秀な知恵のある人物が多く、各地から建築家・芸術家がローマに呼ばれます。

・・・しかし、ミケランジェロは、「ピエタ」制作後、サヴォナローラ亡き後の1501年5月フィレンツエに戻っています。

1501年8月に花の大聖堂に飾る巨人像を造る契約をし、・・・1504年に完成したのが巨大な「ダビデ像」

壁面で、高い場所に設置の予定だったのでしょう、正面下からの視線を重視しているようです。

前任者から引き継いだ大理石の材質が緻密でなく、風雨での劣化を避けるために屋内に設置と一旦まとまったが、

・・・設置場所については色んな説がありますが、大聖堂ではなく、・・・

・・・屋外のこの広場に置かれた。(現在置かれているのは、レプリカ)

1505年、ミケランジェロはヴェッキオ宮殿の壁画(カッシナの戦い)制作中に、ローマ教皇ユリウス2世に呼ばれ、再びローマに行くことになります。

ローマで教皇から言いつけられたのが、教皇の霊廟制作で、・・・ミケランジェロは、ブラマンテなどから嫉妬されたようです。

当初の霊廟の構想、40体の彫像計画は紆余曲折、・・・1545年に規模を縮小して完成。

・・・気が付くのが遅れましたが、聖ドミニコ信徒会修練3期目の方からコメントを頂いておりました。

ありがとうございました。

聖ドミニコ会というと・・・、修道院・食堂・・・最後の晩餐 ミラノの

この食堂の壁画が、思い出されました。

・・・「シエナの聖カタリナは、一般信徒として、聖ドミニコの霊性・生き方に倣って、通常の営みの中で、

祈りながら社会生活ならびに信仰生活を送る会です。」以下略・・・。

確か、両親は反対されたが断食・禁欲など厳しい修行をされ、キリストとの幻視体験をされたようです。

このような幻視体験は、他にも有名な話しが数多く伝えられています。

・・ヴィットーリアーのコロナール礼拝堂内、聖女テレサのエクスタシー、この作品はベルナールの有名な作品。

また、福者となったルドヴィーカ・アルベルト―ニ(1533年没)の像も下町の教会にあります。

この作品もベルニーニ晩年の作品で、今回のローマ訪問でぜひ訪れたいと・・・後程、(未整理のため)。

・・・終生を弱者に奉仕する・・・そのような崇高な目的は、なかなか思いつきません、・・・ウーン。

弱者がいれば、強者がいる、・・・強者とは何?・・・動かせるマネーの量の大小が、判断基準とするならば、

結果、それを富とするならば、・・・世界の富の1/3をユダヤ人の一部が吸い上げています。

しかし、幸福を尺度にすれば、マネーの量に一喜一憂する人生を味わうことなく、過ごすのが一番です。

ユダヤ人は、頭脳・知恵の使い方が優秀で、(長く悲惨が続いた時代にも)マネーは大切と教育を受けているようです。

一方、大航海時代以降、全世界に布教したキリスト教は、領土拡大と信者拡大で・・・信者は多民族となり、弱者も多い。

ヤハウェ(神)が選んだとされるユダヤ人、少し遅れてユダヤ教イエス派から人種を問わず布教されたキリスト教、中世に誕生したイスラム教。

ヨーロッパは、キリスト教を学ばないと理解ができない・・・そこで気が付いたのは、・・・宗教の力でした。

宗教戦争の時代と言われています。

私は、世界に影響力のある上記三大宗教が(一神教で)他宗教を邪教と敵対視されないことを切に望みます。

カトリック総本山、クリスマスの風景です。

そして、純真な素敵な方でしょう、聖ドミニコ信徒会の方、・・・マザー・テレサさんのように、・・・期待します

判断を神にゆだねることなく、悩み苦しみ自分で考え、周囲に相談し、自分で判断しましょう。

無理な断食など、現代では無いでしょうね。

・・・勉強不足で、神の世界がどのようなものか、想像力が不足しています。

多分頭が、ユダヤ教の原罪を否定しているので、脳が受け付けないのでしょうと楽天的に思っています。

悪しからず。

Merry Christmas

 

 

 

 

 

 

 

 

