夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

マヤカレンダー2012_1221終末

2012年12月22日 10時26分30秒 | 日記
 なんか大騒ぎしてるみたいだね。このような噂で騒ぎになるかならんかは”民度の違い”だと思う。失礼、言うは悪いが言わにゃわからん(本音)。
 で、結局何にも起こらんかったじゃないか、と大部分、99.99999%の人は思う。僕は思わない、起こったんじゃないか?!歴史の転換点がその前後数日にあったんじゃないか?と考えている。
 黙示録に”太陽を着て月に乗る女が子を産まんとして泣き叫んでいる・・・女は男子を産んだ、そのものは諸国民を鉄の杖で牧する・・”と言う記事が見える。日章旗は太陽、マンデン占星術で日本は女の国、弓なりの日本列島は三日月、失われた20年、不況と度重なる政権交代に苦しんだ日本、日本人は一体何を模索していたのか?”
 自民党政権が当の男子だと言うつもりはない、が、民主政権とその私生児を倒し、戦後70年の大部分を先導した自民党のその再生政権の中に日本人はアイデンティティの萌芽を見たのではなかろうか。自民党の選挙カーの周囲に日の丸を持つ人々が見えた、私はすぐ”日を着て月に乗る”を想起した。
”その子は天に上げられた”、即ち見える形としては存在しない、が、日本国民の無意識の領域で同じ何かの芽が出始めているのではないか?
 そしてその成果がやがて見えはじめる、世界はそこに行き詰まった地上世界の打開策を知る、人類史の新たな時代が始まる。

見える世界と見えない世界

2012年12月22日 10時10分21秒 | 日記
 ブログの新規投稿をやっていて閃いたことがある。書き終わって簡易レビューを見る、”ここは文章が拙いな”と思わず書き直す、直らない、・・・あ、そうか、入力画面じゃないと出来ないんだ。”・・・・ソウカッ!!人生とはこんなもんだ!”。
 この世に生を享けて数十年、人生ってどうしてこう思い通りにならないんだろう、と東奔西走七転八倒臥薪嘗胆極力周旋渾身努力、懸命に生きて、いやあ、運命だねえ、と諦める。何のことはない、プレビュー画面でのたうちまわっていただけだ。入力画面でやらなきゃダメなんだよ。・・・今頃わかってももう遅い。
 プレビューを見て入力の不具合を悟り、入力を訂正する、これが人間存在の意味を解った人のすることだ。暗くて辛気臭くてうらみつらみぐちゃぐちゃどろどろ悪口雑言オンパレードで入力操作をすればプレビューで眺める文章はそりゃあ苦々しいもんだろうぜ。
 

女性と教育

2012年12月22日 08時09分33秒 | 日記
 一般に教育と言うものに二種類ある・・・大まかに分けて・・・。スキルを習得させる教育と特定の知識を得させる教育。如何なる仕事にもスキルは要る、例えば防衛大学、海上保安大学校、警察学校、消防学校、調理師専門学校等々。女子短期大学には幼児教育科、食物栄養学科などがあり市中には理容専門学校などがある。教育もまたスキルである。しかし何故か日本は師範学校を廃してしまった。ここがよくわからない。
 一方、本来の意味での大学とは”研究や思索”を行うところでありスキルの習得は眼中にない、のが建前である。しかし日本の帝国大学は”国家の役人”や”企業に役立つ人間”を養成するところであった。その流れが今に続いている。だから”就活”などと言う行動、言葉がある。
 明治から1945年までの日本人はこの区別をわかっていた。だから東京音楽”学校”であって東京芸術大学ではなかった。今は何故か大学になってしまった。美学や音楽理論(楽理)なら”芸術”大学なる呼称は理解できるのだが。
 おいしい生活を自分のものにするために大学に行く、行かせる、のは要は”勘違いしている"と言いたいのである。その勘違いの延長線上或いは同象限に”女性の高等教育”と言う”日本での概念”があるように思う。短期大学は名前は大学だが実質は専門学校だからこの際差し置く。4年制大学を出た、或いはそれに相当するような活動をする女子を見ると落語の”めぐろのサンマ”を思い出す。
 狩かなんかで野に出た殿様が腹が減った、と百姓屋に飛び込み、そこでサンマをご馳走になる・・・炭で焼いて黒こげで、そこここに炭火がついたのを食べて”これは美味い!”と言う。城に戻って家来にまたあれを食わせろと言う、家来達は殿様が腹を壊しては、と蒸して脂を抜いて小骨を抜いて・・・。”これではないめぐろのサンマじゃ!あれを所望!”と殿様は怒る、というあの落語。つまり”女”が居なくなって、脂っけを抜かれてパサパサの不味いものになってしまっている。要するに”可愛くない”・・・。と言うとその類の女性は私を寄ってたかった罵倒し、コテンパーにブチのめすだろう。そこが浅はか且つ深謀遠慮沈思黙考教養洞察が不足なところだ。
 解りやすく言えば女性が目指すべきは”女になること”であろう。ダイヤモンドの原石に磨きをかけることであって、ダイヤモンドにペンキを塗ることではない。人間を創った神は聖書の冒頭で、”人(男)が一人で居るのはよくない、助け手として二番目の人(女)を創ろう”と言っている。男は女無しにはその本来の能力や力を発揮出来ない、男を生かすも殺すもそのカギは女が握っている、ついでに言うと優秀な子孫を残す主導権もまた女が握っている・・・彼女に慕われて嬉しい結婚をした男性諸君、君たちの喜びの日々は赤ん坊が出来たその日に実質終わる、彼女が欲しいのは君ではなくて君の子供なんだぜ・・・口惜しいけれど。
 そして女性が女になりきった時、輝きだす概念が”かわいい”である。女性は気着いていないだけでそれを知っている。だから”キティちゃん”が洋の東西関係無く女の子やオバサンに好まれ、男は全然関心がない。また女性は”まあ、かわいい”と言う、男はそんな発言はしない。
 女性の社会進出などと言ってそれが立派なこと、開明的なこと、先進国の証、みたいな論調がある。では聞こう、そのような現代社会、西欧諸国と江戸時代の日本とが総体にどっちが幸福である、あったと諸文献から君は洞察するか?そしてどっちの社会で女性が本来の力を発揮していたと見るかね?北条政子、春日の局、篤姫等の話から薄々見えるのは実質日本を動かしていたのは女であった、と思う。ペンキを塗った女性は特に政治の世界に何か勘違いして迷い込んでいるね。