夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

お通夜みたいで恨み節

2012年12月18日 14時54分45秒 | 日記
 野田総理の解散時期が拙かった、だってさ。わかってないねえ、遠の昔に飽きられ迷惑がられていたんですよ、そこを洞察できない、朝鮮学校無償化なんて言って国民を逆撫でしておいてよく言うよ。落選するはずだ、国民を見くびっているもの。
 今度の選挙を見ていて”国民はよく見ている!”と思った。侮るべからず。民主党の皆さん、あなたがたは政治の重さを全然わかっていない。全然、全く、まるっきり、外国から組みし易しと侮られるはずだ。何とか支援金というエサに尻尾を振ると思っている、舐めるな!
 友愛だのトラストミーだの二度と聞きたくない、不愉快だ。日本国はそんな趣味の政治、暇人の幻想、妄想、ハトカフェ・オーナー熱く平和を語る、なんて類のニートひきこもり型国運運営などに付き合っている余地はない。

 国敗れて山河あり、と言う。が、国をもてあそんで山河荒れたり、だ。政治家がアホなことばかりしているから拙宅の周囲に広がるかつての美田。今は後継者なし、減反、耕作放棄草ぼうぼうの荒地から一昨日白骨死体が出たぜ。行方不明になった兄を探してはるばる遠くからやって来た兄妹が必死の思いでそこの荒地を覆うクズの蔓を掻き分けて、何と見つけたのが探している兄ではなくて他人の白骨死体だった。
 民主党諸兄、何とかガールズ、あなたがたには『徳』というものがなかった。だから国が衰えたのよ。顔洗ってもう出てくるな!

総理大臣の靖国神社参拝

2012年12月18日 10時12分23秒 | 日記
 私の親族も多数ここに祭られている。二十歳になる前に亡くなった叔父たちもいる。国家の為に命を懸けた人々を祀る、その神社に総理が参拝するのは当たり前ではないか、である。
 ところがこれにバネ仕掛けのようにクレームを着ける国が二つはある。さらにそれらの国との軋轢は安定的平和を損なうから参拝は止せ、と”忠告”する者や国がアッチのほうに在る。

 ナンデだろーか??と多くの日本人は・・・無意識では解っていながら意識レベルでは理解に苦しむ。理由を説明しよう。

 靖国、とは戦死者、つまり日本の軍隊、武力、軍国日本を想起させる。且つそれはまさしく”神社”である。日本の軍事と神道が結びついているところに連中の心を騒がす何かがある。心が騒ぐのであってそれが意識レベルでは屁理屈になる。ではどうして心が騒ぐかと言えば、日本人が”自分達はなにものか”を自覚することを非常に嫌う存在があの世に居るからである。
 
 伊勢神宮には誰が祭られているのだろうか?天照大神に姿を変えて実際は・・・?以下は邪推的洞察

 多分それはダビデ王、ソロモン王の国の神、聖書の中で”エホバ”と仮に表現されている神だろう。そして日本人のDNAを解析すればあの当時のイスラエル民族が浮かび上がるであろう。この民族がどういう役割を担っていたかと言えば創成以来の宇宙の原理、仕様の尺度として諸国民を測定する役割であった。”メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン”・・・量りたり量りたり、足らざりき・・・かつてのバビロンのように諸国民はそのように断定される。それを恐れている。とりわけマゴグのゴグはそれが怖い。だからバネ仕掛けの反応をする。

 この地球上世界はイスラエル民族の国とそれ以外の諸国民で構成されている、ということになる。信じがたいだろうなア・・・。東の方、海の中の島々で我を敬え、だとか枯れた骨が再び繋ぎ合わさって立ち上がり、息を吹き返す、とか。・・・詳しく言うのはめんどうくさい、そういう意味深な記述が聖書のそこここにある。かつそれは現在中東イスラム諸国と悶着を起こしているイスラエルにはどう考えても当てはまらない。

