夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

鎮魂5

2012年12月07日 13時58分15秒 | 日記
 正確には鎮魂ではないのだが・・・
昭和30年代中葉のある時、”近江絹糸”という会社で女工さんたちの大きな労働争議があった。余りの一方的労働条件に女工さんたちが辛抱の限界から起こしたものであったとうすうす記憶している。
 新聞記事の大きな写真に、並んで座り込みかなにかしているのがあった。そこに鉢巻して片膝たててかがんだ姿で右手におにぎりを持ちそれを見ながら左手に持ったハンカチで涙を拭いている人が写っていた。その時、自分が中学だったか高校だったか忘れたがその写真を見て胸を突かれる思いがした。”ここにウソはない!”と咄嗟に感じた。その姿を今も忘れない、あの人はもう80歳近いだろう、存命かもう亡くなったか?
 この世界は面白おかしくノーテンキに日の当たる道を悠々と歩き得る境遇を計画して来た人々も居る。そうでない苦汁の人生を計画して来ている人も居る。自ら図ってこの世に生まれ出ていることは忘れているのだが。であればこそ不遇にあえぐ人々に対する”情”と言うものを忘れてはならない。日の当たる道を歩くものが日の当たる道のものさしで日陰の人を測ってはならない。

鎮魂4

2012年12月07日 12時58分37秒 | 日記
 大伯父の一人は陸軍立川航空技術研究所の何人か居た部長の一人だった。陸軍士官学校を出て東京大学で航空工学を学び、アメリカに留学した後技術将校として勤め、終戦時は中将だった。几帳面な性格で、書斎の何処に何があるかを暗闇でも判っていたと言う。所謂薩摩藩郷士に生まれで父親が西南の役に出張、田原坂で負傷した兄を連れ帰って後、酒に韜晦、極貧の中で、進学先と言えば官立学校しかなかったのだ。”結局戦費が続かなかなかったのさ”と言っていた由。終戦後復員したもののまもなく肺がんで亡くなった。
 もう一人の大伯父は関東軍に居た。熱河作戦の指揮官として当時としては珍しかった機械化部隊を率いて無血開城を果たした。陸軍少将。終戦後復員したが軍人の心忘れがたく世間になじめず鹿児島方言で言う”どもを見た”状態で亡くなった。この人の息子は隼戦闘機隊で活躍したが37個目の撃墜星印が欲しくて無理な出撃をして空中戦中、エンジントラブルが発生、洞庭湖に墜落戦死した。
 さらにもう一人の大叔父、これも戦闘機のパイロットだったが流石に年齢が行っていたので終戦間際は何かの作戦の戦闘機隊を発進基地までの引率などをしていたらしい。陸軍大佐。”僕は画学校に行きたかったが親父が学費を賄えないと言うので仕方なく陸軍士官学校に入った”と言っていた。背筋をシャンと伸ばした如何にも陸軍将校そのものの姿だった。しかし長く戦地に居たため家族の愛が薄く、二人の息子も懐かず、ついに一人故郷に戻り、当時幽霊屋敷として有名であった洋館を借りて住み、間もなく亡くなった。晩年は洗礼を受けてクリスチャンだった。
 その弟になる人物もまた士官学校卒だったが復員して間もなく牧師になった。”ああいう場を経験すれば・・・”と母に語ったと言う。
 戦時中は・・・様様と奉った人々が一旦状況が変わると手のひらを返したようになるのを私は見てきた。苦々しい思いである。その一方で、”下士官道楽さ、軍隊みたいにおもしろいところはないよ”と言う元軍曹も居た。学校の先生になって子供たちをそれはひどく殴っていたらしい。
 近しくしていた曹長は終戦で公職追放、長く炭鉱で働き、ついで荒くれ男達を仕切る飯場を転々とし、大腸がんで亡くなった。やさしい人だった、私の家族の為に防空壕を掘ってくれた。
 今、息子の一人は自衛官。彼の置かれた立場に過去を重ねて暗然たる思いがある。さらに・・・れっきとした大人、会社で枢要な地位にあるものが”テッポ担いで遊んで給料もろてよかなあ”と言った。そいつを殴りたかった。多くの国民が似たように思っていると僕は考える・・・僕はそんなにお人善しではないので。而して災害なんかが起きると”それ自衛隊行け”と便利屋のように使う。それなりの誇りも与えず洪水の中を、津波の後の泥海の中を這い回らせる。継子、私生児扱いしておいて”軍”と呼んで何か変わるか?実質今も同じではないか、とほざく。つまり自分達にとっての便利屋であればなんら痛痒を感じないと言うわけだ。くそいまいましい。
 自衛官、海上保安官、警察官、消防士、これらの”命がけ”で仕事をする人々の処遇を僕はそれなりに考え、保全尊重すべきだ、それが守ってもらう人々の当然の返礼だと思う。脱穀している牛にクツコをかけてはならない、と賢者ソロモン大王は言っている。公務員改革とか何とか称して一旦与えたものを事務所で新聞読んでお茶飲んで・・・知っているぞ!!・・・どこらかに外出して、のんべんだらりと日を過ごす小役人と同じように扱われてたまるか。母は一時期市役所にパートに出ていた。課長さんは九時頃出てきてゆっくり新聞を読みお茶を飲んで、どこかへ出かける。昼前には帰ってくるのでお茶を出す、と。ところが若い女の子たちが、”奥さんそんなことしないで下さい、私たちまでしなければならなくなる、あんなのにそんなことしたくない”と言ったそうな。
 この日本にある”横着”と”不条理”を僕以外にも見ているものが在る。見えない世界の存在も見ていると思う。