夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

臨時雇い、派遣社員、自衛隊、フェアプレー

2012年12月09日 13時29分05秒 | 日記
 臨時雇いも派遣社員も”雇う側の責任が最低最小限”・・だから好都合、と言うことだろう。だからこそこのようなものがあるのではないか?而して仕事の内容は?と言うと所謂正社員とほとんど変わらない、か、”長く在籍しているばかりで”何の役にも立たない”が、”退職させるにはこれと言った理由がない”ので”仕方なく部署たらい回しのオバサン正社員”よりも上だったりする。
 つまり雇う側の毅然とした姿勢をとる度胸も決意もない、そのしわ寄せを臨時雇いだの派遣社員だのに負わせようと言うのが言うのはハバカラレルが、”本音”だろう。或いは年末大晦日に正社員はさっさと早退する、下請けを横目で見ながら、・・・僕はこういう日本の”カイシャはエライ!!”観念が大嫌いだ。カイシャなどくたばればいい。
 正社員にしろ生かさず殺さずの給料を与えて飼う、一方で月に多額のカネを出して社長はゴルフに行く、・・或いは午前中役員室でゴルフ談義に花を咲かせ、午後ゴルフ場で仕事をする”・・シホンシュギの風土病だね。
 この同じ心理、人間の卑劣な根性からまた”自衛隊”を”放置”する。しておいて都合のいいように扱う、私に言わせればフェアプレーではない、卑劣な所業である。カネの為にはフェアーをかなぐり捨てるか?まあ、カイシャの雇われ役員ならそうかもしれない。個人経営バカ社長ならそうかもしれない。しかし国家が何たる事をするか?
 建前と本音を巧妙に使い分けるか?それが日本人の悪癖であったことは間違いない。幕末から明治にかけて日本にやってきた外国人から”嘘付き”の烙印を押されているのだ。
 自衛隊を実質軍隊であるにかかわらず自衛隊と言っているのは軍隊と定義すればあの平和憲法なるものと矛盾すると言うことになるからだろう。平和憲法を金科玉条とすることによって実際に平和と安逸を貪ることが出来たとの幻想が国民全体に浸透している、平和平和と言わなければ”村八分”にされる、との刷り込みを誰がしたか?
 ”どんなに苦くてもどんなに辛くても現実を見据える”度胸をなくさせ、”平和憲法を世界遺産に”などとたわけたことを言う芸人風情に一人前の言辞を許すこの国は腐りきっている。

 日本国民は上から下までわがままで卑怯だ。実質”軍隊”であり最早それなしには社会が立ち行かないなら潔く”軍隊”にし、その為ならば憲法を改訂しなければならない。
どうしてもイヤなら傭兵と言うものがある。しかしこれは戦争のプロだ、災害派遣など知らぬ顔だぜ。それに高給を支払わなければならない。”命をかける覚悟は当然だ、だがあんたらは公務員だから給料は安いぜ、安い給料に甘んじて命懸けの仕事をするのが立派だの美しい”だのと言うのは卑怯者の論理だ。

 そうだ、派遣社員を何の痛痒もなく使う、自衛隊を便利屋として放置する・・・自分の側の実質的、道義的責任は棚に上げる、これは卑劣漢の逃げの論理だ。こんなもの腐ってしまえばいい。

陸軍と海軍

2012年12月09日 11時55分34秒 | 日記
 どちらが腐敗しやすいか? 素人考えであるが陸の方だろう。
日露戦争の時、前線に出ず、後方の帷幄の中で指揮を取っていた指揮官たちにむかって秋山好古氏は”国家は栄達のために貴官達をその職に任じたわけではない”と激怒、肩章を毟り取った、と言う。海軍は戦場は海、指揮官も軍艦に乗って戦場に赴かなければならない。
 それは演習に於いても同じだろう。提督から水兵に至るまで同じ軍艦に寝起きしていなければならない。しかし陸にそんなものはない。
 上杉謙信みたいな人は別格であって大体は見晴らしのよいところに幕僚と共に座って戦況を見ながら指揮を取る。勢い怯堕に流れる危険無きにしも非ず。配下に苦役を強いながら自らは安穏と座す、ことも無きにしも非ず。それを感知した下士官・兵は真面目に職責に励むだろうか?鉄砲の弾が後ろから飛んでこないにしてもホドホドにしようや、とならないか?
 下士官こそは実戦の職人、これが動かなくなったら戦争など出来ない。

