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ー 「陶芸」 が教えてくれる 15 のしあわせ ー
≪注釈≫
次は、“第4章” のステージの続きで 「連載7の4」 になるのだが、今回は
“第11章” のステージ 「連載15の1~3」 を繰り上げて掲載した。
繰り上げた理由は文末に・・・。
第11章 別れは必ずやってくる
森下典子さんの 『日日是好日』 の第11章は 「別れは必ずやってくる」 である。これがストーリーの展開なんだろう。さぁ~てどうしよう。フィクションのように妹と家内の叔母さんのことでも綴ってみよう。二人はいつしかあの世へ逝っていた。
或る日のことだ。妹が何の連絡もなしに突然、それも夜の9時ごろ茨城から大分の我が家にやってきた。道に迷ったらしく居酒屋のお客さんが近くまで連れてきてくれた。大分駅から歩いて来る途中で迷ったようだ。JR 線が高架になり道路も整備されていたので迷ったのだろう。それにしてもビックリだった。
おおきなゴミ袋のようなものをぶら下げていた。着替えが入ってたらしい。妹が家内に 「お兄ちゃんは優しいから」 と言って、「1年くらいここにいるから」 と話していた。優しく見えるんだがそれほど優しいわけでもない。それにしても1年はちょっと困るなと思った。
すぐに妹の長女が迎えに来てくれた。それから数年たって心臓発作で亡くなってしまった。この居酒屋も何年か前に店を閉じた。店の前を通るたびに、その時のことが思い出される。お店は以前のまま残されている。
居酒屋の右手奥の方に健康ランドのビルが見える
妹は頭がよかった。中学1生の時に、東大に行きたいと言って鳥取県の米子から1人で上京して東京生活を始めた。内申書が悪かったようで都立の有数の進学校に進学できなかった。それからは遊んでいたようだが、高校3年の時に勉強して有名女子大に入った。
数学科を出ていたので高等学校でも教えていた。いつだったか夜に電話をして、「今なにやってるんだ」 と聞いたら、受験生のために 「東大向けの試験問題を解いてる」 と言っていた 「難しいだろう」 といったら 「別に」 と応えた。俺とは違うなと思った。高校生の時に旺文社の 「解析Ⅱ」 とか言う数学の受験参考書を買った。さっぱり分からなかった。2ページ開いてみただけだった。1年間ほど本棚に飾っていたが、3ページ以降に進むことはなかった。こんなことをいつも思い出す。
私の母は当時流行ってた結核で長期療養をしていた。小学校6年の時に一緒になった。それ以降もお手伝いさんがいたので、母親の手料理はほとんど知らない。妹は家事ごとは得意とは言えなかった。「女の子なのでお袋の味とか温もりなども知っていれば、よかっただろうに」 などと少し可愛そうに思ったりしたこともあった。妹には3人の子供がいた。次女は同じ女子大の数学科を出ていた。家庭外のことでは、女子大の同窓会の会長か学部の会長をやってるとか言っていた。芯は強かった。田中真紀子さんに似てるなと言ったら嫌がっていた。後輩の森下典子さんに似てると言ったら喜んだかも知れない。
私が高校生の時に親父が宮崎にまた転勤になった。私は無理を言って米子に残してもらった。入学した高校は当時は野球が強かった。夏の甲子園でも準決勝に進んだり、1年後輩は選抜で準優勝をしていた。当時は文武両道ということで全国的にも有名な県立高校だった。全国高校クイズ選手権などでもいっときは決勝戦の常連校だった。
私は子供の頃は南国の宮崎県の最南端の村で育った。小学校時代はガキ大将争そいで喧嘩ばかりしていた。炎天下で真っ裸で遊んでいた。黒ん坊と言われてた。そんなこんなで中学2年まで全く勉強をしたことがなかった。成績が悪かったので通信簿にインクをこぼし親父に渋々見せたことがある。怖かった親父もその時は黙っていた。高校受験の中学3年の時に初めて勉強をした。卒業の時には努力賞をもらった。そんなことで合格し入学できた嬉しさもあり、この時は転校はしたくなかったのである。この章がなければ書くこともなかったであろう誰にも知られずにすんだ裏話までついつい書いてしまった。大きく足を踏み外してしまった。勇み足だ。
もう一つ思い出すのは、小学校の試験で漢字の書き取りの試験があった。「やすい」 という漢字を書けとあった。なにしろ勉強をしたことがなかったので書けない。解答欄は白紙状態だった。時間だけはたっぷりと残っていた。私の名前はやすとである。こう書く。祺人である。誰も読めないし書けないだろう。やすいという字が分からない。ふっと気が付いて 「祺い」 と書いた。先生は首をかしげただろうな。漢字能力検定一級の難しい漢字である。先生も分からなかっただろう。畏れ多くも、江戸時代の仁孝天皇の皇太后さまは鷹司祺子と記されている。
下宿先のお家は米子の皆生温泉 (かいけ) にあった。蛇口をひねれば好きな時に温泉が出てきた。いいな~と思った。小学生の時は宮崎県の吾田村 (現日南市) で育ったが、この時は鉄製の五右衛門風呂だった。下宿したこの時から 「温泉っていいな~」 と思うようになったが、今では我が家では太陽光発電で昼間は電気を供給し、深夜の割引電力で沸かした温水で、蛇口をひねればすぐに風呂に入れる。隔世の感がある。ましてや、裏にある豊の国健康ランドの大浴場が温泉になった。好きな時に気軽に温泉でくつろげる。
こんなことを思い出しながら書いていたら、何となんと母校が23年ぶりかで春の選抜高校野球に選出された。ビックリするやら嬉しいやら。不思議なことにこんなことを書いたりしていると想いが現実へとつながってくる。
(長くなりましたので続きは次回に・・・)
