夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

師範学校

2012年12月29日 11時30分31秒 | 日記
 国語、英語は音読で成績は自然に上がるんだかね。なぜわかったものを何回も音読するかって?わかっただけではだめだからだ。
 ボクシングも剣道も基本の打ち方、型は十五分で覚えられる。しかし、もうわかったからいいや、では通用しない。むしろその後の繰り返し練習が大切なわけだ。
引用終わり

 父も叔父も台北第一師範学校を出た。無論縦に出た!当時を知っている人ならばそこが相当の難関であったことはお判りと思う。日本は”本気で”台湾を日本と同じ・・・あらゆる点で・・・国にしようとしていたのだ。当時の台北市は東京と同位に見なされる南の都だった。
 以上は余談

 日本が何故師範学校を廃止したのか理解に苦しむ。”教える”ことは”技術、スキル”である。やってみれば解る。素人では出来ない。その教えるためのスキルを授け、訓練するのが師範学校であったはずだ。これに異議を唱える者はものを知らない。音楽は”先生”によってその学校のレベルが格段に伸びる。体育然り。高校野球を見たまえ、監督の力量一目瞭然。教えることは技術なのだ。そして、先生に”力量”がなければ如何に素質があっても子供は伸びない。
 それを教育に限って大学の教育学部と言うところでやる、という理由がわからない。例えば普通の大学を出れば海上保安官として仕事が・・・出来ないだろう!、自衛官として、出来る??だから先生だって”先生になるための特別な訓練が必要”なんだ。今の中学、高校生、音読の習慣まるっきりない。せっかく成績が上がる方向に教えようとしているのにヒネクリマワシタ時制の問題だのカッコ入れの問題だの、並べ替えだのばかり、の宿題プリントを出すのでサジを投げてしまった。
 そしてこのような高校生がまた大学を出て教師になる、悪循環だ。


 

日本人による日本人のための日本車のデザイン

2012年12月29日 10時55分35秒 | 日記
レクサス、マークX、クラウンなどは、要するにアウディがフロントグリルで七年前にやったことを今頃やっているんだよ。デザインの革新ではドイツに勝てるところはない。
 奥山清行が997やエンツォのボディデザインをしている。あれは、その会社のアイデンティティ的な形と現代をうまく融合している。つまり日本人がデザインで出来るのは無難にまとめることだ。
 日本人がデザインで勝負しようと思うなら西洋的にやってはいけない。日本人による日本人のためのデザインをすることではじめてどこにも負けないものができる。浮世絵なんてはじめから外国など意識していなかった。
引用終わり

 もう一人の息子もトヨタ車大嫌いと言う。あのエンブレムが嫌いなのだそうだ。昔、空冷フォルクスワーゲンの背中に国籍を示すDマークステッカーが貼ってあった。あの楕円がカッコよかった。その、ビートルやポルシェの専門店にフラット・フォーと言うショップがあった。目黒で降りて碑文谷の向こうにあった。そのロゴマークも楕円で、かっこよかった。トヨタのエンブレムを見るとあれが欲しくてたまらん、しかしトヨタのTも入れたい、で、あんな落ち着きの無い如何にも借り物のエンブレムになったのだろうと思っている。いずれにしろあんなのを付けて走りたくない。
 私はビートルに20年乗った。それ以外はダットサン410、ミツビシランサー、スバルだった。ジャジャヤウマはランサーだった。おもしろかった。トヨタはどうもシロウト臭い気がして全く興味が沸かなかった。今の車は全くおもしろくないから運転する気も起こらない。オートマチックなどと言う素人仕様危険いっぱいPL法抵触の車なぞカネがあっても買わない。
 しかし、軽自動車には関心がある。日本人による日本人のための日本車はここから出て来るのではないか?と考えている。もう一息!!
 鳥羽僧正は”売ろう”と思って鳥獣戯画を描いたのではなかろう。大津絵は売ろうと思って描いたのだろうがよもや自分が”有名になろう”などとは思っていなかったのではないか?

 技術者が面白がって作っている、或いは”美しい”を追求している車は日本に今はない。昔はあった、わくわくする車があった。

黙示録16,17,18章と財政の崖、政府の借金1000兆弱

2012年12月28日 17時33分39秒 | 日記
 もともとこのブログは覚えの為にメモの積もりであった。先ほどふと閃いたことがあったので忘れないように書いておこう。無論後で、違った!と気が着くかもしれないが。

