VOL2 わ・た・し流

おとぼけな私ですが 好きな本のことや 日常のなにげない事等 また 日々感じたことも書いていきます。

現代と「方丈記」⑥

2013-04-11 09:51:33 | 方丈記

現在、もっとも心配しているのは 「食と水」


 松原さんも 世見でたびたびとりあげているが

これだけ地球が砂漠化し、異常気象の時期にも入り、

 また、大国の環境汚染が深刻になると

次にくるのは、安全な水と食料の問題だ、と


 昔も 環境汚染はなかったものの

飢饉は 定期的に人々を苦しめたことが歴史にあきらかである


 長明が方丈記を書いたのは、

出来事からほぼ25年以上もたってからなので

 養和の飢饉の時期については 時期があやふやだと述べているが

1181年~1182年ころらしい。



「ある年は春と夏に雨が降らず、水不足に見舞われた。

また、ある年は秋と冬に台風・洪水に見舞われるなど、次々と

 天災が続いて、五穀がことごとく実らなかった。

いくら働いてもかいがなかったが、それでも春に田をおこし、

 夏に苗を植えた。しかし、秋の取り入れ、冬の納庫という

喜びはなかったのである。」


 飢えに苦しむ人々は 他国に逃げたり、山の中に移りすんで

木の実や草の根で飢えをしのぐものもいた。都では 加持祈祷が

 行われたが 一向にききめなく、ついに

貴族たちは 家の宝を食糧と交換し始めたが、飢饉のさなか

 宝に興味を示すものなど少なく、また いたとしても

安く値踏みして 食物を高く売りつけた。

 路上生活者が増え、飢えに苦しむ声が耳について離れなくなった。


とある。


 そして、次の年は 皆 期待していたが 今度は 疫病がはやってしまった。


そのさまを、長明は

 「小水の魚」にたとえた。


「水が無くなった魚が呼吸困難にあえぐ様」


いわく 「飢えのあまり 正気を無くした人々が

 歩く力はまだ残っているのかとみるうちに、

突然ばったり倒れて息絶えてしまう。

 土塀の外側や道の端に、餓死者の死体が無数に

放置されたままにされたので、死臭が京の町に充満した。

 また、死体が腐乱して形が崩れていく情景など

むごたらしくて目をそむける情景がたくさんあった。

 道より広い賀茂の河原などが、絶好の死体置き場にされた

のは 言うまでもない。


 ここには、馬や牛車が通るすきまもないほど無数の死体が

山積みされた。


 また、たくましく飢えにも強いはずの木こりや農夫も

あまりの飢饉に体力が尽きてしまったので、

 彼らが運ぶ薪なども不足した。

そこで、売るもののない人々は 自分の家を壊して

 市場で 薪として売った。


だけど、その代金でさえ、一日の命をつなぐ食費にも足りなかった

 という事だった。

中には、自分の家もないため、仏像や仏具などを盗んで

 薪として売っていたものなどもいた。


情けないことは、こんな濁りににごりきった世の中に

 生まれ合わせ、こんなあさましい人間のしわざを

みるはめになった事である。」



 京都であった2年続きの飢饉。

大震災時の スーパーから物がなくなった状況が

 2年続いたらどうだろうか。


私たちの潤った生活は あっさりどん底になりうる。


 そういった事を よく考えておく必要があると思う



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