人気ブログランキング にほんブログ村
ー 「陶芸」 が教えてくれる 15 のしあわせ ー
≪注釈≫
「 “日日是好日” に高校時代のことを書いてたら、何と私の母校が23年ぶりに甲子園に出場することになった。又、大分県からも2校出場する。開会式の司会も大分の女子高校生が務める。楽しみな 2019年の春の選抜高校野球になった。4日後の23日から開催される。そんなことで、急遽、“日日是好日” の第11章を繰り上げ掲載した。これはその続きの続きです」
第11章 の 3 : 別れは必ずやってくる
私も家内も郷里は大分だが、私の妹も家内の兄弟6人もみんな東京にいた。親や子供の代まで入れると大学も東大から一つ橋大、東京工大や、都内のはぼ全私立大学に行っていた。三女子大や他の女子大にも行っている。みんなバラバラの大学だ。親子が代々同じ大学というところもほとんどない。どこの大学ともつながりができている。こんなような広がりがみえるが全て東京や近郊に住んでいた。
大分で身近な親戚といえば、私の二人の叔母さんが居るくらいだった。家内の叔父や叔母たちも県外に出ていたが、大阪にいた家内の叔母夫婦が、我々よりも7年ほど前に大分に戻ってきていた。叔父さんは大阪で教育委員長などをしていたが、郷里でノンビリしたいといって戻ってきていた。郷里の近くの戸次に家を建てていたが、その叔父さんも3年ほど前に亡くなっていた。叔母さんが一人で生活をしていた。
戸次 (へつぎ) という地名も面白い。青森には八戸などもある。戸という字は入口をさしている。全国共通する地名なのだろう。大分市の入口という意味なのかもしれない。私は東京・中野区の谷戸小学校を出ている。1年間だけ在籍した。この呼び方を 「やと」 と言うのだが、谷の入口と言うことになる。近くには中野坂上と中野坂下と言う町名もある。地下鉄の駅名もある。地名には歴史が残っている。当時は谷間だったのだろう。小学校の校歌の中にも 「谷のおくにも 光輝き ・・・ 日に日に伸ぶ ・・・ 」 とある。そんなに古いことでもないが昔が偲ばれる。今はその面影はない。住宅地である。縦に環状6号線の山手通り、横には大久保通りが走っている。車の流れが絶えない。
叔母さんは私の家によく泊まりに来ていた。家内の母親の妹だった。気さくな小柄な叔母さんだった。普段はデイサービスに通って楽しんでいた。土曜と日曜日にはよく我が家に泊まりに来た。長い時は一ヶ月間ほど泊まっていた。
「姪御さんの所に、そんなに長くいっていいのかい」 と
近所の人からも言われてたらしい。家内も慕ってたし、知り合いもいないので私も大変助かった。叔母さんは家内と二人でドキハ百貨店などにもよく出掛けていた。我が家にはバスで来て、帰りは私が車で送っていった。車で2、30分くらいの所だった。
可愛い仕草をするおばさんで、ちょっとまずいことを言ったかなと思うような時は、首をちょっとすくめるのである。当時としては数少ない大分高女を出ていた。昔々のことだが、都市銀行に勤めてた時におじさんに見初められたらしい。こちらでいえば才媛である。家内の母親も、私の叔母二人も、継母も大分高女を出ていた。継母とは同級生だった。継母は私が戻る1年ほど前に認知症で介護施設に入っていた。
おばさんはさっぱりとした憎めない叔母さんだった。思い出すのは、「3人を産んだ時は 痛かった」 と顔をしかめていたことだ。3回ほど聞いたのでよく覚えてる。3人の息子たちは親孝行だった。機会があるごとに大阪から叔母さんの様子をみに来ていた。叔母さんとはお互いに7年間ほど楽しい時を過ごしてきた。しだいに歩くのが不自由になり大阪の息子たちの所に引き取られたが、数年前に施設で転んで亡くなった。
叔母さんも、私の妹も、今もいれば楽しいのになと思うのだが別れはやってくる。
にほんブログ村 陶芸ランキング
↑↑ 二つのサイトの陶芸ランキングに参加してます。
ポチッと応援クリックしてね! 人差し指や中指でバナーをトントン。
