先日、「北海道新聞」の令和3年12月9日付け夕刊『今日の話題』欄に、以下のようにアイヌの差別が載っていた。
『(前略) 高校時代に受けた日本史の授業が鮮明に残っている。教師は教室に入ってくるなり、「きょうは最後の授業なので伝えておきたいことがある」と言い、隣町に住む13歳のアイヌ民族の少女が書いた作文を読み始めた。それから、40年近い時が流れた。 (中略)
中学1年の時に「差別」という題の作文で、釧路人権擁護委員連合会などが主催する作文コンクールで最優秀賞になった。小学生の頃から、いじめに遭っていた。でも両親には心配かけまいと話さなかった。毎日学校から帰ると、その日にあったことを新聞のチラシの裏に書くことで何とか自分を保とうとした。
だが、6年生のある日、とうとう親の前で大声で泣いた。下校途中に男子から差別的な言葉を浴びせられ、明日も学校で繰り返されると思うと抑えきれなかった。少女は悔しさの中から言葉を絞り出す。「私はいじめられる苦しさ、悲しさを知っている。だから人のことも考えてあげられる』と。
アイヌの差別は、今でも続いている。差別は、相手を思いやる心を持てないからであろう。ただ、当たり前であるが、相手を思いやる心があっても同じ環境に置かれなければ、その人の本当の気持ちは分からないと思う。この記事を読んで、そのように思った。
先日、部落問題を扱った映画“橋のない川”のDVDを、帯広図書館で見てきた。この映画でも部落民に対する偏見がひどく、明治4年に制定された四民平等は有名無実で、穢多非人の差別は続いていた。
差別とは、人に“差”をつけ、自分とは “別”の存在(グループ)として一種の排除をすることである。人間には、能力や外見などの合理的あるいは非合理的な様々な違いや差があることは否定できない。大切なことはその事実を認めたうえで、その違いや差によって人を排除しないことである。
このような人種差別は日本だけではなく、少数民族であるウイグル族への差別や弾圧に見られるように世界中にある。南アフリカ共和国で人種隔離政策(アパルトヘイト)があったが、今はどうなっているのだろう。新型コロナで貧富の拡大が進んでいるが、人種差別の拡大に繋がらなければよいと思っている。
「十勝の活性化を考える会」会員