市民との合意形成が見えなかった山本正徳氏
この6月に宮古市長選挙がある。現職の山本正徳氏が立候補を決めているが、この2年間の宮古市の災害復興は進んでいるのだろうか。国や県のする様々な支援・補助事業や三陸沿岸道路の工事進捗、また重茂漁協、田老漁協のような自主的復興が目立つ程度で、はて、山本復興とは何であったのか? 実績、達成感は乏しいように思う。
しかし一番の問題は復興の具体的な事象の遅れではなく、在職中、足もとの宮古市民の合意形成のための努力が見えなかった事である。被災住民や地区地区の住民との微妙な問題について、力強い情報公開による合意形成ができないならば再選はめざすべきではない。
独善に走った山本市政
復興の評価という事になると、被災地から言えばずばり物足りない実績であった。はぐらかされたという事であろうか? 実体験者である被災者に残されたわずかの防災の権利、切実な希望であるわずかばかりの土地やコミュニティ復活の権利。そのわずかばかりの発言は山本市長府によってことごとく封じられている。
その最たるものは閉伊川水門問題であった。まだ被災体験の熱い時の被災者総出席の閉伊川堤防かさ上げ議論は県土整備部に追随する山本市長によってねじ伏せられた。堤防かさ上げ論に被災者の防災悲願のどんな広がりがあるか聞こうともしなかった。一方で、意見がなかった事をもって「同意と見なす」というような独善がまかり通った。
水門問題、高台移転、区画整理事業、防潮堤に対する地元被災者の賛成論・反対論はすべて畢生の体験から絞り出した希望であり議論であったのだ。地区復興まちづくり検討会は名ばかりで議論のための議論、コンサルタントのための議論で、さいごは市役所の思う方向に流れていった。今次、市長選挙の結果に関わらずこれら問題の本当の論戦の幕が切って落とされるはずである。
外部だけをたよった行政
市役所の思う方向とは、市長の考えではない、国の方向であり県の方向であった。市長の考えは見えなかった。ランドブレインやUR都市機構が、国や県の考えを先取りして、そこに市長が巻き込まれた構図であった。市長は足を踏ん張るのではなく足をすくわれていたと言ってよい。
どこの国の理想図であり、どこの都会の理想のまちづくりであるか分からないが、現地を無視した外部業者の区画整理では現地被災者の希望は汲み取る事ができなかったといえる。外部業者と現地住民をはかりにかけて市長は「業者」の意見をとった事になる。確かに現地住民の意見は複雑で難しい。しかし薄っぺらな理想のまちづくりで市長選は戦えない。
ある意味、国や県には主張せず、強力に国や県をただ受け入れて、下に流す政治手法だったように思う。現地被災者の希望や議論をくみ上げて県や国にものをいう首長でなければならなかったのに2年間そのメッセージは見えなかった。「かならず復興する」という言葉は内向きで、政策の内容や行動がともなわなかった。
被災者の中に入れなかった
市長の手法によって、各課の市職員の市民への対応の多くはちぐはぐであったし幼稚に見えた。被災者の意向調査、アンケート調査、土地の買い上げ、住宅再建、被災者への相談対応、地区地区のまちづくり会のてこ入れなど、市民との接点に職員の創意工夫が自由に生かされたとは言えなかった。
なぜ、こうなるのか? 山本市長は今次3.11震災津波災害に面と向かっていなかったといえる。突然の災害。宮古市の首長として、どのように難局を乗り切るのか被災者の体験と職員などの英知を集めて、市長としての覚悟的考えを第一番にまとめるべきであった(文書にまとめる事とは違う)。仮設住宅や支援金の配分など緊急の県や国とのパイプも当然受け入れなければならないが、大切な事は宮古市独自の復興哲学であり復興指針だったのである。それがなかったと言える。
平時の手法の復興計画
これほどの大災害であれば、平時の事は忘れ、また、いったん棚上げして災害有事の諸問題に根本から取り組まなければならないと考えるのが自然である。
ところが、災害に正面から向き合わなかったという事は「総合計画」(平時)と「復興計画」(有事)を同時平行させた事に典型的に現れている。よって、先が見えず、進まず、深まらない事態が生まれたのである。宮古市の場合、震災の直前に策定してあった「総合計画」を下敷きにして震災後の「復興計画」が広く議論され策定された。そのため復興計画が総花的になり、優先前後がなくなり、めりはりがなくなった。市議会は焦点や論点をなくして強い審議ができず、市職員は迷い、宮古市独自の災害対策を遂行する事ができない最悪のスパイラルに陥ってきた。
復興策が平時の市政を超えるものでなかった、というのが結論である。それが証拠に、被災者市民だけでなく、一般市民の方にも山本市長の復興政策が見えていなかったはずである。沿岸の市民だけでなく、内陸部の市民にも復興策は同等に示されるべきであったのだ。しかし、復興策の中途半端さは、逆に内陸部への市長の中途半端な遠慮となって、全般的市政そのものの非統一や停滞、うわすべり状態をもたらした。いまだ市政のイメージが定まらないでいる。県や国の方にも宮古市はよく見えていないであろう。先に述べたようにむしろ中央に意見を求め、市独自の審議会や委員会もいつも従前の古いメンバーで構成、整合性はあるが血の通わない復興手法であった。と言わざるを得ない。
あるべき市政
有事の時は市長も、議員も、一般市民も、被災者もない…。(私は「宮古」市民もない、と思っている)。だれもが積極的に市政に問題提起して地域の意見を集約する手助けをして、そこから復興の合意形成をめざすべきなのである。行政は、何かをするというよりも地域のまとまりがよりスムーズにいくように耳を傾ける方が基本となる。
しかし、3.11以降、これまで、宮古市は情報公開という事を忘れてきている。決まった事も、まだ決まっていない事も情報公開されていない。事案の本当の内容、国や県との予算関係、またその請負などの処理の問題等、なにがどうなっているのか公開に消極的である。津波被害の実数もまだ、工事の進捗も不明、審議会もなれ合いの実態となっている。これでは市民との意味ある交流は無理だ。
既に2年を経過しているが宮古市の市民(と市長)が復興のいろいろな問題で一本化しているとは思えない。情報公開の覚悟がなければこの一本化は前に進まない。
繰り返すが、被災住民や地区地区の住民との微妙な問題について、力強い情報公開による合意形成ができないならば山本氏は再選はめざすべきではない。