夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

教師に力がないと思う

2012年12月24日 23時16分06秒 | 日記
 公立高校生を見ているが、下記のような特徴に気がつく。
代数は出来るが幾何が苦手。理由は薄々判る、代数は公式や解き方を暗記すればいいが幾何は代数よりは”考える”必要が多い。
語学(英語、現代国語、古文)を数学的に捉えている。つまり1:1の正解がなければならない、と言う風に。
と言う事は、要するに言葉を言葉として解らせようとせずに”受験対策”としてしか教えていないからだ、と思う。

 語学の基本は”声を出して読む”、”読書百遍意自ずから通ず”である。そのどっちもどうやら指導していない。ユーチューブで外国人が日本語を上手に喋るのに驚く。日本統治時代の台湾人が日本語が上手であることにも気が着く。何故だろうかと考えてみると”大学入試”目指しての日本語教育ではないからだ。故に、日本の高等学校の英語教育は英語を教えているのではなく大学入試突破の”英語ハードル”の飛び越え方を下手糞に教えているのだ。
 古文についても似たようなものである。英語の美しい文章を教えていない、読ませていない。古語で書かれた物語の、現代文での作品の、文章そのものの味を知らしめていない。だから語学に”興味がない”

 いや、高校生のほとんどは多分、数学にも英語にも国語にも古文にも地理にも歴史にも物理にも化学にも ”全く興味がない”・・・興味あるのは ”スマホだけ” であろう。亡国の無能教師、甘い親、くたばれ!!
 私は鹿児島の某高等学校を出たが、国語の先生がなさったことは、未だに忘れがたい文章を集めた教科書を探し出して生徒に与えた、その教科書を読みながら黒板にチョークを叩きつけるようにしての哲学的解説熱弁であった。それまでまるっきり興味がなかった文学書を暇さえあれば読むようになった。今も変わらない。教科書を10分で済ませてさっさと授業を終わる英語の先生も居られた。試験の時”先生、こんな単語は習っていません”と言う生徒があった、・・”答えを書いている人が居るぜ!”との返答には参った。以来、教科書を引きながら辞書を読むようになった。
 英語が美しい言語でないとは言わせないぞ、ある英語の先生は情感あふれる英文をいくつも見せてくれた。そこから英語が好きになった。
 今の教師は”仕事として”教師なんだろう。私が教わった先生方は”情熱を以って生徒に『火を点けようと』して”おられた。・・・三歩下がって師の影を踏まず・・・この言葉は当時の先生方に対して私の心の中で今も生きている。