毎日ちょっと仕事をしては用もないのに出歩いている。車検中で車がないのだけど、それでもバスで出かけたりしている。
ボッチはいても手がかからないし、犬たちを看病していた時間がポッカリ空いてしまって、どうしていいか分からないのだ。
犬たちがいない家に帰るのは怖い気がするのに、犬たちがいた部屋に早く帰りたいと思ったり、こころはやじろべえのように揺れている。
みんなが使っていた布団やタオルケット、ヨガマットなどを処分するためにクリーンセンターに持ち込んだ。16枚ものヨガマットを車から降ろした私に清掃員のおじさんが「こんなにたくさんのヨガマット、何に使っていたの?」と聞いた。家庭用一般ゴミとして申告したので不思議だったのだろう。
仕方ないので「老犬がころんで足腰を痛めないように敷いていました」と答えたのだけど、おじさんは分かったような分からないような曖昧な表情を浮かべていた。
敷物や犬たちのベッドがなくなった室内はやけにさっぱりしてしまった。
犬たちはインターホンが鳴ると玄関に出て行くので、ドアから顔を出して来客が驚かないように、たたきの前にホームセンターで買った赤ちゃん用のゲートを設置し、犬たちが飛び出さないようにしていた。もう飛び出す子もいないのでゲートは不要である。なので、それも処分しようと一度外してみた。
ところが、ゲートのない玄関はなんだか妙に怖いのだ。誰かに簡単に入って来られそうで怖い。ちょっと押せばすぐに外れてしまうゲートなので防御の役に立つしろものではなく、それがあっても簡単に入って来れるのだけど、ないと落ち着かない。習慣とは恐ろしいものだ。一度は片付けたもののゲートのない玄関になじめず、また置き直したのだった。相変わらずいちいちゲートを跨いで出入りしている。バカみたい。
ブナが徘徊していた頃、ボッチはむやみに歩き回るブナに困惑していた様子だったが、遊び半分にときどきブナに猫パンチをくらわすことはあっても、ほとんどの時間を座面を壁のほうに向けていたソファの背もたれの上の縁を定位置にしてじっとしていた。
ところが、動き回っていたブナが亡くなると、ボッチは静かに横たわっていることが多くなったクリを尻目に我が物顔に部屋中を走りまわり、敷きつめてあったヨガマットで盛大に爪研ぎを始めた。足元がおぼつかなくなったクリのためにヨガマットは必要だったので、ボッチが爪研ぎをするたびに「こら~、これはお前の爪研ぎじゃな~い!」と叱るのだけど効き目なし。
ピンク色のヨガマットはとうとうボロボロになってしまい、買い替える羽目になった。ボッチの爪研ぎも何個か新調してやったのに、やはり新しく敷き直したヨガマットで爪を研いだ。クリは寝た切り同然だし、ボッチには怖いものなしであった。ソファの上からゲロを吐いてクリにかけてしまったり(わざとクリに吐きかけたわけじゃないけど)、寝ているクリにも猫パンチをして走り去っていったり、やんちゃし放題であった。
タオルに潜り込んだつもりのボッチ
私は、巨大結腸症で頑固な便秘を患い、あまり抱かれることも好まない、ちょっぴりへそ曲がりのそんなボッチを「引き取ってあげた」くらいに思っていた。
ものすごい奢りだった。
クリが亡くなると、ボッチはストレートに淋しさを訴え、私にくっついて回った。ボッチが我が家に来たときにはトチもまだ健在で、3頭はボッチをいじめることもなく快く迎え入れてくれた。大きな仲間が1頭、また1頭といなくなり、ボッチも淋しいのだ。私がトイレに入ると、ドアを閉める前に駆け込んで来たりした。
ブナとクリを相次いで亡くし、ガラ~ンとしてしまった家の中に、私にすり寄って来るボッチがいたことで、どんなに救われたことだろう。小さな猫の形をした「いのち」が、そこにいるだけで息をするのが少し楽になった。
ああ、この日のために神様は私にボッチを預けてくれたのだ。ボッチを「引き取ってあげた」のではなく「授けてもらった」のだ。私はなんと奢っていたんだろう。ボッチがいなかったから、誰もいなくなった空間の重さに押し潰されていただろう。
この痛みに一人で耐えたピッコイ母の辛苦を思った。新たに家族になったピッコイ似のアユンギも授かるべくして授かった神様からの贈り物なんだな。