雪山。
断崖絶壁に人の影。
何のために山に登る。
そこの山があるからだ、と先人は言った。
プロの冒険家でもない、名もない登山者たち。
何のために山に登る。
合理主義。
人は経済から逃れることはできない。
お金が無ければ生きてゆけない。
改めて問う。
何のためにそこにいる。
子供じみた考えを笑う人。
わけわかんねえと嘆く人。
何の得もないと考える合理的な人。
ホスピス。
マザーテレサ、死を待つ人の家。
医療も介護も、人権を考える時代。
病院で、実際に目の当たりにしてきた人たち。
自ら幸せな終わり方を選ぶ権利。
それを認める崇高な魂。
よく頑張りました、とやさしく看取る人に囲まれて。
何を思っていく、その最後の時間を。
救済。
遭難救助には、多くの労力と金額を費やす。
それでも人は、山にのぼる。
それを社会的に咎められることはない。
人とは。
社会とは。
ひとりが生きる。
みんなで生きる。
人が山に登ることは、もしかしたら多くの人が見失っているもの。
忘れているのは、もしかしたら何か大切なこと。
安心、安全が叫ばれる昨今。
それに対する規制や拘束。
増え続ける、時代とともに。
それは合理的な経済社会と似ている。
傲慢で強欲な個人主義。
被害妄想的な平等論者。
何十億の人。
価値観。
見え隠れするひとりひとりのエゴイズム。
もののタテマエ。
それは当然だ。
人間なのだから。
そして、そこにある社会の掟(オキテ)。
何のために山に登る。
それは、何のために生きている、と問うのと同じ。
雪山と合理主義。
安全を求めるならば、山など登れなくすればいい。
救済とホスピス。
真の救済とは何か。
社会の許容と自己責任。
それでも人は、山にのぼる。
人が山を登ることを咎められることはない。
自由を重んじ、権利を叫ぶ。
何か笑えてしまう最近の人。
論理を掲げ、文字列で伝えようとする。
机上の論理で出てくるのは、合理的な一般論でしかない。
人を動かしているのは、そんなものか。
囲いの中からしか見たことのない風景は、その何十倍もの本当の姿を知らない。
何のために山に登る。
それは、花が何のために咲く、と問うのと同じ。
それでも人は、山にのぼる。
<スナップ>
スナップは御在所岳、2月。
スキーを趣味としていた頃は、白馬、御岳、蔵王から、カナダブラッコムまで何百とさまざまな山の風景を見てきた。
厳しい時、穏やかな時など、どちらも頭の中の記憶から消えることはないだろう。
今回、たかが御在所、とはいえ、十年ぶりに見る冬の山の風景は新鮮だった。
若い頃は跳んだり滑ったりが楽しくて、ほとんどカメラなど興味はなかったのが、今となっては残念に思う。
特に山スキーの時には、でっかいデジタルムービーをリュックに必死に背負っていったことが懐かしい。(特にカナダ、蔵王の猛吹雪の翌日のピーカン樹氷の風景は今見ても絶品。)
スナップ写真もあるにはあるが、自分で興味を持って撮ったものではないので下手な滑りの写真ばかり。。。(笑)
まあ、それはそれで、あの頃は良かったのだが。
雪山について以前の記事
→ 「休題。(輝ける世界に触れた頃。)」
今回、ロープウエイで山頂を目指す途中で、窓から3人ほどで急斜面を登る登山者の姿が目に入った。
自力で登らなければ見られない風景があるわけでもなく、登っていたルートも見るからに怖そうなシチュエーションのように見えた。
そこで、ふと思ったこと、感じたこと、考えたこと。
そういえば自分も、登る~滑り降りるに違いはあれ、昔は何の理由もなく雪山に夢中な時期もあった。
安全第一、それでも危険はゼロではない。
やらない人には、なぜと問われる。
それでもやはり、人は山を目指すのだ。