 総理の靖国参拝にどうしてそんなに神経質に反応し、外交儀礼を損なって余計な要らざる差し出口をするのか??と考えての推論である。

 民主政権とはこのような観点から測れば”日本を転覆”しようとの、多分最後の策謀であった。それが費えた現在となっては、或いは”やぶれかぶれの実力行使”に出てくるかもしれない。黙示録には書いてあるゾ・・”ヘビは女の残された者を攻撃しようと、『海の砂の上に』立った”と。
 そのやぶれかぶれの行動の時何が起こるか?と、見ていると、”その時我が怒り面に現わるべし・・・”あとは自分で読んでみてください。現世人類史の早い時期に隠蔽され忘れ去られた”見えないが実在し、実力とそれを実際に行使する存在”を人類が驚愕と自失で骨の髄まで味わい認めさせられる”事件が起こるのだろう。

人生とは簡単なものである

2012年12月18日 09時36分39秒 | 日記
 人生というものを難しく、しかつめらしく、テツガク的に、或いはピューリタンフロンティア由来刻苦勉励極力周旋的積極性至上、さらにそこに根を持つナポレオン・ヒル・カウボーイ哲学、などなどによって『果敢に切り開く』べきものであり、それを逃げない人がリッパナ人であるとの観念にしっかり取り付かれた人が居る。キュークツだね、こういう人の前に出るのは。ガンにならないかなあ・・・
 やってみたことあるかい、高速自動車道で、チョーチョーハッシと車線変更ゴボウヌキでドーダ凄いだろう、と、ふと疲れてサービスエリアで一休み。と、ものの数分せぬ間に抜いた車が続々やってくるではないか。つまり人生とはそういうもんだ。自己満足に過ぎないのよ。
 一方で、無気力とバカにされながらさながら枯葉が流れを下るように、流されるように送る方式の人生もある。どっちが神さんの助けを得やすいか?・・・決まってるだろう、前者については神さんは『せっかく張り切っているんだから放っておこう』となる。一方後者は『困ったやつだな』と手を貸してくれる。
 『無駄な抵抗はヤーメタ、煮てでも焼いてでも食ってくれ、ドーニデモせよ』と言われると『放っておけない』のが神さんの損な性格、で、何とかしてくれる。人生とはそのような仕組みになっている。つまり青空のように幸せな人生を望むなら一切の『構え』を捨てる、『無一物中無尽蔵』を悟る、『何事も放てば満つる』の極意を知る、・・・あなたは神と仮に呼ばれている宇宙的思念のほんの一周の揺らぎに過ぎない、それを知る。そして、・・・このような理解も認識も説明をも『捨てる』・・・捨ててただのイキモノになる。

意識の重心

2012年12月18日 09時11分23秒 | 日記
 意識の重心が自分の外、遠くにある人は、例えば知人や親戚から珍しいものを送って来たり・・・今その時期じゃないか・・・すると”わあ、うれしい、早速お礼を言わなくっちゃ”という風に心が動き、電話に手をかける。
 意識の重心が自分の中、自分自身にある人はこのような場合、”アタシにこんなものをくれるのよ!”と言ったり”ドノヨーニお礼を言えばバカにされない、或いはヘンに思われないだろうか”と悩んで日一日と時が過ぎる。
 福の神さんはどちらの肩に乗ると思う??『乗ってくれてありがとう、超うれしいよ!』と言う人のほうだろう。『ああ、お乗りになりましたか、私は私の面子を損なわないようにしつつ、どうお礼を言いましょうか』なんてのは『ああ、めんどくさい、もう来ないヨ』と福神は考えるだろう。
 世の中にはことごとに面倒くさい人が居る。大体においてこういう人は意識の重心が内側にある。アッケラカンのスッカラカンでノーテンキ、ミーハーバーサンと連れ立って年末年始温泉旅行三社参りなんてのが正反対に居る。概ねこういう人の意識の重心はどこか遠くにある。どちらが幸せな人生を送ると思う?神さんは酒が好きだし、にぎやかな神楽も好きだ。けんか神輿だって好きだ。では・・・??