ー 「陶芸」 が教えてくれる 15 のしあわせ ー
≪注釈≫
「 “日日是好日” に高校時代のことを書いてたら、何と私の母校が23年ぶりに甲子園に出場することになった。又、大分県からも2校出場する。開会式の司会も大分の女子高校生が務める。楽しみな 2019年の春の選抜高校野球になった。4日後の23日から開催される。そんなことで、急遽、“日日是好日” の第11章を繰り上げ掲載した。これはその続きの続きです」
第11章 の 3 : 別れは必ずやってくる
私も家内も郷里は大分だが、私の妹も家内の兄弟6人もみんな東京にいた。親や子供の代まで入れると大学も東大から一つ橋大、東京工大や、都内のはぼ全私立大学に行っていた。三女子大や他の女子大にも行っている。みんなバラバラの大学だ。親子が代々同じ大学というところもほとんどない。どこの大学ともつながりができている。こんなような広がりがみえるが全て東京や近郊に住んでいた。
大分で身近な親戚といえば、私の二人の叔母さんが居るくらいだった。家内の叔父や叔母たちも県外に出ていたが、大阪にいた家内の叔母夫婦が、我々よりも7年ほど前に大分に戻ってきていた。叔父さんは大阪で教育委員長などをしていたが、郷里でノンビリしたいといって戻ってきていた。郷里の近くの戸次に家を建てていたが、その叔父さんも3年ほど前に亡くなっていた。叔母さんが一人で生活をしていた。
戸次 (へつぎ) という地名も面白い。青森には八戸などもある。戸という字は入口をさしている。全国共通する地名なのだろう。大分市の入口という意味なのかもしれない。私は東京・中野区の谷戸小学校を出ている。1年間だけ在籍した。この呼び方を 「やと」 と言うのだが、谷の入口と言うことになる。近くには中野坂上と中野坂下と言う町名もある。地下鉄の駅名もある。地名には歴史が残っている。当時は谷間だったのだろう。小学校の校歌の中にも 「谷のおくにも 光輝き ・・・ 日に日に伸ぶ ・・・ 」 とある。そんなに古いことでもないが昔が偲ばれる。今はその面影はない。住宅地である。縦に環状6号線の山手通り、横には大久保通りが走っている。車の流れが絶えない。
叔母さんは私の家によく泊まりに来ていた。家内の母親の妹だった。気さくな小柄な叔母さんだった。普段はデイサービスに通って楽しんでいた。土曜と日曜日にはよく我が家に泊まりに来た。長い時は一ヶ月間ほど泊まっていた。
「姪御さんの所に、そんなに長くいっていいのかい」 と
近所の人からも言われてたらしい。家内も慕ってたし、知り合いもいないので私も大変助かった。叔母さんは家内と二人でドキハ百貨店などにもよく出掛けていた。我が家にはバスで来て、帰りは私が車で送っていった。車で2、30分くらいの所だった。
可愛い仕草をするおばさんで、ちょっとまずいことを言ったかなと思うような時は、首をちょっとすくめるのである。当時としては数少ない大分高女を出ていた。昔々のことだが、都市銀行に勤めてた時におじさんに見初められたらしい。こちらでいえば才媛である。家内の母親も、私の叔母二人も、継母も大分高女を出ていた。継母とは同級生だった。継母は私が戻る1年ほど前に認知症で介護施設に入っていた。
おばさんはさっぱりとした憎めない叔母さんだった。思い出すのは、「3人を産んだ時は 痛かった」 と顔をしかめていたことだ。3回ほど聞いたのでよく覚えてる。3人の息子たちは親孝行だった。機会があるごとに大阪から叔母さんの様子をみに来ていた。叔母さんとはお互いに7年間ほど楽しい時を過ごしてきた。しだいに歩くのが不自由になり大阪の息子たちの所に引き取られたが、数年前に施設で転んで亡くなった。
叔母さんも、私の妹も、今もいれば楽しいのになと思うのだが別れはやってくる。
にほんブログ村 陶芸ランキング
↑↑ 二つのサイトの陶芸ランキングに参加してます。
ポチッと応援クリックしてね! 人差し指や中指でバナーをトントン。