冬季オリンピックが開催中だが、国家として参加が認められなかったロシアの話題で憂鬱になる。
更に、ウクライナに攻め込む陰謀のシナリオが流れ・・・危機一髪との西側情報、
ロシアは軍事訓練と称し10万人、今では19万人とも、ウクライナ国境に展開・・・しかし
マァ意思決定する双方の当事者は、最前線の屋外では無く、後方の温暖な室内で緊張感をゲーム感覚で楽しんでいるのか。
・・・策略は二の次、・・・大将が先頭を走り、この大将に続けと部下が奮い立つ・・・そんな歴史上の人物が
このモザイク画の英雄、アレクサンドロス大王です。
手前斜めからの撮影画像を、もう少し起こした状態に加工してみました。
実物は、縦3.1m×横5.8mと非常に大きく、
この画像の荒れようでは判別できないでしょうが、ざっと400万個と言われる石片、精緻なモザイク画です。
アレクサンドロス大王は、このモザイク画が出土したことにより肖像が後世に伝えられています。
この戦いは、ギリシア同盟軍を加えたマケドニア軍が総勢4万から5万人、一方ペルシア軍は20万とも25万とも
戦場はペルシャ軍が鉄の車輪の戦車が走れるよう地ならしをしておいた平原で、両軍が向かい合った。
両サイドから攻め込まれ、戦いが始まった、中央を・・・直進する戦車はスルーしてやり過ごし・・・。
アレクサンドロス大王は前線の中央、突然、騎馬隊の先頭で敵陣の隙間を中央突破、左に回り込み・・・
織田信長の桶狭間の戦い同様・・・ペルシャ軍の大将、ダレイオス! と突進した・・・場面と言われます。
予期せぬ突然の攻撃を受け、大軍のペルシャ王、ダレイオスは恐怖を覚え・・・戦場から逃走した。
・・・桶狭間で今川は首を取られ大敗したが、大軍を率いていながら、指揮を放棄し王の逃亡はみっともない
・・・敵の3倍の軍勢で大将が逃亡したケース?・・・近代でも徳川慶喜がおりましたか。
王が逃亡すれば・・・ペルシャ軍の兵隊は四方八方へ・・・敗走兵は追いかけられ惨敗・・・悲惨ですね。
・・・西暦79年頃、ローマは100万人の大都市、ポンペイの人口は、1~2万人と言われる。
当時ローマ帝国は侵略先の捕虜を何万人も奴隷として連れて来て、奴隷市場で売買されています。
貴族も平民も奴隷市場で購入できるので、召使いとして奴隷が働かされていた。
石畳が上の写真のように馬車の車輪で窪んでいます。
すれ違いは、交通整理の人がいたのでしょうか。現在の知識では、砂利を撒けばと思ってしまうが。
馬車が立ち往生したら、・・・すぐ数人が駆け寄って来そうな、活気のある街の感じがします。
このポンペイでも人口の2~3割は奴隷と言われます。
・・・ヴェスヴィオ山が大噴火する・・・17年前、西暦62年にポンペイは大地震に襲われています。
地震の被害が大きくても、この地はブドウ農園でワインの製造が発達し、裕福な貴族が多く
近くの河口は良港で船舶の物流も発達し、豊かな漁場で水揚げも多く・・・この街は復興の最中でした。
そこにヴェスヴィオ山が経験したことのない大噴火、・・・ローマの文筆家小プリニウスが
知人に送った手紙に、紀元79年8月24日の記述があり、夏の噴火が定説になっていました。
しかし、最近の発掘調査で壁に木炭で日付とメモが書かれているのが発見されました。
木炭は短い期間で消えてしまうが、短時間で数メートルも軽石と火山灰で埋まった結果、保存された。
木炭で書かれた内容から10月・秋の季節が正しいだろうと修正されました(79年10月24日)
・・・余震が続くポンペイの街で、家の修復中に埋もれてしまった・・・そんな状況も発見されています。
石灰・レンガがあり、大理石のプレートが積み重なり、仕事中で逃げなかったのでしょう。
この円柱の建つ場所は公共の神殿でもなく、・・・貴族の邸宅の一角です。
そして、邸宅内のファウヌスのブロンズ像(複製)は有名になりました。
邸宅内のこの場所は、中庭のように周囲に屋根がありました。
中庭の変わりに多色使いの大理石が敷き詰められ・・・これは、雨水を貯める水槽が設けられていました。
ファウヌスの家と呼ばれるこの邸宅に、先程のモザイク「アレクサンドロス大王とダリウスの戦い」もありました。
