今日はつまらないヨモヤマ話なのですが。。。
ブログを始めてから、最近感じていること。
日本は一億総評論家時代?ということです。
それは私達日本人だけにとどまらず、世界中の人たちのについても同じことが言えるのでしょうか?
いまや、これだけ通信が発達し、情報の氾濫する時代です。
パソコンの普及もめざましいものがあります。
何でもすぐに手に入る時代は、同時に何でも知ることができる時代。
また、その進化を感じ戸惑いながらも進んできた私達の世代と違い、それが生まれた時から当たり前のようになっている新しい世代の人々の感覚、そして常識。
私達では想像もつかないほど、最先端を行く新しい世代の方々の脳細胞は知識で溢れかえっています。
ほとんどの事象は、すぐに全世界に広まり、数限りない方法で分析され、そして好む好まざるにかかわらず雨あられのように私達の目や耳に入ってくるのですから、それは至極当然のことなのかも知れません。
そしていまや、さらなるホームページやブログの発展により、それを(私のような小さな個人自らも含め)誰しもが、その自らの思想や意思を不特定多数の他人に(全世界に)、誰にも干渉されることもなく発信することができてしまうのです。
最低限のその世界のルールを破らない限り、誰もがそこでは有名な思想家になりえ、また著名な評論家になりえるのです。
それはある意味、素晴らしいことです。
ただ、本来はあるべきもない、そんな思考の中だけの素晴らしい自分の世界を体現させてくれるこのコンピューターの中の”擬似世界”は、本来、実際に経験し、苦悩し、そこで初めて分かるような”本当に考えるべきこと”を忘れさせてしまうような桃源郷に迷い込んでしまう危険性を感じています。
その世界では誰もが世界の神様になりえてしまうのですから。。。
世界を常に第三者的立場からでしか考えられず、主観的、主体的人生を歩めなくなってしまう危機感のようなもの。。。とでも言いましょうか?
実際の世界に主体的な自分の存在を見出せず、思うように生きられない若者の苦悩が、数多くブログの中の文章から感じられることがあります。
私達世代が危険を察知し避けられるようなことでも、子供時代から既にその世界が存在しそこに心の発育を同時としてきた世代の人達の常識は、そこから抜け出す術も見つけられないのではないでしょうか?
本当に自分が望んで考えていることは何なんだ?
私もたまに、それがわからなくなることがあります。
例えば、地方競馬の話。
私はただ一競馬ファンでしかないのに、協会がどうのとか、システムがどうのとか、平気で主張しています。
それでどうなるのか?
もしそれが実現されたとしても、それによって悲しむ立場の人には責任が取れるのか?
よくよく目を覚まして考えれば、私はただ”競馬がやりたい”だけなのです。
私が考えるべきことは、そんなことじゃない。。。
いまや私も、時に、評論家まがいになってしまいます。
私も同類か。。。。。(笑)
つまらない話をしてしまいました。。。。。
それでは、また。
ブログを始めてから、最近感じていること。
日本は一億総評論家時代?ということです。
それは私達日本人だけにとどまらず、世界中の人たちのについても同じことが言えるのでしょうか?
いまや、これだけ通信が発達し、情報の氾濫する時代です。
パソコンの普及もめざましいものがあります。
何でもすぐに手に入る時代は、同時に何でも知ることができる時代。
また、その進化を感じ戸惑いながらも進んできた私達の世代と違い、それが生まれた時から当たり前のようになっている新しい世代の人々の感覚、そして常識。
私達では想像もつかないほど、最先端を行く新しい世代の方々の脳細胞は知識で溢れかえっています。
ほとんどの事象は、すぐに全世界に広まり、数限りない方法で分析され、そして好む好まざるにかかわらず雨あられのように私達の目や耳に入ってくるのですから、それは至極当然のことなのかも知れません。
そしていまや、さらなるホームページやブログの発展により、それを(私のような小さな個人自らも含め)誰しもが、その自らの思想や意思を不特定多数の他人に(全世界に)、誰にも干渉されることもなく発信することができてしまうのです。
最低限のその世界のルールを破らない限り、誰もがそこでは有名な思想家になりえ、また著名な評論家になりえるのです。
それはある意味、素晴らしいことです。
ただ、本来はあるべきもない、そんな思考の中だけの素晴らしい自分の世界を体現させてくれるこのコンピューターの中の”擬似世界”は、本来、実際に経験し、苦悩し、そこで初めて分かるような”本当に考えるべきこと”を忘れさせてしまうような桃源郷に迷い込んでしまう危険性を感じています。
その世界では誰もが世界の神様になりえてしまうのですから。。。
世界を常に第三者的立場からでしか考えられず、主観的、主体的人生を歩めなくなってしまう危機感のようなもの。。。とでも言いましょうか?
実際の世界に主体的な自分の存在を見出せず、思うように生きられない若者の苦悩が、数多くブログの中の文章から感じられることがあります。
私達世代が危険を察知し避けられるようなことでも、子供時代から既にその世界が存在しそこに心の発育を同時としてきた世代の人達の常識は、そこから抜け出す術も見つけられないのではないでしょうか?
本当に自分が望んで考えていることは何なんだ?
私もたまに、それがわからなくなることがあります。
例えば、地方競馬の話。
私はただ一競馬ファンでしかないのに、協会がどうのとか、システムがどうのとか、平気で主張しています。
それでどうなるのか?
もしそれが実現されたとしても、それによって悲しむ立場の人には責任が取れるのか?
よくよく目を覚まして考えれば、私はただ”競馬がやりたい”だけなのです。
私が考えるべきことは、そんなことじゃない。。。
いまや私も、時に、評論家まがいになってしまいます。
私も同類か。。。。。(笑)
つまらない話をしてしまいました。。。。。
それでは、また。
私のサイトで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。
紹介記事は
http://blog.livedoor.jp/keibayosotv/archives/51013973.html
です。
これからもよろしくお願いいたします^^