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ローマはベルニーニのためにつくられた

2019-12-05 | 旅行記

ローマ教皇とは・・・政府や外務省はローマ法王と呼んでいたので、日本のマスコミも法王でこれまで統一されていた。

・・・2013年、ヴァチカン市国(ローマ)のシステーナ礼拝堂でコンクラーベが行われ

カトリック教の第266代教皇に、ヨーロッパ出身ではなく、南米のブエノスアイレス大司教が選ばれた。

その方は、フランシスコと改名され、先日(11月23日から3日間)来日され、多くのニュースで取り上げられていました。

今回の訪日に合わせ政府、外務省は法王から教皇に名称変更をしましたが、理由はカトリック関係者は教皇と呼ぶのが一般的なのでとのこと。

82歳の教皇は、キリスト教の教えは弱者に寄りそう・・・そこに原点があると訴えていたように思いましたが・・・。

・・・日が暮れるのが早い。もう師走になりました。

ここ数年、この時期はイルミネーションに注目が集まりLEDの電球数が競われていました。

今年の相模湖は、関東最大600万球とか・・・大騒ぎ・・・今年は多少落ち着いてきたでしょうか。

上の画像は、最近見つけた過去のデータから・・・箱根・ガラスの森美術館内、クリスタルのツリーです。

・・・PCの外部記憶装置のトラブル以降、記憶装置の整理をし始めたが、・・・終わりが見えない。

中身を確認もしていない動画も数多くあり、・・・多分撮影が目的で、編集は時間があるとき・・・、優先順位が低かったようです。

未確認の画像が多く、気になる動画を一か月近く編集してみたが、・・・DVDに焼いたのは数枚程度・・・。

動画編集は時間が掛かる、なかなか進まない状況は結構ストレスとなってきた。

・・・さて、イタリア旅行のローマ編、これも中断のまま、・・・奥が深くて、なかなか進まない。

帰ってきた当時は、ほかの都市、・・・エルサレム、ギリシャ、エジプト・・・に関心が移ったが、・・・

画像の整理をし始めると・・・やはりローマは別格、街中が美術館・そして劇場なのです。

・・・東京23区内に住んでいて、都心部と下町を何十年も走っていたが、

他人にどの位観光ガイドができるのかと考えてみると、自分の知識の少なさに驚きます。

・・・この江戸東京よりはるかに狭いローマの街、・・・ローマ帝国時代の遺産が残り、世界最大の宗教国家があり、

16世紀にルターの宗教戦争で・・・教皇がこのローマを芸術の都に造り上げた。

中身が濃すぎるこのローマは、簡単には説明が出来そうもない。

・・・永遠の都・・・今日でも魅力の街、ローマ劇場を完成させた人物が、12月7日が誕生日のこの人です。

ナポリ生まれ、数多くのエピソードが残る天才 Gian Lorenzo Bernini ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、1598年12月7日生まれ

・・・青年時代の肖像画の方が良く知られているでしょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチが、名カメラマンとして、背景にも意味を持たせ、平面に三次元の空間を描写した達人ならば、

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、ローマの街中を歩き回れる舞台として、感動の一瞬を静止させたリアルな3D彫刻を建造物に配置した都市空間芸術の達人です。

・・・ローマの復興に貢献した最初の人が、Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni(略、ミケランジェロ・ブオナローティ) 1475年3月6日生まれ

時を同じくして、Raffaello Sanzio ラファエロ・サンティ 1483年4月6日生まれ、も教皇に呼ばれ才能を発揮します。

彼らがルネッサンスと後に呼ばれる時代、ローマ教皇に呼ばれてこの地にやってきた当時、この街はどんな様子だったでしょう。

上図は、(画家名忘れてしまったが)想像で描いた鳥観図、1450年頃と思われる。この絵は相当以前のことで、調査中。

ピンクに彩色した部分が聖ペトロ聖堂、東が正面、西に向かって長い聖堂は、コンスタンティヌス帝が建てた大聖堂。

西側の奥は、コンスタンティヌス帝以前の墓地、(参考にしているのが、ヴァチカン・ガイド 美術館と市国)

左にオベリスクが見えるが、ここはカリグラとネロ(共に有名な皇帝)の競技場があった所です。

ヴァチカンは異教徒に襲撃されたりしたので9世紀に城壁で囲まれました

この聖堂を取り壊し、1506年から聖堂の建て替えが始まり(教皇はブラマンテに指示し2000人体制で開始されたが)

