先日、上田紀行著“生きる意味”の本に、以下が書かれていた。
『バブル崩壊と共に長く続いた右肩上がりの神話は終焉し、経済的な利得は得えられなくなってしまった。それは、それまで長年にわたって続いてきた、日本人の「他人が欲しがるものを自分も欲しがっていれば安心だ」という欲求の形がもはや無効であることを宣言するものだった。
他人が欲しがるものを手に入れるのではなく、本当に自分が欲しいものを手に入れなければ、悲惨な人生が待っている。そして「自己責任」が強調される社会では、その悲惨な人生を誰も助けてはくれない。
しかし、それにもかかわらず、「みんなと同じ欲求を持て」という命題に代わる価値観は現われてきてはいない。経済的利得が得られていたからこそ、人間としての基本的な欲求が抑圧されていても我慢できた。
しかし、利得は失われ、なおかつ抑圧だけは残っている。利益も無ければプライドもない。それが現在の日本人の状況なのだ。』
(中略)
『学問にも様々なあり方がある。日銭を稼ぐのがうまい学問は明らかに儲かる学問だ。しかし、一見もうかりそうにない学問であっても、私たちが人生の危機に陥ったときに、一生に一度私たちを人生の深い次元から救ってくれるような学問もある。生きる意味に惑わってしまったときに、その道を力強く指し示してくれる学問もある。
そうした「人類の叡智」の詰まった学問を切り捨てて日々儲かる学問だけを残せば、私たちの「生きる意味の病」はますます深刻化することになってしまう。私たちをこれまで深く支えてきた「叡智」が、効率化の名の下に失われてしまえば、私たちの人生もまた大きな意味を失ってしまうのだ。』
この本を読んで、「生きる意味」を考えました。人間にはだれしも役割を持っていますから、生きる意味は、その役割を最大限に発揮していくことが大切ではないかと思います。自分も70歳になり大きなことは出来ませんので、自分に出来ることを粛々とやっていくことに、生きる意味があるのではないかと思います。
「十勝の活性化を考える会」会員
注)人生
人生とは、人間がこの世で生きることや、生きている時間、経験などのことである。人生に対する見方や、人生の意味の理解のしかたを人生観という。
西洋では聖書が人々に豊穣な人生観を提示してきた。東洋では仏典の中に同様の役割を果たすものがある。たとえば法華経は多くの人々に人生を生きる意味を教えている。
飯田史彦はある著書で、人生を一種の学校だととらえることができるとしている。壁を乗り越えることに意味があると考えるのではなく、壁があることに意味があり、壁に挑戦しているだけでもすでに意味がある、と考えることで、人生で起きるすべての出来事に意味があると考えつつ人生を前向きに生きてゆくことができる、と説明している。
また、飯田は別の著書で「自分たちは、ある法則のもとで人生を何度も繰り返しながら成長している」という人生観は人生について最も豊穣な意味づけを可能にする、と述べている。この人生観を採用すると、「今の人生は、次の人生の下地となるものなのだから、今回の人生を日々大切に生きよう。そうすればその努力は次の人生に反映されるのだ」と希望を持って努力することができるという。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)