馬は家族の一員だった
寛政10(1798)年幕臣近藤重蔵が十勝場所ルベシベツからビタタヌンケに至る山道3里程を開削し、翌年幕府が様似(様似、幌泉間)と猿留(幌泉、ビタタヌンケ間)山道及び礼文華山道とを開通させた。馬を通すことができる様になったので、馬60頭と牛4頭を南部(岩手)から購入し、東蝦夷地の各会所に配布して、運搬、連絡用に供した。この時に広尾、大津に十勝の最初の馬が置かれました。四季放牧の飼い方で自然繁殖して、安政5(1858)年には215頭、明治10(1877)年には652頭を数え、民間に払い下げられた。明治14,5年に音更の大川宇八朗、帯広の国分久吉が内陸部での馬使用の始まりです。明治18(1885)年に晩成社も導入、翌年に渡島国七重の馬使いの名人、田中清蔵を一年契約で雇い、馬耕の指導を受けた。この頃の馬は「ドサンコ」であつた。
「ドサンコ」 蝦夷地と呼ばれていた江戸中期に松前藩の藩士や本州からの出稼ぎ人、商人たちが南部馬を連れてきて使用しました。冬になる頃本州に帰る人々は馬を野に放ちました。雪下のミヤコザサや海辺の海草等を食べ、厳しい北国の自然に適応していた。半野生状態で自然繁殖した馬が北海道和種「ドサンコ」の始まりです。体高130センチ程で体重400キロぐらいと小型で駄載に適した。
やがて様式のプラウやハローが使用される様になると駄載力より輓曳力が求められるようになった。改良のため明治24(1891)年に晩成社生花苗牧場、斉藤牧場に道庁からサラ雑種の種馬が貸付されたのが十勝の馬の改良の一歩です。その頃は年中放牧で飼われ、自然繁殖で増えて明治39(1906)年には13,300頭余に達した。
日清、日露戦争でわが国の馬は軍馬として体格、力量、調教で外国に劣ることが認識された。そこで国は明治39(1906年)年馬政局を設置して馬の改良事業に着手する以後、全国に種馬牧場3ヵ所、種馬育成所1ヵ所、種馬所15ヵ所が設置され欧米からペルシュロン、トロッター、サラブレット、中型で足の速いアングロノルマン種の優秀な種牡馬が輸入され「馬産改良」が図られた。十勝には明治43(1910)年に音更村駒場に十勝種馬牧場が設置された。
明治39(1906)年には十勝国産牛馬畜産組合が誕生して市場開設を行い、馬の流通に寄与した。また馬喰(ばくろう:家畜商)の人達も売買に当たつた。
耕地も大正3(1914)年には75、000町と急速に開拓が進んでいった。昭和4年には全道総馬数約26万2千余頭の内の五分の一に当たる4万8千頭が十勝で飼育されて、まさに「馬の十勝」であつた。
昭和9(1934)年の耕地は200,068町で農家戸数は17,827戸、馬は49,519頭になる。
「軍馬」 明治29年(1902)以降全国7ヵ所に軍馬補充部が置かれた
北海道は釧路に置かれ、大正14(1925)年十勝支部(元々は明治43年に釧路支部足寄太出張所として発足)が本別村仙美里におかれた。中間種の2歳馬が馬市等で買い取られ、三年をかけて統一した号令で動くよう調教して、力量に大差のない馬を軍にまとめて供給できる体制が構築された。昭和6(1931)年の満州事から昭和12(1937)年の日中戦争と進み、昭和13(1938)年に陸軍省の主導のもとで馬政三法が(軍馬優先した政策)成立して、民間馬の「徴用」も視野に入れた馬の国家総動員の体制がとられた。やがて民間人の五歳牡馬の買い入れ、更に働き盛りの馬も「徴用」された。この頃の民間の馬の値は5,60円で軍馬は5倍程高く買われた。昭和20年(1945)の終戦までに、軍馬として出征した数は全国で50万頭とも言われている。悲しくも海を渡り、帰らぬ馬となった。
徴用される愛馬ハツと坂本さん一家
「女性ホルモン」 横浜の野入半七は輸入されているホルモン薬に注目し、妊娠馬の尿に注目して昭和11(1936)年、芽室に入りその収集をはじめた。帝国社臓器薬研究所の資本で昭和15(1940)年に濃縮工場を建設、翌年から十勝の各町村にも施設ができ、その採取量は2,000余石(1石は180リットル)の好成績に達する。その後、芽室町、十勝畜産組合の陳情により、帝国臓器製薬株式会社(前身は帝国社臓器薬研究所)」十勝工場が昭和18(1943)年建設された。オバ(女性)ホルモンの純結晶が生産された。昭和32(1958)年に馬尿採集の歴史は終えた。
敗戦の昭和20(1945)年は42、800頭その後年々増加して昭和31(1956)年には65,070頭を数えた。30年頃から自動車の普及、-トラクターによる農業に変わり、馬の数は年々減少していった。
プラウで畑起こしをする神田日勝兄弟 1952(昭和27年頃)
農家戸数 馬頭数
昭和24(1949)年 22,287戸 44,676頭
30(1955) 23,245 64,000
40(1965) 19,761 39,090
50(1975) 12,790 5,880
60(1985) 10,923 4,210
平成 7(1995) 8,681 3,540
17(2005) 7,028 2,789
30(2018) 5,544 1,347
開拓に挑んだ、先人の苦難の努力と共に農耕、運搬等に寄与した馬は
十勝発展の礎と言えます。明治の中頃から昭和30年頃までの70年を経て、6万5千頭を数えた馬の仕事もトラクター、自動車に変わり昭和40年から急激に減り今は千数百頭になった。その半数の650頭は競馬場の輓馬です。
農家戸数もこの65年で4分の1になり、今後更に減少する予測です。
食料自給率が40パーセントにも満たない今の日本、今後どの様に進んで行くのでしょうか。
ばんえい競馬 レッドクレオパトラと林騎手
「十勝の活性化を考える会」会員 Y