この時期、武闘派教皇は教皇領の奪還に度々戦争に出かけ、人手は必要だったのでしょうが、ヴァチカンを豪華にする必要もあり

・・・何度も中断しながら120年後、1626年に完成したとされています。

但し、現在のような広場や列柱は無く、その後・・・1667年ベルニーニが見事な広場を持つ聖堂として完成させました。

現在目にするのはベルニーニのプランとは若干異なりますが・・・広場の入口を開放しその先を大通りに改造したのは、独裁者と呼ばれたムッソリーニ。

・・・振り返ると、・・・ローマの都市は、繁栄と衰退の繰り返し、少し整理してみると

紀元前1500年頃には、七つの丘付近では農民や羊飼いの人々の生活があったと言われています。

紀元前753年、パラティーノの丘にローマ国を建設、

紀元前509年、王政から共和制に・・・主権者は、S・P・Q・R(元老院とローマ市民)、この体制が500年続く。

(ローマ文明博物館より)

紀元前27年、暗殺されたカエサルを継いだ養子のオクタヴィアヌスが「私はローマをレンガの町として引継ぎ、大理石の都として残すのだ」と自慢したという。

オクタヴィアヌスは、アウグストゥス「神聖にして冒しがたき人」の称号を受けて、ローマ初代皇帝となります。

(ローマ文明博物館より)

コロッセオや競技場が続々と造られます。まさにローマ帝国時代、領土は拡大を続け、戦利品や食料が流れ込んできます。

この皇帝の時代に、ナザレでイエスが生まれますが、生誕年は諸説あるようです。

・・・起源410年8月24日、西ゴート族によるローマ略奪を受ける。

水道橋も破壊され、475年西ローマ帝国は消滅、・・・その後ローマの人口は、5万人程度までしか回復しなかったと言われています。

(ローマ文明博物館より)

中世の6~7世紀頃は、ローマ教皇が修道士を各地に派遣し、「三位一体論」「神の国」の理論武装で布教に邁進します。

この頃、中央アジアでイスラム教が成立し、武闘派が勢力拡大し、地中海沿岸から8世紀にはスペイン半島が支配下になります。

教皇が800年にカール大帝に皇帝の冠を与え、・・・以後落ち着いたローマでは、水道橋の補修や教会建築が続きます。

846年イスラム軍の略奪を受けます。

教皇はこの後、聖ペトロ聖堂の周りに城壁を造り、これが今日残っています。

教皇と皇帝の争いもありました。

1077年、カノッサの屈辱で・・・破門を解いてもらった屈辱のハインリッヒ4世は、反撃に出てローマを襲う。

1084年ローマを占拠し、対立する教皇を選出させ、この教皇によって神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行した。