・・・豪華なペルシャ絨毯やタペストリーは、銭で購入できますが、
・・・このような作品は、人気の職人を長期間確保しなければ・・・家主は相当な財力があり、何世代も続く貴族でしょう。
こちらは、水飲み場、青銅製の水道の蛇口、豊穣の神・女神像を飾る芸術の街です。
ローマ帝国の水道橋と同様、ポンペイも大都市に水は重要で・・・豊富でした。
道路に沿って水道管も引かれていますから、堀とは衛生のレベルが違います。
火山と水・・・温泉、ローマ同様この街でも立派な公共浴場がありました。
スタビアーネ浴場、施設には広い運動場やプールもあり、浴場は男女別になっていたようです。
紀元前でしょう・・・相当年代が古るそうです。
厚い壁、半円アーチ、採光・・・後に教会建築でロマネスク様式、ゴシックと発展していきますが
まさにロマネスク、さらにこの時代、ギリシャ彫刻の影響で
レリーフ像が、周囲を取り巻いています
硫黄成分の立ち込める中・・・2000年前の建物の装飾です
機能と実用、露天風呂でもいいでしょう・・・とはならないのですね
奥にある大理石の水盤は、温泉水と思ったが、水風呂もあったようで
水風呂にスチーム利用の部屋、温泉水にプールまで、ジャグジーは無かったでしょうが、スーパー銭湯並みの種類です。
天井や壁面の装飾もすごいですね。
生活を豊かにするために、街の評価を高めるために、長期に渡って投資する人が存在したようです。
ポンペイは、街の中央から北と西に発展していきます。
街にはパン屋も居酒屋も、娼館も劇場も、神殿もありました。
窯のある店は何ヵ所か発掘されています。
娼館も25軒発掘されていて、壁画も何点か公開されています。
北の外れに大邸宅が1909年に一部、1929年から1930年に発掘と修復が行われた秘儀荘
大小90の部屋、ワイン製造もされていた。
ここの壁全長17m、3面にディオニュソスという宗教儀式のフレスコ画、等身大の人物29人
左から右へと物語が描かれ、・・・禁じれれていた秘教とされる様子も残されています。
ポンペイレッドと言われる赤が鮮やかなままで残っています。
大地震に見舞われて街は復興中でしたが、悪夢が残る中またも地震、さらに休眠中だった緑の山が震えている。
2万人ともいわれる住民も、今回は避難しようと多くの人が港の船に助けを求めた。
ついに噴火が始まって、混乱の港に救助に、・・・ミセヌス艦隊の司令長官が(噴火について手紙を書いたプリニウスの叔父)
博物学の著書(大作)を残しています、司令長官56歳は、噴火が続くポンペイに艦隊を着艦させ、・・・結局亡くなっています。
ルネッサンス期に再販?かつて目を通して印象に残っていたのが、百科辞典クラスの項目の中で具体的な怪獣です。
インドに住むドラゴン、トリトン(半人半漁)、フェニックス、ユニコーンなどが具体的に記述されていたと思います。
さて一旦非難したが、財宝の持ち出しに戻ったり、離れられない事情で街に残った人々が1000人以上と推定されています。
1863年の発掘の際、地中に空洞が多く存在し、調べると亡くなった遺体が朽ち果てて空洞になっていた。
空洞は息絶えた最後の形として残っている、・・・そこに石膏を流し込み・・・石膏像が掘り出された。
調査隊のジョゼッぺ・ヒオレンティが、このような石膏像の形にして、発掘時の状態を再現しました。
顔面は・・・再現は難しいそうです、人は苦しかったから・・・最後まで動きます。
ガラスケースに収まっているので、ミイラとは違う不思議な感覚です。
発掘現場に置かれていれば、悲惨さが倍増しているでしょう。
この様な石膏像も、東京国立博物館で公開されているようです。
ヴェスヴィオ山の噴火は昼過ぎに始まったそうで、山麓の南側に被害が集中しています。
飛散する軽石に驚いて部屋に逃げ込んでいたら・・・半日で1メートルも積もり
やがて落石が静かになる頃には、街中に軽石が数メートルも堆積し逃げられない。
死の街になってしまったのが、高温の火砕流と有毒ガスに襲われたことだったと思われます。
ポンペイ地区では、まだ3割も・・・土砂の下に悲惨な状態で、2000年もの長い間眠っています。