 自衛隊ではなく軍隊にして軍法を整えなければならないと私が考えるのはそこである。

TPPと尼崎大量殺人

2012年12月09日 11時09分27秒 | 日記
 尼崎大量殺人事件の記事を見ていると”ハハアTPPはこれと似たような構図、目論見じゃないかな”と思えて来る。つまりアメリカが環太平洋の国々にストローを突っ込んでチューッと体液を吸い取る・・・あと捨てる。
 長崎県に大島と言う島がある。そこには造船所があったり海水浴場があったりする、せいでもなかろうが、連絡船だけでは不便であるから橋を架けようと言う話が出た。ヤクニンの考え方としては”橋が架れば交通が便利になりホンドから多くの人が入って来る、活性化になる”だが一般大衆の考え方は”橋が架れば交通が便利になり佐世保の街にも簡単に出て行ける”だった。つまり”ストローでチューッと活性を吸い取られる”だ。で、結果は?見えているではないか、”田舎に観光に行く”と”街に買い物に行く”のどっちに人の心が動くと思う?
 アメリカが最も吸い取りたいジュースは無論日本の体液である。それを考えるとTPP参加は止した方がいい。だが、日本の場合、近所に強盗や泥棒が住んでいる。どうしても用心棒が要る。ここが我が国のジレンマだ。
 そこでいつもの通り過去と未来の人類史を記録した聖書を見てみる。このブログの何処かに既に書いたが、現在、そして最後の世界の覇権勢力は北の王と聖書が言うところのローマ帝国・・つまり欧州とアメリカであってギリシャ文明の跡地に栄えた南の王と呼ばれた勢力は北の王に対抗する力を失って混沌としている。
 ダニエル書なるところにその北の王が”北と東からの知らせに慌てふためいて出て行き、飾りの地と海の島々の間に壮大な天幕を張る”と書いてある。アメリカは既に中近東から軸足を極東に移しオスプレイなどを日本に持ち込んだ。それは慌てふためくさ、テポドンはアメリカまで射程に入れていると言うし、中国は張子の空母・・・ディーゼルエンジンだって?・・タービンじゃあないの??・・・などをひねくるから。
 つまりその天幕のまたの名前はTPP、だろう、本音は。だから日本は逃げられない、政治的には。また逃げないほうがいい。・・・が、そのダニエル書はすぐその後に”北の王は終わりを迎える、誰も助けるものは居ない”と書いている。
 ここに日本の政治家がただならぬ緊張にさらされることが予想される。その北の王が倒れる時、強盗、ドロボウ、つまりマゴグのゴグが日本に向かって食指を伸ばす。

 結論を言おう。思念の世界にどうあっても日本を潰したいモノが存在し、TPPを弄して抜け殻にするか、マゴグのゴグを使って潰すかどっちに転んでもいいようにワナを仕掛けている。ではその解決策はあるか?思念の世界に働きかけることである。しかしこれが難しい、なぜならマルチン・ルターとかカルヴァンとか言う聖書坊主発祥のキリスト教由来開明近代科学啓蒙思想なる魔法にかかっている我々は”思念の世界の・・・”などと言うと、”ソレッ迷信無知蒙昧のアホ”と”バネ仕掛けのように”言う、ように飼育されているから。

 ダマサレルもんか!!

