日露戦争に出征する又一を見送った寛斎は、十月二日、札幌から牧場へ帰農した。陸別では、すでに七竈が鮮やかな真紅に色付き、秋風に夕べの寒さを感じる陽気である。
寛斎は、農場に着くや開口一番、「留守中、ご苦労だったナ」と、ねぎらいの言葉をかけたが、誰からも返答がない。そればかりか片山八重蔵が肩を落として悄然と佇み、虚ろな眼差し、がっくりした表情、寛斎から眼をそらす者など、部屋の空気が澱んでいる。
「どうした、何かあったか。-」と、寛斎が問いかけると、片山が、「なんか、わけのわからない病気にかかって、次々とこう!」
「誰が」
「九月二十日頃から馬か倒れはじめて……どうやら疫病らしくて伝染しよって、追い追い病馬が増えて、儂らにはどうしょうもなく……」
「で、何の病気だ」と、彼は思わず上ずった声で聞き返したが、誰一人判るはずがない。寛斎をはじめ関牧場の従業者が、如何に強い使命感を持ち不屈の精神の持ち主でも、こと、牛や馬の疾病についての知識や、治療のマニュアルは全く持ち合わせていない。
馬の病気には、馬鼻胆、炭胆、脳炎、デンビンと云う伝染性貧血などがあり、脳炎は人間の十倍の発病率があり、デンビンは、脱兎の勢いで伝染して、アツと云う間に百頭ぐらいは倒れてしまう恐ろしい病気だと云われている。
遠隔の隣村から駆け付けた関川獣医も、病名不明で診断しかね、よって今後、一体如何なる事態に陥るか、皆目見当がつかない。
片山夫妻はもとより、全員が悄然と肩を落し、「勤めても励んでも、実りがなく……」
「儂らの苦労は、徒労だったんと違うんか?」「年貢の納め時かのう」
と誰も彼もが自信を喪失、意欲が減退し、まさに落胆の極みに至り開拓から身を退きたいと云う様子が、その表情や言葉の端々から感じられ、暗く重い雰囲気である。
寛斎は、帰着後、まだ草履履きのままで紐も解かずに足早に厩舎に直行して見ると、寝藁の上に数頭の馬がぐったりとして倒れている。関川獣医の、「手の施しようがありません」と、力なく呟いた声を聞き、彼はへなへなと崩れかかったのである。
と、その時、寛斎はハッと目覚めたように忽然と筋肉が凝結し、意識のバネがしなやかに弾んだ。
儂が皆とともに沈衰したなら、この先、一体どうなるか。一大奮起して現状回復を図り今後は如何なることがあろうとも臥薪嘗胆せねば我が牧場は、忽ち瓦解することは必至である。そのためには、まず、この儂が気骨を持って、頑強な実行力で事にあたらねばならぬ。
よし!と、奮い立ったのである。
悄然とした一同の頭上に、突如、寛斎の鋭い声がひびいた。
「皆、よく聞け。見ての通りの惨状だ。我が牧場の現状を恐るる者があれば、即刻、此処を立退け」と、全員に告げた。狭い駅逓所に響きわたるような、朗々とした声で、年老いた寛斎の何処からこの迫力が生まれてくるのかと、感じ入るような叱咤である。
「皆に告げる。儂は生存する限りは、決してこの牧場を退場しない。たとえ一人になろうとも踏み止まって、牛馬の最後の一匹までを見届ける。
儂らと苦労を共にした牛馬には、出来得るかぎりの治療をほどこす。それが儂らの務めではないか。しかしながら努力むなしく全馬がたおれた時は、畜生ながら労苦を倶にした牛馬の霊を弔う心算である。農場の死守は、儂ら夫婦の素願である。儂は見ての通り老いぼれだが、その魂は曇っておらん。
さいわい、瑞祥、北宝の二頭のタネ馬が生き残っている以上、望みを絶たれたわけではない。今後、病馬があれば、十分に加療し死に至らしめぬ心がけこそ、我々の責務である。
先般、又一が入隊に際し、その不在中は、独立自営、もし戦死したなら、必ず第二の又一を以て初志を貫くことを誓った。儂はこの農場と運命を共にする覚悟である。それがせめて二人の骨を埋める事を誓った亡き妻に対する慰霊である」
肺腑をしぽるように心情を吐露した寛斎のこの言葉に、片山夫妻をはじめ一同の迷いや悩み、落ちくぼんだ心情が癒え、狭窄した視野が明るく開け始めたのである。
当時、北海道の入植初期には、こうした災害災難に遭って開拓を中断したり、小作人や従業員から見捨てられ、挫折撤退する農場は彼方此方にいくらでもあった。
渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編
関寛斎資料館 関寛斎像
「十勝の活性化を考える会」会員 K