本来の教皇はサンタンジェロ城にこもり、シチリア王に援軍を要請。

ところが、教皇救援としてローマ入りしたノルマン・イスラム混成部隊は、市内で略奪に走り、あげく街に火をかけた。

ローマは度々略奪されるが、略奪の対象は高層アパートに住む一般市民や商店ではなく、各国の枢機卿が住む豪華な宮殿を狙ったのでしょうか。

1300年、聖年祭とやらにダンテがローマを訪れ、聖職者が任を忘れて金もうけに走っているのは許せぬ!・・・そして「神曲」を著している。

聖年祭とは、時の教皇が考え出した安息年とやら、ローマを訪れる巡礼者は、神の特別の赦しが与えられると宣伝したので、お布施を持った巡礼者が続々と・・・。

更に、この教皇は聖界・俗界、両界の最高権力者と豪語し、・・・各国が怒り、中でフランス王が刺客を差し向けて・・・教皇、難は逃れたが やがて病死する。

この後、1309年からフランス人教皇クレメンス5世が教皇庁を南フランス(アヴィニョン)に移し・・・ローマは教皇不在に。

ローマは盗賊が増え、治安は乱れ、・・・人口は3万人以下になる。

・・・70年も経過して、ローマに教皇が帰還するよう・・・説得に派遣されたのが、教皇に帰還をと文通していたカテリーナ(修道女)でした。

シエナ生まれの彼女が眠る、シエナのサン・ドメニコ教会です。

アヴィニョンで、教皇は心を動かされ、ローマの元教皇庁も気になり、1377年ローマへ戻ります。

しかし、教皇は間もなく亡くなり、カテリーナはローマに呼ばれ、後継教皇で枢機卿たちの調停に失敗、3年後ローマで急死。

カテリーナの遺体はシエナに運びたいが検問があり、全ては難しく頭部だけ戻ってきた伝説が残り、・・・展示されています。

サン・ドメニコ協会、カテリーナの展示室

さてコンクラーベで後継の教皇は決まらず、分裂、以後40年間、1417年まで3人の教皇時代などで混乱しています。

1417年にローマ人の教皇に統一され、新教皇は1420年ローマに戻った。

この当時、ナポリ国は最大の都であり、ローマの人口は、フィレンツエより1万人も少なかった。

1450年、待望の聖年祭を催した結果・・・北ヨーロッパから10万人もの巡礼者が押し寄せてきて、・・・経済効果は莫大で潤った。

当時教皇は、ラテラーノ家からローマ市内のラテラーノ宮殿を教会に寄進されていて、教皇の邸宅として使用していた。

コロッセオから東に1㎞くらいでしょうか。

(グーグルの画像を借用)ラテラーノ広場とオベリスク、奥にラテラーノ大聖堂があります。

・・・テヴェレ川を渡った人里離れた市街にあるヴァチカンは、埋葬に使われる聖堂だった。

ヴァチカンで儀式に出席する際、一時的な宿泊施設がありましたが、徐々にヴァチカン内に立派な宮殿が建立されます。

1452年415日 トスカーナ州ヴィンチ村でレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれます。

1453年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルがトルコによって陥落。

・・・礼拝堂(後にシステーナ礼拝堂と呼ばれる)が建設されました。

教皇はペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、シニョレッリ、ピントゥリッキオらを呼び、

礼拝堂の壁にモーゼとキリストの物語を描かせた。

1489年・・・フィレンツェでは、ミケランジェロが前年弟子入りした工房の推薦で、フィレンツェのメディチ家主催の「プラトンアカデミー」に参加しています。

14歳で、アカデミー参加者の彫刻家ジョパンニから古代ローマ時代の彫刻情報や、技術も学んだことでしょう。

少年時代にこのような環境で生活し自信過剰になったのか、15歳で年上の彫刻家に鼻を折られ、曲がってしまった。

1492年アレクサンデル6世(チェーザレ・ボルジアの父)が教皇となった。フランスがイタリア進出の動き

1494年メディチ家はフィレンツェを追放され、ドメニコ派のサン・マルコ修道院院長、サボナローラが花の大聖堂で説教をしていた。

1495年、20歳のミケランジェロ、仕事がなくなり、キューピットの彫刻を彫り古代風に処理し友人がローマの枢機卿に高値で売りつけたが、偽物とばれた。

1496年 ローマの枢機卿から彫刻の技術を買われ、ミケランジェロがローマに招かれ、「バッカス」の制作を依頼された。

完成したバッカス(豊穣とブドウ酒の神)は裸だったので? 引き取りを断られ、今日、フィレンツェの美術館にあります。

1497年、教皇庁のフランス人枢機卿から自分の墓のために「ピエタ」の制作依頼を受けます。

完成に2年、高さ1.75m 完成したピエタは、間もなく亡くなった枢機卿の墓に置かれていた(聖・ペトロの近くにある礼拝堂内)

このピエタが、サン・ピエトロ大聖堂に移り、今日 防弾ガラスで保護されています。

1498年、フィレンツェで、サボナローラがシニョーリア広場で火あぶりの刑になる。

1500年の聖年祭の前年、ブラマンテがローマを訪れ、古代遺跡の調査をしています。

 今日では発掘が進んでいますが、16世紀初めこれらが土で埋められ・・・表層はブドウ畑、そこからラオコーン像が発見された。

(バチカン美術館)

1505年 ミケランジェロは、フィレンツェに戻ってダビデの像を完成させ・・・また教皇に呼ばれ、ローマに戻って来ました。

ラオコーン像が破損した状態で発見された・・・衝撃的な出会いだったと思います。

その2年後、ラファイロは、ローマ帝国時代の黄金の館が土の中から発見され、屋根に穴をあけてロープで内部に入り

見事な壁画類に接しています。

・・・ローマ帝国時代・・・1500年前の天井画作品です。感動したでしょう。

(グーグルより)

(グーグルより)

教皇はカトリック教が危機にあった時代、このローマにヨーロッパ各地から巡礼者を呼び寄せるには何が必要か、よくご存じでした。

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