 黙示録の16,17,18章に”大いなるバビロン、地の淫婦らと憎むべき者との母”の倒壊終焉の様子が描かれている。その始まりは16章12節に”大いなる河ユウフラテが枯れる”と書いてある。昔、バビロンはユウフラテス河の中洲にあって要害堅固の空前絶後、眼も眩む栄華を極めた都市国家であったらしい。メディア・ペルシャはその河の流れを変え、バビロンを裸にして水門から城内に進入、バビロンを征服した。バビロンは一夜にして滅んだ。謂わばユウフラテスがバビロンを支えていた。
 黙示録言う”大いなるバビロン”は”七つの山の上に座す”とか”多くの水の上に座す”とか”淫婦たちの母”などと表現されている。前後を読んでみると、山とは政治的な機構を、水とは諸々の、民、群集、国、国言葉をあらわすと読める。・・・思うにこれに該当するものはキリスト教由来西欧啓蒙主義を先祖とする商業資本主義貨幣経済であろう。世界中どこを見ても”貨幣”を用いていない民族も国民も国もない。まあ、アマゾンには若干残っているかもしれないが、欲望充足貨幣経済は地上全域に浸透していてそれこそが諸悪の根源になっている。
 そして・・・・!欧州はもとよりアメリカも日本も今や中国も、カネに困っている、・・・状況はさまざまだが経済的に窮しているに変わりはない。窮していないまでもそれに飽くなき欲求は持っている。そして経済を動かす組織から借用している、それに頼っている、それを利用している・・・形式は色々あっても要は経済界にすがっているに変わりはない、だからそれを”乗せて”いる、それは野獣機構の背に乗っている。見たまえ、経団連は自民党勝利と見るや早速すり寄ったではないか。民主党勝利の時はすぐさま民主党に乗っかったぜ。しかし野獣つまり政治機構は最終的に借金を踏み倒す!荒れ廃れさせ、喰らい尽くす、と黙示録は言う。
 こうして世界を運転している燃料とその供給機構が崩壊する。世界は大混乱に陥る。その燃料供給機構は最早永遠に消滅する、と黙示録は言う。多分それがハルマゲドンだろう。こうして今我々が暮らしている様相、仕組みの世界は多分消滅して全く違う、まだ知られていない概念の社会がやってくる、立ち上がる。
 それはどこから来るか?・・・黙示録16章12節に暗示的な記述がある、曰く、”これ日の出ずる方より来たる王たちの途(みち)を備へん為なり・・・”
 日本はこの行き詰まった資本主義貨幣経済とそのバックボーンたるキリスト教が倒壊した後の社会のあり方を提示する責任があるのではないか??もしかしたらその雛形が”江戸”と言われていた時代にあったのではないか?

ケーダンレンと環境大臣

2012年12月28日 13時09分42秒 | 日記
 三年前の夏、自民党が選挙に敗れた時、まるで夫婦のように言動を共にしていたかに見えた経団連が手のひらを返すように民主党にすり寄ったのを知っている。まあ、それが資本主義経済での企業なるものの本性だとは思うが、何と無節操な、と思った。
 今度また、ケーダンレンは早速自民党にすり寄って、会長は民主党の新たな代表者との面会を拒否した由、スレッカラシの尻軽女みたいだ。さすが聖書の黙示録が”娼婦”と言っているだけある。いずれ”野獣”と表現されている、自らその背に乗っている、野獣即ち政治に振り落とされ、食い尽くされるだろう。
 新しい環境大臣は民主党時代の環境大臣からの職務引き継ぎを拒否、何やら批判めいた事を言った由。私は意図的な売国陰謀以外は”労をねぎらう・・・当たっていようがいまいが礼儀として”ことはあっても去りゆくものに批判を浴びせる下劣な根性を好かない。彼は国民が期待を寄せる、己の属する政党に早速ドロを塗った。
 このような旧習、悪癖をこそ国民が嫌うことにまだ気がつかないか!?その品格の無さが彼の仕事の邪魔をするんじゃないか?
 節操を忘れ、謙遜を捨て、勝ちに傲るものを好かない。驕れるもの久しからず、・・・ひとえに風の前の塵の如し・・・

自衛官

2012年12月28日 10時39分30秒 | 日記
 お母さんは真冬の冷たく寒い朝でも誰よりも早く起きて部屋に火を入れ、食事の支度、弁当の支度をして家族を待ち、送り出し、あと片付けをする。そしておそらく誰よりも遅く風呂に入り、もしかしたら洗濯をし、それを干して一日を終わる。
 それを知らない、気付かない、或いは当然、と思う愚か者も多かろう。”ありがとう”と言う人々も居よう。でもそれでは足りない。イエスさんも言っている、”暖かくして、食べて、・・”と言うだけで”体に必要なものを与えないで何がいいことか、言葉だけでは無意味である”と言っている。
 だからこういう場合の”ありがとう”の言葉は単に”自分を正当化して自分の労苦を逃げる、逃げ口上”でしかない。子供達、旦那衆、舅、姑、心せよ、お母さんは、妻は、嫁は、下女ではない。彼女もまたあなたと同じく一個の人格を持った、密かな願いや希みなどを持った”人”であるとの認識を持ったとき、そこからその煩いに手を貸そう、との行動が出て来る。
 何が言いたいと思う?
 日本が先進国の仲間として認知されている大きな要素の一つが自衛隊の海外での活動であることに異議を唱えるのは最早、主義者でしかない。一歩譲っても先の東日本大災害で自衛隊なくしてその後始末が出来たか、と言われて、”出来た”と言える者は居ないだろう。
 そしてみんなこぞって”ありがとう”と言った。それで十分と思っているならそれこそ”甘え”、”言葉、美辞麗句による責任逃れの狡い根性”である。
 軍隊でもない、さりとて災害救助隊でもない、組織の立ち位置を明確にしないで置いて、使う時だけは便利に使役し、”国民を愛する戦士の義務”を言う、フザケルな!と言いたい。
 要するに他者の労苦を見て見ぬふりをし、自分だけが安穏て生きて行ければそれでいいのだ、との腐った甘え根性を捨て、受けるべきものに正当な報いをしなければならない。日本の再生はそこからしか始まらない。主義者やその片割れの報道などに迎合するのは愚かである。