人間と本物の政治家

2012年12月09日 09時38分43秒 | 日記
仏教説話で”ミリンダ王の問い”と言うものがある。車が目の前にある、それを見て『車』はどこにあるか?と問う。車輪か、車軸か、長柄か・・・?・・本質は部分には無い。しかし、・・全体の姿もどうやら違う。つまり車の本質はその概念の内にある。この説話を通して仏教は人間とは実際何か?を暗示しようとしている。
 鏡に姿を写しながらよーく考えて見るといい、自分がそこに居ない事に気が付く。自分が自分の見える姿に重なっていない状況からおかしくなる事を自己同一性の障害と言うのかもしれない、素人だから確たる事は言えないが精神分裂病と言うのはこの辺りが原因ではなかろうか。
 人間は宇宙なる”思念”の針の先よりもまだ微細な揺らぎ乃至はアブクに過ぎない、それが現象化して”俺”、”私”のオーラがあり、そのオーラのこの地上世界での見える映像が、我々が想っていうる”自分”である。その実相貌の全体を実は誰も把握していない。していないから、”解っちゃいるけどやめられない”という事が起こる。この辺りのカラクリを極めようと七転八倒するのがフロイトやユングを始祖とする心理学であり、全くフィジカルにひねくろうとするのが精神病理学、そのどれでもないと言って”スベカラク汝の密作用を知るべし”などと言ったり”先生、真理とは何ぞや”と言う弟子に向かって人指指一本を立てて目をパチクリするのがあの禅と言うものであろう。
 私が何を言いたいか、と言うと、”人はその根に於いては全体の一部である”が、”地上に現象化した映像”としては”孤独に、そのオーラが『我執』と言うメガネを通して垣間見る外界を見て、その解釈する世界”に住んでいる。であるからハトカフェ・オーナーが自らの平和への暑苦しい幻想によって思う”美しい友愛の政治、友愛の外交”が”これはクミシヤスシ”と取られたり”アホカイナ”と言われたりする。
 シャバと呼ばれる世界で鉄火場と言うものをくぐり抜けなければならなかった男どもはIQだの学歴だのと言う枝葉末節を通り越して皆、そこあたりの機微を説明できないが体得している。急坂ワインディングロードを高速で駆け抜けてやろうと言う”野生”を持ち続けている若者はヒール・アンド・トウと言うブレーキとアクセルの絶妙な加減を”理屈では言えないが”体得しているのと同じである。オートマなんて下らないね!(これは余談)
 やっと本題に辿り着いた。政治家は”神の代弁者”として”民を治め、世を平らかならしめる”役割を担う人々である、・・・本来は。誰やらの手ゴマだとか何党の手下集めに呼応した存在であるとすればやがて天罰が下るだろう。つまり、死ねば必ず閻魔の門に誘われ、そこで己の所業の一切を見せられ、自ら検分させられ、自らの行先を自ら決めさせられる。
 卒原発だとか即廃炉だとか2030年までに云々と言う言辞の経済学的、社会学的、原子力技術的論拠は如何に??風力発電に暗騒音は付随しないのか?それによって健康や環境に何か変化が及ばないか?などの事はまだ解明されていないだろう。卒原発を言うあなた、あなたは”工学技術者”の思考回路を知っているか?データと検証とシミュレーションを提示してその上で”こちらにすればこうなる”、”こっちを採ればこうなりそう”と示し、自らこう吟味するが如何?と問う、・・・不平や幻想、理想をラッパ吹くだけでは鼻でせせら笑われ会場を追い出されるだけだ。まさに『女子供の論理』だね。
 ”生活レベルを1960年代にまで戻す、それによって皆さんは今の快適さを諦めなさい、工業力も落ちる、従って現在のように先進国などと威張っては居れない、豪華客船クルーズや海外レジャーなども諦めなさい、車も持てないよ、それでよければ今から廃炉に向けて作業工程を検討しましょう”と言うなら、これは”真面目に考えている人だ”と思う。
 政治家に二種類ある。ウソ(幻想)を平気で語り、平気で忘れる者、とウソ(幻想)を本気で語り、井戸と塀しか残らなくなるまで悪戦苦闘してホントーにする人である。昔はそういう政治家が居たように思う。今は私利私欲の生業的政治関与者が大部分のように思う。