と言っておきながら別に書きたいことは何もない。今日が広島の58回目の原爆忌であることは前々から意識はしていたのだけれど特にこれという実感もないままその一日は過ぎようとしている。
この日を風化させることは絶対によくないと思うし、その意味では自分がこの日に何も感じていないことにはやや衝撃を受けてもいるのだが、しかし、この日が「日本の」平和運動の原点になっているような現実にはやや違和感を覚えてもいる。「唯一の被爆国」というアイデンティティは確かに大きいがそれは議論の対象となりえないがゆえに「何故」平和が必要であり「いかに」それが実現されるのかという議論を封じてしまったように思われる。
結局憲法と同様それは「神学」になってしまい、ナンセンスなものになってしまった。平和を求める声に本当に必要なのは唯一の被爆「国」というナショナルな物語に回収されない、真の意味で普遍的なアイデンティティであると思う。「憲法にそう書いてあるから」や、「被爆国だから」という理由ではなく「戦争がいやだから」「平和がいいから」というグラス・ルーツな実感に基づいた平和主義が必要だと思う。
この日を風化させることは絶対によくないと思うし、その意味では自分がこの日に何も感じていないことにはやや衝撃を受けてもいるのだが、しかし、この日が「日本の」平和運動の原点になっているような現実にはやや違和感を覚えてもいる。「唯一の被爆国」というアイデンティティは確かに大きいがそれは議論の対象となりえないがゆえに「何故」平和が必要であり「いかに」それが実現されるのかという議論を封じてしまったように思われる。
結局憲法と同様それは「神学」になってしまい、ナンセンスなものになってしまった。平和を求める声に本当に必要なのは唯一の被爆「国」というナショナルな物語に回収されない、真の意味で普遍的なアイデンティティであると思う。「憲法にそう書いてあるから」や、「被爆国だから」という理由ではなく「戦争がいやだから」「平和がいいから」というグラス・ルーツな実感に基づいた平和主義が必要だと思う。
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