十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その25 『積善社』趣意書

2020-03-27 05:00:00 | 投稿

 この頃、我が国の農業は、内地はもとより北海道においても、一部の地主による土地の支配のもとで、大多数の農民が小作として農業を営んでいた。最近、「格差」という言葉がしきりに喧伝されているが、戦前の地主と農民のヒエラルキーは凶作の場合、餓死者が出るほどの格差であった。かねがねこうした矛盾に胸を痛めていた寛斎は、農家の自立と生活の安定を強く望んでいた。
 北海道開拓には、これまで種々述べてきたようにさまざまなモチベーションをみることが出来るが、帰するところは人間の尊厳と生活の安定であり、自作農としての農民の自活自立である。
豊頃に二宮尊徳の偉業を慕って訪問したのも、尊徳の思想に接することによって、自分自身の理念を照合し、改めて確認するためだったのである。
こうした寛斎も既に入植三年目である。そこで彼は二宮尊徳の報徳仕法などを下敷きにして、己れのポリシーを文字に起草。それが
『積善社』趣意書」である。(以下はその要旨)

 我家は北海道十勝国中川郡字斗満の僻地に牧場を設置し、場内に農家を移し、力行自ら接し、仁愛人を助くるを特色とし、永遠の基礎を確定したる農牧村落を興し、以て此れに勤倹平和なる家庭と社会を造らん事を期せり。
是実に迂老が至願なりとす。迂老は幼にして貧、長じて医を学び、紀伊国浜口梧陵翁の愛護を受け幸に一家を興すことを得たりと雖も、僅に一家を維持し得たるのみにして、世の救済については一毫も貢献する所なし。今に至り初めて大いに悟る所あり。
 自ら顧るときは、不徳非才事志と違ふこと多しと雖も、寸善を積みて止まざるときは、何れの日か心成の期あるべきを信ずる事深し。乃ち先ずこれを我牧場の小村落に実施し、延いて他に及ぼさむことを期し、これを積善社と名づく。
明治三十八年
七十六老 白里 関 寛

渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編

 

§

のちにこの寛斎翁の志が、息子又一が農学校で学んだアメリカ式農場経営と大きく乖離し、対立することとなる。

ちなみに、「白里」とは寛斎翁が自ら名乗った「雅号」である。百から一を引いた九十九とは、寛斎が生まれ育った九十九里浜の光景であり、歳を重ねるにつれ生まれ故郷への憧憬が、寛斎をしてそう名乗らせたのであろう。

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