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≪注釈≫
次は、“第4章” のステージの続きで 「連載7の4」 になるのだが、今回は
“第11章” のステージ 「連載15の1~3」 を繰り上げて掲載した。
繰り上げた理由は文末に・・・。
第11章 別れは必ずやってくる
森下典子さんの 『日日是好日』 の第11章は 「別れは必ずやってくる」 である。これがストーリーの展開なんだろう。さぁ~てどうしよう。フィクションのように妹と家内の叔母さんのことでも綴ってみよう。二人はいつしかあの世へ逝っていた。
或る日のことだ。妹が何の連絡もなしに突然、それも夜の9時ごろ茨城から大分の我が家にやってきた。道に迷ったらしく居酒屋のお客さんが近くまで連れてきてくれた。大分駅から歩いて来る途中で迷ったようだ。JR 線が高架になり道路も整備されていたので迷ったのだろう。それにしてもビックリだった。
おおきなゴミ袋のようなものをぶら下げていた。着替えが入ってたらしい。妹が家内に 「お兄ちゃんは優しいから」 と言って、「1年くらいここにいるから」 と話していた。優しく見えるんだがそれほど優しいわけでもない。それにしても1年はちょっと困るなと思った。
すぐに妹の長女が迎えに来てくれた。それから数年たって心臓発作で亡くなってしまった。この居酒屋も何年か前に店を閉じた。店の前を通るたびに、その時のことが思い出される。お店は以前のまま残されている。
居酒屋の右手奥の方に健康ランドのビルが見える
妹は頭がよかった。中学1生の時に、東大に行きたいと言って鳥取県の米子から1人で上京して東京生活を始めた。内申書が悪かったようで都立の有数の進学校に進学できなかった。それからは遊んでいたようだが、高校3年の時に勉強して有名女子大に入った。
数学科を出ていたので高等学校でも教えていた。いつだったか夜に電話をして、「今なにやってるんだ」 と聞いたら、受験生のために 「東大向けの試験問題を解いてる」 と言っていた 「難しいだろう」 といったら 「別に」 と応えた。俺とは違うなと思った。高校生の時に旺文社の 「解析Ⅱ」 とか言う数学の受験参考書を買った。さっぱり分からなかった。2ページ開いてみただけだった。1年間ほど本棚に飾っていたが、3ページ以降に進むことはなかった。こんなことをいつも思い出す。
私の母は当時流行ってた結核で長期療養をしていた。小学校6年の時に一緒になった。それ以降もお手伝いさんがいたので、母親の手料理はほとんど知らない。妹は家事ごとは得意とは言えなかった。「女の子なのでお袋の味とか温もりなども知っていれば、よかっただろうに」 などと少し可愛そうに思ったりしたこともあった。妹には3人の子供がいた。次女は同じ女子大の数学科を出ていた。家庭外のことでは、女子大の同窓会の会長か学部の会長をやってるとか言っていた。芯は強かった。田中真紀子さんに似てるなと言ったら嫌がっていた。後輩の森下典子さんに似てると言ったら喜んだかも知れない。
私が高校生の時に親父が宮崎にまた転勤になった。私は無理を言って米子に残してもらった。入学した高校は当時は野球が強かった。夏の甲子園でも準決勝に進んだり、1年後輩は選抜で準優勝をしていた。当時は文武両道ということで全国的にも有名な県立高校だった。全国高校クイズ選手権などでもいっときは決勝戦の常連校だった。
私は子供の頃は南国の宮崎県の最南端の村で育った。小学校時代はガキ大将争そいで喧嘩ばかりしていた。炎天下で真っ裸で遊んでいた。黒ん坊と言われてた。そんなこんなで中学2年まで全く勉強をしたことがなかった。成績が悪かったので通信簿にインクをこぼし親父に渋々見せたことがある。怖かった親父もその時は黙っていた。高校受験の中学3年の時に初めて勉強をした。卒業の時には努力賞をもらった。そんなことで合格し入学できた嬉しさもあり、この時は転校はしたくなかったのである。この章がなければ書くこともなかったであろう誰にも知られずにすんだ裏話までついつい書いてしまった。大きく足を踏み外してしまった。勇み足だ。
もう一つ思い出すのは、小学校の試験で漢字の書き取りの試験があった。「やすい」 という漢字を書けとあった。なにしろ勉強をしたことがなかったので書けない。解答欄は白紙状態だった。時間だけはたっぷりと残っていた。私の名前はやすとである。こう書く。祺人である。誰も読めないし書けないだろう。やすいという字が分からない。ふっと気が付いて 「祺い」 と書いた。先生は首をかしげただろうな。漢字能力検定一級の難しい漢字である。先生も分からなかっただろう。畏れ多くも、江戸時代の仁孝天皇の皇太后さまは鷹司祺子と記されている。
下宿先のお家は米子の皆生温泉 (かいけ) にあった。蛇口をひねれば好きな時に温泉が出てきた。いいな~と思った。小学生の時は宮崎県の吾田村 (現日南市) で育ったが、この時は鉄製の五右衛門風呂だった。下宿したこの時から 「温泉っていいな~」 と思うようになったが、今では我が家では太陽光発電で昼間は電気を供給し、深夜の割引電力で沸かした温水で、蛇口をひねればすぐに風呂に入れる。隔世の感がある。ましてや、裏にある豊の国健康ランドの大浴場が温泉になった。好きな時に気軽に温泉でくつろげる。
こんなことを思い出しながら書いていたら、何となんと母校が23年ぶりかで春の選抜高校野球に選出された。ビックリするやら嬉しいやら。不思議なことにこんなことを書いたりしていると想いが現実へとつながってくる。
(長くなりましたので続きは次回に・・・)
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