『夏草や 兵どもが 夢の跡』の俳句は、江戸時代の有名な松尾芭蕉が、岩手県平泉で藤原三代の栄華のはかなさを詠んだ俳句である。奥州藤原氏の租である藤原清衡氏はエミシ(アイヌ)と言われており、兵どももエミシのことであろう。
芭蕉は伊賀の国で生まれ「俳聖」といわれた伝説的な俳人。小林一茶や与謝蕪村と並ぶ江戸時代の三代俳人の一人で、明治時代の正岡子規などにも影響を与えたとされている。芭蕉は旅を愛し多くの紀行文を書き残しており、その中で最も有名なのが、「奥の細道」。
芭蕉は、1889年に江戸を経ち2年間で2400キロ、約150日間を歩き、1日15キロほども歩いて江戸にもどっている。芭蕉が目指した俳句は、わび、さび、細み、軽みなどで、五七五の17音の中に自然の情景や心情を詠んだ俳句は、まさに日本の文化といってよいだろう。
先月、ある俳句会に入会したが、言葉の大切さを思ったからである。故三島由紀夫氏は、言葉は“言霊(こころ)”が大切であるといっていたが、今の政治家に言ってやりたい言葉である。幽玄閑寂の境地をめざした俳句は、和歌・連歌にならぶ芸術性の高いものであった。日本三景の一つに数えられる松島では、芭蕉はその美しい風景に感動するあまりに俳句を詠めず、随伴した河合曾良が、「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」と詠んでいる
また平泉の金色堂では、『五月雨を 降り残して 光堂 』という俳句を残している。光堂とは金色堂のことである。金色堂が建てられてから数百年、五月雨は平泉でも毎年降ったであろうが、朽ちることなく美しい輝きを放つ光堂に芭蕉は感動したのである。
そして芭蕉は、出羽国(今の山形県)に入り、立石寺に参詣した際に詠んだ俳句、『閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声』の句を残し、 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下っている。他の二つは、富士川と記憶に新しい球磨川である。
『五月雨を 集めてはやし 最上川 』
最上川 は、山形県 を流れる1級河川で、五月雨とは梅雨のことである。 流路延長229 km は、ひとつの都府県のみを流域 とする河川として国内最長である。新潟県出雲崎では、『荒波や 佐渡に横たふ 天の川』という日本海の荒波の情景を詠んでいる。荒れ狂う日本海の向こうには佐渡島があり、佐渡島は金が取れる島であったが、日蓮や世阿弥が島流しの刑になるなど罪人の島でもあった。芭蕉はさらに南下して富山、金沢、福井を経て岐阜県大垣で、奥の細道は終わっている。なお、芭蕉は1644年に生まれて1694年に没している(享年51歳)。
「奥の細道」が書かれた時期は、元禄文化の時期である。元禄文化は町人文化であることが強調されすぎて、そこに武士のはたらきがあったことは比較的に軽視されてきた。身分制社会ではありながら職業を通じて社会の役に立ち、一定の役割を果たしていた点では、人間は対等であるという人間観が元禄文化期にすでに成立していたのである。元禄文化期に職業文化人ともいえる人々がいたことは、その後の社会や文化にとって画期的な意味を有していた。江戸時代は、公家文化が庶民に向けて開放された時代でもあったのである。
芭蕉が亡くなる4日前に詠んだ俳句、『旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる』は、辞世の句といってよいだろう。 「十勝の活性化を考える会」会員